奈良氏(ならし)は、武蔵国出自の、東国武士団氏族のひとつである。

出自 編集

成田氏系図[1]によると奈良氏は、成田氏の初代、成田太夫助隆の三男が、奈良の地に領地を得て、奈良三郎高長を名乗ったことに始まるとされる。

ちなみに成田氏系図によれば、次男は別府の地を得て別府氏を、四男は玉井の地を得て玉井氏を名乗っている記述から、奈良の地とは、武蔵国幡羅郡奈良郷(現埼玉県熊谷市奈良地区)に比定される。

熊谷市上奈良の妙音寺(熊谷市上奈良702)には、後代の建立ではあるが、奈良氏初代とされる「奈良三郎の墓」(熊谷市指定記念物)が現存している。時代は平安末期、東国武士団の勃興期である。

奈良氏についての記録では、1156年保元の乱を描いた保元物語[2]で他の成田氏の一族らとともに、源義朝の家臣としての活動が見られる。またその後の鎌倉期には、吾妻鏡の中で、源頼朝の奥州遠征勝利の凱旋上洛、および再上洛時の記述[3]、更にその後の承久の乱での宇治川合戦後の記述[4]などに、鎌倉御家人として、奈良氏の一族の名前が散見される。

歴史 編集

鎌倉期源頼朝奥州征伐に従軍し[3]、その恩賞として、鹿角由来記[5]によれば、成田氏安保氏秋元氏とともに奈良氏は、陸奥国鹿角郡に領地を得て、鹿角四頭として入植した。鹿角奈良氏の惣領家は、大湯の地(現秋田県鹿角市十和田大湯)を領地として、大湯氏を名乗った。

承久の乱後に、三河国細川郷(現愛知県岡崎市)に領地を得た細川氏に付き従って入植した奈良氏の一族は、南北朝期に入ると細川氏の台頭とともに、細川家の重臣として、その名前が歴史に見えるようになる。

細川頼之の代には、奈良太郎が、讃岐国鵜足津(現香川県宇多津町)に領地(聖通寺城)を得ている。[6]

次の細川頼元の代に奈良氏は、摂津国守護代として、奈良五郎左衛門入道俊阿の名前が見え、摂津国の垂水荘(現大阪府豊中市・吹田市の一部)にも領地を得ている。[7]

その後の応仁期、細川勝元の代には奈良元安が現れ、細川家四天王のひとりとして、讃岐国鵜足津郡と那珂郡に領地を保持している。[8][9]

しかし戦国期に入ると、細川氏の衰退に伴い、讃岐奈良氏も徐々に衰え、1580年頃の長曾我部元親の讃岐進攻により、遂に滅ぼされてしまうが、摂津垂水荘に逃れていた奈良氏子孫は、豊臣秀吉の四国統一後に、讃岐へ帰還したと伝えられる。[8][9]

また、戦国期まで命脈を保って来た奥州鹿角の奈良氏一族(大湯氏等)は、1591年の九戸政実の乱に於いて、九戸方として参戦したが豊臣秀吉の奥州仕置き軍に敗れ、大湯四郎左衛門次は首謀者一味として、栗原郡三迫の地で処刑された[5][10]。この時、豊臣方(南部氏側)の仕置を恐れた鹿角奈良氏の一族は、鹿角の地を離れ、津軽・秋田方面に逃れて生き延びたとされる[5][11]

弘前藩では、明治5年の廃藩置県の際に提出された弘前藩由緒書きには、16名もの奈良姓藩士の名前が見える[12]。その子孫に歌手奈良光枝画家奈良美智がいる。

発祥の地である武蔵国に残った奈良氏一族については、室町期には、上杉家家臣であった成田氏の家臣として、永正7年(1510年)の権現山城の合戦に参陣した、奈良六郎の名前が見える[13]

しかしその後の成田記によれば、永正14年(1517年)武蔵国の奈良氏惣領家は、同族である成田氏、別府氏、玉井氏らによって攻められ、滅ぼされたとされる[14]。しかしその後の戦国期、成田氏長の家臣団名簿には、奈良氏の一族とみられる奈良下野の名前が見えている。[15]

