奈良文化財研究所
奈良文化財研究所(ならぶんかざいけんきゅうじょ)は、奈良県奈良市二条町2丁目9-1に所在する独立行政法人国立文化財機構の一部門。古都奈良の文化財、埋蔵文化財の研究や平城宮跡、藤原宮跡の発掘調査も手がける。また奈良市や明日香村に資料館などを公開している。略称、奈文研(なぶんけん)。所のシンボルマークは平城宮跡から出土した「隼人の楯」である[1]。
座標: 北緯34度41分30.1秒 東経135度47分17.9秒 / 北緯34.691694度 東経135.788306度
沿革編集
- 1952年(昭和27年)に平城宮跡が特別史跡に指定されたことに伴い、同年4月奈良市春日野町で奈良文化財研究所として発足した。
- 1954年(昭和29年)7月、奈良国立文化財研究所と改称、1960年(昭和35年)、所内に平城宮跡発掘調査事務所(後、調査部)を設置し、1968年(昭和43年)、文化庁発足により文化庁付属機関となった。
- 1973年(昭和48年)4月、飛鳥藤原宮跡発掘調査部を設置し、翌年4月には埋蔵文化財センターを開設した。
- 1975年(昭和50年)3月、明日香村奥山に飛鳥資料館をオープン。
- 1980年(昭和55年)4月、本庁舎を奈良市二条町2丁目9-1に移転。
- 1986年(昭和61年)から1989年(平成元年)にかけて長屋王邸宅の発掘を行った。
- 1998年(平成10年)には平城宮跡を含む古都奈良の文化財がユネスコ世界遺産に登録されている。
- 2001年(平成13年)4月、東京文化財研究所と統合され、独立行政法人文化財研究所の奈良文化財研究所となった。
- 2007年(平成19年)4月、独立行政法人文化財研究所は独立行政法人国立博物館と統合し、独立行政法人国立文化財機構が発足した。
- 2013年(平成25年)8月、本庁舎の老朽化に伴う建替事業を開始[2]。11月、奈良市佐紀町247番1に仮設庁舎を設置。旧本庁舎は解体。
- 2014年(平成26年)4月、本庁舎建替事業に伴う発掘調査(平城第530次)開始[3]。
- 2015年(平成27年)6月、機関リポジトリシステム「全国遺跡報告総覧」運用開始[4]。
- 2018年(平成30年)3月、新本庁舎完成。9月25日より新本庁舎での業務開始[5]。
組織編集
研究部門としての企画調整部(5室)、文化遺産部(4室)、都城発掘調査部(5室)、埋蔵文化財センター(4室)、事務局としての研究支援推進部(3課)、展示施設としての飛鳥資料館を設置している。
公開施設編集
- 平城宮跡資料館(奈良市) - 8世紀の日本の都城平城京の出土遺物や建物模型などを展示する。
- 都城発掘調査部 藤原宮跡資料室(橿原市) - 飛鳥・藤原地域の古代遺跡の発掘調査や藤原京跡出土遺物の展示を行う。
- 飛鳥資料館(明日香村) - 6世紀から7世紀にかけての飛鳥時代の古代遺跡の出土品や模型を展示する。
- 平城宮跡に復元された朱雀門や遺構展示館、第一次大極殿は文化庁所有だが、管理・研究に協力する。
保管文化財編集
独立行政法人国立文化財機構所有の国宝・重要文化財のうち、指定時の官報告示で「奈良文化財研究所保管」とされているものを挙げる。
国宝編集
重要文化財編集
- 施釉陶器(三彩、二彩、緑釉、灰釉)、須恵器、土師器、黒色土器、瓦類の一括。平安時代[8]。
国際協力編集
大韓民国の国立文化財研究所や中華人民共和国の中国社会科学院考古研究所とも共同研究を行い、発展途上国の文化財担当者の研修を行う。今後は東アジア規模での研究テーマを設定する予定である。
その他編集
遺跡誤認問題編集
2010年(平成22年)7月に、同研究所は、藤原宮跡で天皇の即位儀礼が行われる「大嘗宮」の可能性がある建物跡などが発見されたと発表した。根拠としては、柱穴跡が42本見つかり、これらが建物跡や塀跡、門跡であると確認され、これが「平城宮の大嘗宮跡と類似した構造」であるとされた。その中で藤原宮があった時代の柱穴は1基しかなかったなどの矛盾点も見つかり、同研究所は11月18日に調査結果を撤回する事態になった[11]。
被災史料の修復編集
2011年(平成23年)3月の、東日本大震災の津波によって海水や泥で被害を受けた岩手県・宮城県の古文書や史料を真空凍結乾燥機(フリーズドライ)を用いて乾燥させた後、泥や異物を除去する作業をしている[12][13]。
ウィキペディアへの協力編集
