天山ウイグル王国

天山ウイグル王国
回鶻 856年 - 13世紀 チャガタイ・ハン国
ウイグルの位置
公用語 古ウイグル語
首都 ビシュバリク
可汗・イディクート
856年 - ? 懐建可汗
変遷
唐から可汗位を受ける 856年
モンゴルに従属1211年

天山ウイグル王国(てんざんウイグルおうこく)とは、11世紀から13世紀に現在の新疆ウイグル自治区に存在したウイグルのつくった王国である。西ウイグル王国高昌回鶻西州回鶻とも称される。都はビシュバリク。主に東西の中継交易で栄えた。

歴史編集

ウイグルの西走と天山ウイグル王国の成立編集

840年、モンゴル高原の回鶻(ウイグル)可汗国が崩壊すると、各グループは各テギン(王子)を奉じて四散した。そのうち厖(ほう)テギンの15部は西のカルルクに亡命しようと西走したが、厖テギンを奉じた一派は分岐し、途中で南下して焉耆(アルク)に落ち着き、北庭(ビシュバリク)地方には僕固俊率いる一派が割拠した。そのままカルルクへ西走した一派はのちにカラハン朝を創始することとなる。厖テギンは焉耆にて可汗(カガン)に即位し、北庭(ビシュバリク)や西州(高昌)、輪台(ウルムチ付近)などに代官を派遣した。856年にはに使者を送り嗢禄登里羅汨没蜜施合倶録毘伽懐建可汗(ウルグ・テングリデ・クトゥ・ボルミシュ・アルプ・キュリュグ・ビルゲ・懐建・カガン)の称号を受けた。

866年、北庭の僕固俊は西州、輪台の諸城を攻撃し占領、天山ウイグルを統一した[1]

870年、ウイグルは帰義軍張淮深を攻めたが、西桐海(現在の敦煌南西のアクサイ・カザフ族自治県の蘇干湖)で敗れた。875年、再度攻撃を仕掛けたが敗退した。876年、ウイグル軍は伊州(ハミ)を攻め落とすことに成功した。以後の詳細な記録はモンゴル時代まで途絶えてしまう。

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『遼史』と『宋史』の記録編集

帝国(契丹族)の歴史書『遼史』には「和州回鶻」(和州は高昌の別称)、「阿薩蘭回鶻」といった名称で記録されている。「阿薩蘭回鶻」(アルスラン・ウイグル)とは、当時の天山ウイグルの可汗が代々「○○・アルスラン・カガン」(獅子王の意)と称していたことに由来する。900年代から1100年代にかけて天山ウイグルは遼帝国に朝貢をおこなった。

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一方、北宋の歴史書『宋史』では、「高昌回鶻」と「亀茲回鶻」が存在し、それぞれの伝がたてられ記録されている。「高昌回鶻」は『遼史』でいう「阿薩蘭回鶻」であり、その記録は984年太平興国九年)をもって終わっている。「亀茲回鶻」は亀茲(クチャ)に拠った回鶻で、1001年咸平四年)から記録が始まっている。

亀茲回鶻についてマスウーディーの『黄金の牧場と宝石の鉱山』では「タガズガズ(Tagazgaz=ウイグル)はホラーサーンと中国の間に位置するクーシャーン(Kouchan=亀茲)に拠り、その王はイル・ハーンと称し、マニ教を信仰していた」と記している。これを高昌回鶻と同じ政体であるか、異なる政体であるかは議論されるが、藤枝晃によると、「両者は別であり、高昌回鶻は亀茲回鶻に併合された」としている。

