太田黒伴雄
幕末・維新期の志士、神風連の乱の首領
太田黒 伴雄(おおたぐろ ともお、天保6年(1835年) - 明治9年(1876年)10月25日)は、日本の士族。神風連の乱の首領、指導者。幼名は鉄兵衛。
来歴
編集1835年(天保6年)、肥後国飯田熊助の三男[1]として熊本被分町(現・熊本市)に生まれる[2]。大野家に養子に入り大野鉄兵衛と称した。その後、江戸にて朱子学・陽明学を学ぶ。帰藩後、林桜園より国学と神道の手ほどきを受け、尊王攘夷の思想を深めた。
新開大神宮の太田黒伊勢守に入婿し、姓名を太田黒伴雄と改め、神官となる[3]。立派で大柄な太田黒は、宮部鼎蔵、轟武兵衛ら勤王党先輩たちからも信頼され対等に扱われていた。
1876年(明治9年)、明治政府の出した廃刀令に激怒して加屋霽堅、斎藤求三郎ら、約170名とともに、神風連の乱を起こすが銃弾を受けて重傷を負い、法華坂で義弟の大野昇雄の介錯により果てる。享年42。1924年(大正13年)、正五位を贈られた[4]。
和歌
編集- おきて祈りふしてぞ思う一筋は 神そ知るらむ我が国のため
- 天照神をいはひて国安く 民おさまれと世を祈るかな
- かぎりなきめぐみにおのが百年の よはひを捨てて君に報いむ