2015年(平成27年)より運営を開始した「全国遺跡報告総覧」は、全国の発掘調査報告書を一般公開し、誰もがPDF形式で閲覧またはダウンロードすることを可能にした機関リポジトリサービスだが、2021年(令和3年)4月26日から、登録された刊行物(発掘調査報告書・博物館展示会図録など)・動画・論文などの各種コンテンツを、ウィキペディアの出典情報として正確に、かつ書式に従い効率よく引用出来るようにするため、引用時にコンテンツ表記を自動表示するアイコンを開設した。これによりウィキペディアの、主に遺跡や考古学に関する事項を編集するユーザーは、執筆においては発掘調査報告書を参照し、出典として引用したい場合には書誌情報を迅速にコピー・アンド・ペースト出来るようになった[14]。
発掘調査の報告書で虚偽情報編集
同研究所は、日本最古とされる富本銭が1990年代に出土した飛鳥池遺跡に関して、発掘調査の報告書が16年間に亘り未完成であったにもかかわらず、「完成した」とする虚偽の情報をウェブサイトに記載し続けていたことが、2021年12月24日に報じられた。2003年度に2004年度末の刊行が決まり、印刷業者と制作契約を締結したが、15万点を超える出土遺物の整理や分析に時間がかかり、報告書を作成できなかったと説明している。一方で同研究所は、制作費約910万円を業者に支払う不適切な会計処理を行い、ウェブサイトや発行物には2004年度に刊行済みとしていた(実際の完成は図版編が2008年度、本文編が2021年12月)。同研究所はコンプライアンス違反に当たるとして、本中真所長を厳重注意処分としたほか、発掘調査を担当した松村恵司前所長ら元所長2人も厳重注意相当となった[15]。
脚注編集
注釈編集
- ^ 2017年(平成29年)9月15日付けで、既指定の重要文化財4件(下記(a) - (d))を統合し、これに未指定の木簡309点(平城宮跡内の5地点から出土したもの)を追加指定のうえ、「平城宮跡出土木簡 3184点」の名称であらためて国宝に指定した。
- (a)「平城宮跡大膳職推定地出土木簡 39点」 - 2003年(平成15年)5月29日、重要文化財指定。
- (b)「平城宮跡内裏北外郭官衙出土木簡 1785点」 - 2007年(平成19年)6月8日、重要文化財指定。
- (c)「平城宮跡内膳司推定地出土木簡 483点」 - 2010年(平成22年)6月29日、重要文化財指定。
- (d)「平城宮跡造酒司出土木簡 568点」 - 2015年(平成27年)9月4日、重要文化財指定。
出典編集
- ^ 奈良県. “「隼人の楯」”. 奈良文化財研究所. 2019年9月20日閲覧。
- ^ 国立文化財機構奈良文化財研究所「001 奈良文化財研究所 本庁舎建替事業」、国立文化財機構奈良文化財研究所、2013年7月2日、2021年12月12日閲覧。
- ^ 国立文化財機構奈良文化財研究所「0001 奈良文化財研究所本庁舎建て替えに伴う発掘調査-平城第530次- 記者発表資料」、国立文化財機構奈良文化財研究所、2014年7月4日、2021年12月12日閲覧。
- ^ 全国遺跡報告総覧(奈文研)
- ^ 本庁舎完成の御礼(奈文研)
- ^ 平成29年9月15日文部科学省告示第115号
- ^ 平成6年6月28日文部科学省告示第98号
- ^ 奈良県興福寺旧境内土壙(一乗院宸殿跡下層)出土品 - 文化遺産オンライン(文化庁)
- ^ 令和2年9月30日文部科学省告示第118号
- ^ 平成15年5月29日文部科学省告示第104号
- ^ 【遺跡誤認】藤原宮跡「大嘗宮」はなかった! 奈良文研「全面的に誤り」 42の柱穴、実は1つだけ… 産経新聞 2010年11月18日
- ^ 真空凍結乾燥機に搬入 - 津波被害の古文書 - 奈良新聞2011年6月15日
- ^ 奈良文化財研究所で真空凍結乾燥器による被災資料の乾燥作業が始まる
- ^ なぶんけんブログ-全国遺跡報告総覧:遺跡位置表示機能およびWikipedia記事に全国遺跡報告総覧登録コンテンツを引用する際の表記を自動表示する機能の公開-(奈良文化財研究所)
- ^ 「刊行した」と16年間ウソ 「富本銭」出土の発掘調査報告書 奈文研 毎日新聞 2021年12月24日
参考文献編集
- 奈良文化財研究所編 2014年(平成26年)9月10日『独立行政法人国立文化財機構・奈良文化財研究所概要2014』