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カラハン朝の侵攻編集

1017年カラハン朝ベラサグン地域から進撃して来た。天山ウイグル王国軍はこの攻撃に対して強く反撃に出て、侵入して来たイスラム軍を撃退した。そして、10万帳(一説には30万帳)と伝えられる天山ウイグル軍がカラハン朝の首都であるカシュガル地域へと追撃を続け、さらにはセミレチエ(七河流域)に侵入し、副都のベラサグンからわずか8日の行程のところにまで迫った。カラハン朝の大ハンであるアフマド・トゥガン・ハンは病を抱えながら先頭に立って「最凶悪な異教徒」たる敵を迎え打ち、天山ウイグル軍を撃退した。アフマド・トゥガン・ハンは勢いに乗じてトルファンの地まで反撃し、カラハン朝軍は20万人あまりを殺害し、10万人を捕虜とするという大勝利を収め、また大量の戦利品を獲得した。アフマド・トゥガン・ハンは帰還した後、その信仰のために「感情的な抑圧」を受けて病死した。アフマド・トゥガン・ハンによるこの反撃は未完に終わり、天山ウイグル王国に対する「聖戦(ジハード)」は成功せず、タリム盆地東部のイスラム化は300年間ほど遅れることとなった。この戦争によって大量の人口が死亡し、高昌地区(トルファン)の仏教文化は大きな破壊を被った。アフマド・トゥガン・ハンの死後、カラハン朝ではさらに激烈な内部争いが起こり、天山ウイグル王国に対する戦争は棚上げにされた。

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西遼(カラ・キタイ)の属国となる編集

 
12世紀末の中央アジア

1124年に滅ぼされると、皇族の耶律大石は一部の契丹族を率いてモンゴル高原の鎮州可敦城(現在のボルガン県近辺)に逃れて、現地の諸部族の力を借りて天祐皇帝と称した。しかし、この地にも金の勢力が迫ってきたため、耶律大石はアルタイ山脈を越えて更に西へ移動する。移動に際してビシュバリクを本拠地とする天山ウイグル王国と衝突し、1131年にウイグル王国は耶律大石の部下を捕らえて金に引き渡した[6]東トルキスタンの横断に失敗した耶律大石は天山山脈の北方に進路を変え[7]1132年ごろにウイグルを臣従させる[8]。さらにベラサグンを本拠地とする東カラハン朝から援助を求められると、東カラハン朝と敵対するテュルク諸部族を破った後、ベラサグンを占領した。ベラサグンを征服した耶律大石は町をグズオルドと改称して新国家の首都に定めた。

チンギス・カンに帰順する編集

ウイグル王国には西遼から一人の総督(少監)が派遣されて駐屯していたが、その専横がはなはだしく、民衆から憎まれていた[9]1209年、ウイグル国王(イディクート)バルチュク・アルト・テギンは国相ビルゲ・ブカの助言を得てその少監をカラ・コージャ(高昌)で殺害した[10]。翌年(1210年)、モンゴル高原を統一したばかりのチンギス・カンに使者を送り、帰順の意を示した[11]1211年、これに喜んだチンギス・カンは娘のアル・アルトゥン(アルトゥン・ベキ)[12]をバルチュク・アルト・テギンに娶らせる約束をした。

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モンゴル帝国時代―ウイグル駙馬王家―編集

バルチュク・アルト・テギンは『世界征服者の歴史』などではジョチらチンギスの4人世嗣に準ずる「第5位の世嗣」と称されるほど尊重された[14]。以後モンゴル帝国ではウイグル王家は「ウイグル駙馬王家」としてコンギラト駙馬家と並ぶ、駙馬王家筆頭と賞されモンゴル王族に準じる地位を得る事となる。モンゴル帝国および大元朝ではウイグル出身官僚がモンゴル宮廷で多数活躍し、帝国の経済を担当するようになった。この時代『世界征服者の歴史』や『集史』などではウイグル王国方面を指して「ウイグリスターン(Ūyghristān)」と呼んでいる[15]。初期のモンゴル帝国では「ウイグリスタンからジャイフーン川(=アム川)に至る地域」はひとまとまりの地域として扱われ、漢文史料上で「別失八里等処行尚書省」と呼ばれる統治機関が置かれていた[16]

