太原府(たいげんふ)は、中国にかつて存在した唐代から民国初年にかけて、現在の山西省中部に設置された。

山西省の太原府の位置(1820年)

概要 編集

太原郡や唐初の并州を前身とする。

723年開元11年)、唐により并州が太原府に昇格した[1]742年天宝元年)、太原府は北京とされた。唐の北京太原府は河東道に属し、太原晋陽太谷文水楡次清源交城陽曲寿陽広陽楽平の13県を管轄した[2]

北宋のとき、太原府は河東路に属し、陽曲・太谷・楡次・寿陽・盂・交城・文水・祁・清源・平晋の10県と大通・永利の2監を管轄した[3]

のとき、太原府は河東北路に属し、陽曲・太谷・平晋・清源・徐溝・楡次・祁・文水・交城・盂・寿陽の11県と陽曲・百井・赤塘関・天門関・陵井駅・晋寧・晋祠・団柏の8鎮を管轄した[4]

1218年モンゴル帝国により太原府は太原路総管府と改められた。1305年大徳9年)、地震のため太原路は冀寧路と改称された。の冀寧路は中書省に属し、録事司と直属の陽曲・文水・平晋・祁・楡次・太谷・清源・寿陽・交城・徐溝の10県と汾州石州忻州平定州臨州保徳州崞州管州代州台州興州堅州嵐州盂州の14州を管轄した[5]

1368年洪武元年)、により冀寧路は太原府と改められた。太原府は山西省に属し、直属の陽曲・太原・楡次・太谷・祁・徐溝・清源・交城・文水・寿陽・盂・静楽河曲の12県と平定州に属する楽平県と忻州に属する定襄県と代州に属する五台繁峙の3県と岢嵐州に属するの2県と保徳州、合わせて5州20県を管轄した[6]

のとき、太原府は山西省に属し、陽曲・太原・楡次・太谷・祁・徐溝・交城・文水・嵐・興・岢嵐州の1州10県を管轄した[7]

1913年中華民国により太原府は廃止された。

脚注 編集

  1. ^ 旧唐書』玄宗紀上
  2. ^ 旧唐書』地理志二
  3. ^ 宋史』地理志二
  4. ^ 金史』地理志下
  5. ^ 元史』地理志一
  6. ^ 明史』地理志二
  7. ^ 清史稿』地理志七