太田 輝資(おおた てるすけ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将後北条氏の家臣。太田資高の子。受領名右衛門佐、後に備中守

 
太田輝資
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 不明
死没 慶長8年4月17日1603年5月27日
官位 右衛門佐備中守
主君 後北条氏
氏族 太田氏
父母 父:太田資高
兄弟 景資康資輝資
紫雲院[1]
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略歴 編集

初め、兄・康資と共に武蔵国江戸城にいたが、兄が同族の岩付城太田資正と共に里見氏に通じると、これに従わずに資正の嫡男・太田氏資と結んでこれを放逐した。以後、氏資の配下となるが、氏資が三船山合戦にて戦死した後は北条氏からの養子である太田源五郎氏房兄弟に仕えた。右衛門佐は北条氏光と重なるために官途名を太田氏ゆかりの備中守に改めたが、備中守は北条氏ゆかりの名前で同氏五代の家中を通じてこの名乗りを許されたのは、輝資が唯一の例であった[2]

甲州征伐においては、上野国方面から甲斐武田氏の所領である信濃国への進撃を命じられたが、進撃に手間取っているうちに、逆に織田氏滝川一益による上野進出を許してしまい、北条氏政の怒りを買った。

小田原征伐後に所領を失い、関東の領主となった徳川家康より仕官の誘いを受けるが、旧領である武蔵谷古田(現在の埼玉県川口市)に退いて隠遁生活を送っていたという。

脚注 編集

  1. ^ 松平家信継室
  2. ^ 備中守と北条氏の関係は長く不明であったが、北条早雲の実父が伊勢備中守であることが確定したため、北条氏の先祖と重なるこの官途名を名乗ることが避けられたと考えられるようになった。輝資は氏光に名乗りを譲る形になったので特に認められたとみられている(木下聡「室町幕府・関東足利氏における町野氏」(佐藤博信 編『関東足利氏と東国社会 中世東国論:5』(岩田書院、2012年))。