ウイグル王家の没落編集

「五番目の世嗣」として格別の厚遇を受けたウイグル王家はモンゴル帝国治下で繁栄を続けたが、1260年代に始まるオゴデイ家のカイドゥがカアンたるクビライに叛旗を翻したことで状勢は急変した[17]。チャガタイ家を併合し、中央アジアで急速に勢力を拡大したカイドゥの勢力(「カイドゥの国」、カイドゥ・ウルスとも呼ばれる)はクビライの支配する大元ウルスと対立し、ウイグリスタンは両勢力の抗争の最前線となってしまった[18]1275年にはカイドゥに臣従したチャガタイ家のドゥアが天山ウイグル王国の首都カラ・ホジョを包囲し、時の君主コチカル・テギンは自らの娘を差し出すことで滅亡を免れた(カラ・ホジョの戦い[19][20]。しかし、これ以後もカイドゥ・ウルスの攻撃は続き、ウイグル王家はカラ・ホジョからクムル(哈密)、クムルから永昌へと東方に移住せざるを得なくなった[21]。永昌に移住したウイグル王家はこの地に定住し、以後ウイグル王家は一時的にウイグリスタンに帰還することはあったものの、基本的には永昌地方の王家として歴史を終えた。一方、ウイグル王家に代わってウイグリスタンを支配したのがドゥアを初めとするチャガタイ王家で、ドゥア家は14世紀初頭にカイドゥ・ウルスを乗っ取り、遅くとも1320年代ケベクの治世にウイグリスタン支配を確立した[22]。チャガタイ家によるウイグリスタン支配は、15世紀以後にもモグーリスタン・ハン国に受け継がれた。

天山ウイグル王国の「イディクート」編集

 
ベゼクリク千仏洞のウイグル貴族供養者(9世紀頃か)

以降、ウイグルのカガンに即位した人物は数名判明しているが、西方のイスラーム政権でも東方の宋・遼・金の諸王朝でも断片的な情報のみが伝わる程度で、ウイグル王国の王統すら判明していない。このため、王国の具体的な記録はモンゴル帝国時代まで待たねばならない。ウイグル西遷の後、何時からかは判然としないが、後期には天山ウイグル王国の君主は伝統的な「カガン」(Qaγan)から「イディクート」(Ïduq qut > Ïdï qut > Ī dī qūt、「神から授かった吉祥」の意味)という称号を用いるようになった。初期にはカガンのほか、ハン(χan)やイリグ(Ilig、il+ligで「国持てる」の意味)といった称号を用いていたが、本来はバシュキル族などの君主号だったものを使用するようになったようである。これをマニ教からの影響とみる説もある。

元は遊牧民であるウイグルは、この地のオアシス都市国家の影響を受けて定住化するようになり、東西交易、いわゆるシルクロードの中継地点として大いに栄えた。

元来ウイグル族は突厥など同じくシャーマニズム信仰を有していたが、『カラ・バルガスン碑文』によるとウイグル可汗国時代の初期、牟羽可汗洛陽滞在時の763年頃にマニ教の僧侶の感化を受けて僧侶4名を伴って帰国して以来、ウイグル王侯にマニ教が広く普及した。マニ教をもたらしたのはソグド人であったと見られている。この地に来てからは仏教・景教(ネストリウス派)なども信仰するようになり、在来の定住民(印欧語族イラン系言語の話者)と融和した。このことにより中央アジアのテュルク化が進み、後にトルキスタンという言葉が生まれることになる。

文化編集

文字ソグド文字から借用したウイグル文字が使用された。これは後にも述べるように、モンゴル文字満州文字として受け継がれることになる。

 
ソグド語によるマニ教典断簡(トルファン高昌故城出土)

宗教については、ウイグル王国治下のオアシス都市の定住民は漢人やトカラ人などに加えソグド人など多民族がおのおのコミュニティーを形成していた。主にソグド人が信仰していたマニ教ゾロアスター教ネストリウス派キリスト教なども行われたが、仏教が最も盛んであった。9世紀頃まではトルファン盆地一帯の仏教徒はおもに漢人やトカラ人であったようである。ベゼクリク千仏洞は、トルファン出土文書によると唐代前期には麴氏高昌国時代創建と思われる「寧戎窟寺」ないし「寧戎寺」と呼ばれた仏教寺院であった。ウイグル王国の重要な特徴として宮廷内外で勢力のあったソグド人の影響もあって、天山ウイグル王国時代初期にはウイグル王侯の庇護のもとマニ教が隆盛し「国教」的地位にまでなっていたことがあげられる。しかし、マニ教の勢力は11世紀には急速に衰微し仏教勢力に「国教」の地位をとって代わられたようである。

