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失権の原理(しっけんのげんり、英語:Doctrine of lapse)は、イギリス統治時代、インド藩王国に適用された養子による相続を認めない無嗣改易による併合政策。

概要編集

18世紀から19世紀にかけて、イギリスはインドの植民地化を進めるにあたり、各地の王侯や領主らと軍事保護条約を締結し、イギリス側の駐在官を受け入れて一定の内政権を認める藩王国とした[1]

イギリスは藩王に嫡子がいない場合、養子を認めずに無嗣改易をとったが、これは藩王国それぞれで判断が分かれた。藩王国をイギリス領に併合すると、藩王国の家臣などが失業し、住民なども不満分子となるため、基本的にイギリスはむやみに併合しなかった。さらには役員会の統治業務も増えるため、養子である若い藩王が成人するまで、イギリスの行政官が藩王国を統治する手段を取った。

だが、ジェイムズ・ラムゼイ (初代ダルハウジー侯爵)インド総督在任中、失権の原理を厳格に適用した。失権による併合はそれまでに幾度かあったものの、ダルハウジー侯爵のように厳格に適用した総督はいなかった[2]。ダルハウジー侯爵は「イギリスはインドにおける最高権力者であり、藩王の交代に対する許諾権がある」とし、藩王国3つの区分に分け、後二者に対しては相続を拒否できるとした[2][1]

  • かつてどこの国にも従属したことのない国
  • かつてムガル帝国マラーター同盟などの領土にあり、のちに会社に従属した国
  • 会社の力で成立、あるいは復活した国

ダルハウジー侯爵はその在任中、後継者が絶えたサーターラー藩王国1849年)、サンバルプル藩王国(1849年)、ジャーンシー藩王国1854年)、ナーグプル藩王国(1854年)、タンジャーヴール藩王国1855年)などを漸次併合した[3]。これらにより、併合地は前任者のときより30パーセント増加した。

また、イギリスによって既に領土を奪われ、年金で暮らしていた君主たちに対しても「失権の原理」を適用し、1851年に旧マラーター王国の宰相バージー・ラーオ2世が死ぬと、その養子ナーナー・サーヒブに年金の支払いを拒否した。1855年に旧カルナータカ地方政権の当主グラーム・ムハンマド・ガウス・ハーンが死ぬと、同様の措置を取った。

しかし、1857年インド大反乱が勃発すると、併合された藩王国の旧領でも王族、住民が反乱に呼応する事態となった。特にナーナー・サーヒブの起こした反乱には手を焼き、カーンプルのイギリス系住民が虐殺されている。反乱鎮圧後、イギリスは藩王国をインド支配における傀儡勢力として保護し、養子による相続も認められるようになった[4]

脚注編集

  1. ^ a b 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.297
  2. ^ a b ガードナー『イギリス東インド会社』、p.322
  3. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、pp.297-298
  4. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.298

参考文献編集

  • 小谷汪之 『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』 山川出版社、2007年。 
  • ブライアン・ガードナー; 浜本正夫訳 『イギリス東インド会社』 リブロポート、1989年。 
  • バーバラ・D・メトカーフ、トーマス・D・メトカーフ; 河野肇訳 『ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史』 創士社、2009年。 

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