仙台幼児誘拐殺人事件

天津七三郎から転送)

仙台幼児誘拐殺人事件(せんだいようじゆうかいさつじんじけん)は、1964年昭和39年)12月21日宮城県仙台市で発生した誘拐殺人事件。

仙台幼児誘拐殺人事件
場所 日本の旗 日本宮城県仙台市
標的 S(当時5歳)
日付 1964年昭和39年)12月21日
概要 誘拐殺人事件
攻撃側人数 1名
死亡者 S
犯人 天津七三郎(芸名、犯行当時29歳)
動機 借金の返済
関与者 ms
賠償 死刑執行済み
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犯人に対して一審は無期懲役を宣告したが、二審において死刑判決が下された。

犯人は元映画俳優だった。

概要 編集

1964年12月21日、仙台市内に住む5歳の幼児が、自宅に掛かってきた電話(通園先の幼稚園の外国人神父が帰国するので記念写真を撮影するため来園してほしいという内容)で出向いたところを、乗用車に乗った男により連れ去られた[1]。乗用車を運転する男は言を左右にして幼児を連れ回し、やがて幼児は帰りたいと泣いたり暴れたりした[1]。幼児が助手席に立ち上がった際に男が首をつかんで揺さぶったところ、幼児は失神し、男は幼児を車のトランクに入れ、その後ロープで首を絞めて殺害した[1]。この間、男は身代金を要求する電話を掛けたが、繋がらなかった[1]。男は帰宅して幼児の遺体を物置に放置した後、改めて母親に身代金500万円を用意するよう電話を掛け、同日夜に指定した場所に現金を受け取りに現れたところを逮捕された[1]

犯人 編集

1935年に仙台市に生まれ、犯行当時29歳だった[1]。父は警察官だったが、中学生時代に結核で病死する[1]。高校進学後、自身も病弱で学校を長欠したことや母が別の男性と同居するようになったため、単身上京し「天津 七三郎」の芸名で映画俳優となる[1]。だが、俳優時代に多くの出費をして母の援助に頼り、母自身も同居男性から借金をするような状況であった[1]。加えて、女性問題もあって1962年末頃に俳優業を辞め、帰郷して母と自らの借金の返済に当たるべく、会社をいくつか設立するがいずれも失敗した[1]。1964年春に手形の期日延長を申し入れた際に被害者の父と知り合った[1]。その後犯人は家庭を持つに至ったが、借金も増え続け、その返済を迫られて犯行に及んだものだった[1]。犯行を着想するに際しては、(前年発生して当時は未解決だった)吉展ちゃん誘拐殺人事件も念頭にあったと一審判決で認定されている[1]

裁判 編集

一審で検察側は死刑を求刑する[2]。これは、吉展ちゃん誘拐殺人事件などを契機に誘拐罪のうち営利誘拐の罰則を引き上げる刑法改正後、初の誘拐事件に対する死刑求刑だった[2]。しかし、仙台地方裁判所は1965年4月5日の一審判決で、極刑に相当するとしながらも、被告(犯人)の生い立ちや殺害が偶発的であったこと、逮捕後の改悛を情状として無期懲役を言い渡した[1][3]。裁判長は「被告人の権利を守ってやるのは裁判所だ。憎しみやみせしめのためだけで刑を重くすることがあってはならないと思う」と閉廷後にコメントした一方、被害者の両親は判決を聞いて途中で退廷した[3]

判決に対して検察側は控訴し、二審の仙台高等裁判所は1966年10月18日に「本件殺人を目して、単純な全くの偶発的犯行と同一視することは到底できない」とし、生い立ちなどの事情を「加味斟酌しても、前叙その他審理にあらわれた一切の情状を総合してみれば、被告人に対しては極刑をもって臨むのが相当である」と原審を破棄して死刑判決を下した[4][5]。被告側は上告したが、1968年に死刑が確定する[5][6]。犯人に対しては、1974年7月5日に死刑が執行された[6]。39歳没。

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 仙台地方裁判所 昭和39年(わ)417号 判決 - 大判例
  2. ^ a b 読売新聞1965年3月23日夕刊9頁
  3. ^ a b 読売新聞1965年4月6日朝刊9頁
  4. ^ 仙台高等裁判所 昭和40年(う)124号 判決 - 大判例
  5. ^ a b 読売新聞1966年11月1日朝刊15頁
  6. ^ a b 「幼児誘かい殺人『K』の死刑執行」読売新聞1974年8月24日朝刊18頁

関連文献 編集

  • 斎藤充功『誘拐殺人事件』同朋舎出版、1995年