上述の通り、元来ウイグル族は突厥など同じくシャーマニズム信仰を有していたが、回鶻可汗国の第8代保義可汗(在位808年 - 821年)が建立した『カラ・バルガスン碑文』によると、第3代牟羽可汗(在位759年 - 779年)が洛陽滞在時の762年ないし763年にマニ僧に会って感化を受け、帰国するにあたってマニ僧4名を連れ帰り、以降回鶻可汗国ではマニ教が盛んに信仰されるようになった。これ以降マニ教はウイグルのいわば「国教」的宗教となった。9世紀後半、天山ウイグル王国が成立し、ウイグル王侯がビシュバリクなどオアシス都市を直接支配するようになると、それまで漢人やトカラ人が信仰していた仏教勢力を圧し、マニ教の宗教施設や文書類を大量に作成するようになる。一部では仏教寺院をマニ教寺院へ改修する場合も見られ、ベゼクリク千仏洞などは新規のマニ教窟に加え、仏教僧侶による僧坊をマニ教窟に改装した例などが見られる。

天山ウイグル王国が、どのような経過でマニ教から仏教へ移行したのかはまだよく分かっていないが、10世紀後半までのアラビア語・ペルシア語資料ではトグズグズ(Taghzghuz/Toquz Oγuz)、つまりウイグル勢力の宗教はマニ教であったことが記されている。敦煌やトルファン発掘のウイグル語文書などからは10世紀後半にマニ教寺院の破壊とその再建、ウイグル王族による仏教寺院の建立の記事が見られ、この頃にはマニ教の勢力が衰退に向かっていたことが分かる。11世紀後半の『テュルク語辞典(Dīwān Lüḡāt al-Türk:1072年 - 1077年作成)』の著者マフムード・カーシュガリーの述べるところによれば、この頃には天山ウイグル王国は完全に仏教国になっていたようである。ソグド人の伝えたマニ教がウイグル王侯の西遷によってトルファン盆地一帯にもたらされたが、元来この地域は漢人やトカラ人によって仏教が隆盛していた。彼ら仏教徒は支配層のウイグル語を修得し、ウイグル語による仏教典を大量に制作してウイグル人への布教に努めていたようである。マニ教側も千仏洞や文書類から仏教側の攻勢に対抗すべく仏教徒側をとりこむ教論を展開するなどしていたようだが、ウイグル王侯の仏教への改宗などによって勢力は大きく衰微し、ついに王国内部から駆逐されたと見られている。モンゴル帝国時代前後の千仏洞の壁画にはソグド系と思われる寄進者が多数描かれており、ソグド系の人々の多くも仏教に改宗していたものと思われる。この頃から仏教勢力よる新来のマニ教寺院などの破壊や仏教寺院への改修が勧められ、ベゼクリク千仏洞などの現在の姿に至っている。これ以降モンゴル帝国時代を経てチャガタイ・ウルスのもとで15世紀頃からイスラーム化が進展するまで、ウイグル王国は仏教を信奉する事になる。

19-20世紀に各国の探検隊が敦煌トゥルファンから持ち帰った出土文書の中には、ウイグル文字や古ウイグル語で書かれた仏典も多数含まれている。これらの研究より、天山ウイグル王国で信仰された仏教は、マニ教の強い影響を受けつつ、トカラ仏教・敦煌仏教・ソグド仏教など東西の諸要素を混在させた独特のものであったことが分かってきている。天山ウイグル王国はマニ教文献の宝庫であり、マニ教国教時代にはソグド文字マニ文字ウイグル文字漢文などで書かれたソグド語パフラヴィー語パルティア語古ウイグル語漢語の資料が多数発掘されている。これらの資料は宗教学としてマニ教そのものの究明だけでなく中期イラン語諸語の重要な資料として言語学的にも貴重である。

ギャラリー編集

歴代君主編集

前半期の王称号[23]

在位 王名 即位前の名前 ラテン字表記
?-856-? ウルグ・テングリデ・クトゥ・ボルミシュ・アルプ・キュリュグ・ビルゲ・懐建・カガン 厖特勤 uluγ tängridä qut bulmïš alp külüg bilgä 懐建 qaγan
?-954-? トルテュンチュ・イル・ビルゲ・テングリ・イリグ ? törtünč il bilgä tängri ilig
?-983-? トルテュンチュ・アルスラン・ビルゲ・テングリ・イリグ・シュンギュリュグ・カガン ? törtünč arslan bilgä tängri ilig süngülüg qaγan
996-? ボギュ・ビルゲ・テングリ・イリグ ? bögü bilgä tängri ilig
1007-? キュン・アイ・テングリテグ・キュセンチグ・コルトゥレ・ヤルク・テングリ・ボギュ・テングリ・ケニミズ ? kün ay tängritäg küsänčig körtlä yaruq tängri bögü tängrikänimiz
?-1019-? キュン・アイ・テングリデ・クトゥ・ボルミシュ・ウルグ・クトゥ・オルナンミシュ・アルピン・エルデミン・イル・トゥトゥミシュ・アルプ・アルスラン・クトゥルグ・キョル・ビルゲ・テングリ・ハン ? kün ay tängridä qut bulmïš uluγ qut ornanmïš alpïn ärdämin il tutmïš alp arslan qutluγ köl bilgä tängri χan
? キュン・アイ・テングリレルテ・クトゥ・ボルミシュ・ブヤン・オルナンミシュ・アルピン・エルデミン・イル・トゥトゥミシュ・ウチュンチ・アルスラン・ビルゲ・ハン ? kün ay tängrilärtä qut bulmïš buyan ornanmïš alpïn ärdämin il tutmïš üčünč arslan bilgä χan
?-1067-? テングリ・ボギュ・イル・ビルゲ・アルスラン・テングリ・ウイグル・テルケニミズ ? tängri bögü il bilgä arslan tängri uyγur tärkänimiz

モンゴル帝国帰順前後のイディクート

永昌路移住後の高昌王

  • ネウリン・テギン(紐林的斤/Neülin tigin)(1308年 - 1318年)…コチカルの子
  • テムル・ブカ(帖木児不花/Temür buqa)(1318年 - 1329年)…ネウリンの子
  • センキ・テギン(籛吉/Sengki tigin)(1329年 - 1332年)…テムル・ブカの弟
  • タイピヌ・テギン(太平奴/Taypinu tigin)(1332年 - 1352年)…センギの弟
  • オルク・テムル(月魯帖木児/Ürük temür)(? - ?)…父は不明
  • サンガ(桑哥/Sangga)(? - ?)…オルク・テムルの子
  • スス・テギン(雪雪的斤/Sösök tigin)(? - ?)…ネウリンの弟、駙馬都尉
  • ドルジ・テギン(朶児的斤/Dorǰi tigin)(? - ?)…ススの子、駙馬都尉
  • バヤン・ブカ・テギン(伯顔不花的斤/Bayan buqa tigin)(? - ?)…ドルジの子
  • エセン・ブカ(也先不花/Esen buqa)…バヤン・ブカの子

※漢字名は『高昌王世勲碑』[26]、『元史』列伝第九より。ケスメズ、サランディ、オグルンチは『集史』、『世界征服者の歴史』より[27]。オルク・テムル以下は『新元史』列伝第十三より。アルファベット転写はルイス・アンビスの『元史』諸王表訳注に拠った[28]

なお、トルグン・アルマスの『ウイグル人』では、以下のような可汗の名称と在位年数となっている[29]

  1. 848–866: パンテキン
  2. 866–871: ボコテキン
  3. 940–948: イルディミンハン
  4. 948–985: アルスランハン
  5. 1125–?: ビルゲテキン
  6. ?–?: イセントムル
  7. 1208–1235: バウルチュク・アルトゥテキン
  8. 1235–1245: クスマイン
  9. 1246–1255: サルンテキン
  10. 1255–1265: オグルンジテキン
  11. 1265–1266: マモラクテキン
  12. 1266–1276: コジガルテキン
  13. 1276–1318: ノリンテキン
  14. 1318–1327: トムル・ボカ
  15. 1327–1331: センギテキン
  16. 1331–1335: タイパン

天山ウイグル王家編集

高昌公主編集

「駙馬(キュレゲン)王家」としてチンギス・カン家と姻戚関係を持ったウイグル王家は、代々チンギス・カン家の女性(公主)を妻として娶るようになった。『元史』巻109諸公主表はウイグル王家に嫁いだチンギス・カン家の女性を、「高昌公主」と総称している。

  1. エル・アルトゥン公主(El altun >也立安敦/yělì āndūn,التون بیکی/altūn bīkī)…チンギス・カンの娘で、バルチュク・アルト・テギンに嫁ぐ
  2. アラジン・ベキ(Alaǰin >الاجین بیکی/ālājīn bīkī)…アルトゥン公主の死後にバルチュクに嫁ぐ予定であったが、バルチュクが亡くなったためキシュマインに嫁ぐ
  3. ババカル公主(Babaqar >巴巴哈児/bābāhāér)…グユク・カンの娘で、コチカル・テギンに嫁ぐ
  4. ブルガン公主(Bulqan >不魯罕/bùlǔhǎn)…オゴデイ・カアンの孫娘で、ネウリン・テギンに嫁ぐ
  5. バブチャ公主(Babuča >八卜叉/bābǔchā)…オゴデイ・カアンの孫娘で、姉のブルガン公主の死後にネウリン・テギンに嫁ぐ
  6. ウラジン公主(Ulaǰin >兀剌真/wùlàzhēn)…安西王アナンダの娘で、バブチャ公主の死後にネウリン・テギンに嫁ぐ
  7. ドルジスマン公主(Dorǰisman >朶而只思蛮/duǒérzhǐsīmán)…コデンの孫娘で、テムル・ブカに嫁ぐ
  8. バンジン公主(Banǰin>班進/bānjìn)…コデンの孫娘で、センギに嫁ぐ
  9. ブヤン・クリ公主(Buyan Quli>補顔忽礼/bǔyán hūlǐ)…コデンの孫娘で、姉のバンジン公主の死後にセンギに嫁ぐ
  10. アカ・エセン・クト公主(Aqa esen qutu>阿哈也先忽都/āhā yěxiān hūdōu)…テムル・ブカの子のブダシリに嫁ぐ

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脚注編集

[脚注の使い方]
  1. ^ 『旧唐書』や『新唐書』ではこの事件を「僕固俊が吐蕃を撃退した」としているが、森安孝夫は僕固俊によるクーデターとし、吐蕃ではなく厖テギン可汗の勢力を一掃したとしている。
  2. ^ 森安孝夫『ウイグルの西遷について』、『新唐書』
  3. ^ 『遼史』表第八(属国表)
  4. ^ 藤枝晃『高昌回鶻と亀茲回鶻』
  5. ^ 丸山「カラハン王朝と新疆へのイスラム教の流入」『文教大学国際学部紀要』p62
  6. ^ 伊原、梅村『宋と中央ユーラシア』、336頁
  7. ^ バルトリド『中央アジア史概説』、62頁
  8. ^ 梅村「オアシス世界の展開」『中央ユーラシア史』、133,139頁
  9. ^ 安部1955,7-8頁
  10. ^ 安部1955,9-11頁
  11. ^ 安部1955,15-17頁
  12. ^ (『集史』ではイル・アルタイ Īl-Altaī)
  13. ^ ドーソン『モンゴル帝国史1』p96-97
  14. ^ 安部1955,24-26頁
  15. ^ 松井2002,89-90頁
  16. ^ 安部1955,43-49頁
  17. ^ 安部1955,84-89頁
  18. ^ 安部1955,92頁
  19. ^ 劉2006,268頁
  20. ^ 安部1955,95-97頁
  21. ^ 安部1955,115-116頁
  22. ^ 松井1998,9-10頁
  23. ^ 『世界の歴史⑦ 宋と中央ユーラシア』p337
  24. ^ 『モンゴル秘史3』p84
  25. ^ 『元史』巻124列伝11哈剌亦哈赤北魯伝
  26. ^ 『世界の歴史⑦ 宋と中央ユーラシア』p445-452
  27. ^ 『モンゴル帝国史2』p291-294
  28. ^ Louis Hambis (1954). Le chapitre CVIII du Yuan che : les fiefs attribués aux membres de la famille impériale et aux ministres de la cour mongole d'après l'histoire chinoise officielle de la dynastie mongole. Monographies du Tʿoung pao, v. 3.
  29. ^ トルグン・アルマス 著、東綾子 訳 『ウイグル人』集広舎、2019年12月20日 (原著1989年)、391頁。ASIN 490421384XISBN 978-4-904213-84-1NCID BB29416497OCLC 1136689046全国書誌番号:23316697 
  30. ^ 劉1984,105-106頁

参考文献編集

関連項目編集