脚注 編集

  1. ^ 成田系図:「群書系図部集」第5巻(群書類従完成会編 1985.4)に収録
  2. ^ 保元物語上巻「主上三条殿に行幸の事 付官軍勢揃えの事」および「白川殿攻め落とす事」に成田太郎、別府次郎らとともに、奈良三郎の名前。
  3. ^ a b 吾妻鏡:建久元年(1190年)11月7日の記録に、成田七郎、別府太郎らの名前とともに、奈良五郎、奈良彌五郎の名前。 吾妻鏡:建久六年(1195年)3月10日の記録に、奈良五郎の名前。
  4. ^ 吾妻鏡:承久三年(1221年)6月18日の記録に、奈良五郎、奈良兵衛尉の名前。
  5. ^ a b c 鹿角由来記「鹿角郡四天侍之事」:南部叢書(南部叢書刊行会編 1927)に収録。 類書に「鹿角由来集」、「鹿角郡旧記」(奧南落穂集)、「鹿角縁起」がある。
  6. ^ 讃州細川記「細川諸士の事」香川景助誌 天和三年(1683年):香川叢書(香川県編 1941)巻2に収録。
  7. ^ 東寺百合文書「摂津国守護細川頼元書下案」永和二年(1376年)3月17日付:京都府立京都学・暦彩館蔵 東寺百合文書「摂津国守護代奈良俊阿書状案」永和二年(1376年)9月11日付:京都府立京都学・暦彩館蔵
  8. ^ a b 南海通記 巻五「細川定四臣記」香西成資著 寛文三年(1663年)に、奈良太郎左衛門尉元安の記述。
  9. ^ a b 西讃譜誌 巻十「細川氏被官 下」丸亀藩編に、讃岐奈良氏の記述。
  10. ^ 浅野長政等書状(盛岡歴史文化館蔵)、南部根源記「九戸記」、奥州南部九戸軍記(千葉常左衛門著)
  11. ^ 鹿角由来記「鹿角郡四十二館に侍四十二人居候事」の大湯氏の条、奧南落穂集の大湯氏の条
  12. ^ 津軽家文書「由緒書」明治5年:弘前市立図書館蔵
  13. ^ 成田記「上田蔵人神奈川籠城井成田家戦功の事」 小沼小十郎著 昭和15年:国立国会図書館
  14. ^ 稿本「郷土忍の歴史」「成田氏時代上編」 森尾津一著:Web行田郷土史研究会2012編
  15. ^ 成田家分限帳 成田氏長著:国立国会図書館

出典

1、成田系図「群書系図部集」第5巻 巻第162 塙保己一編纂/太田藤四郎補 群書類従完成会 1985.4 国立国会図書館

2、芳賀矢一校「保元物語」 富山房 明治44.1 国立国会図書館

3、Web「吾妻鏡を読む」http://kamakura-history.holy.jp/frame-000.html

4、Web「吾妻鏡を読む」http://kamakura-history.holy.jp/frame-000.html

5、鹿角由来記「南部叢書」第1冊 309頁 太田孝太郎 等校 南部叢書刊行会 昭和2.6 国立国会図書館

6、讃州細川記「香川叢書」第二 香川県編 香川県 昭和16 国立国会図書館

7、東寺百合文書:東寺百合文書web ヰ函/45/ 

  東寺百合文書:東寺百合文書web ア函/84/

8、南海通記「南海通記:史料叢書」巻之五 香西成資著 弘成舎 大正15 国立国会図書館

9、西讃譜誌「西讃譜志」京極家編 藤田書店 昭和4 国立国会図書館

10、書状:浅野長政等三名書下、浅野長吉・堀尾義春・井伊直正・蒲生氏郷連署書下 天正19年 盛岡歴史文化館蔵

   南部根元記(九戸叛逆之事)「南部叢書」第2冊 太田孝太郎 等校 南部叢書刊行会 昭和2.6 国立国会図書館

   九戸軍記:Web青森県史デジタルアーカイブシステム 「07青森県史資料編中世1」 青森県環境生活部

11、鹿角由来記「南部叢書」第1冊 309~312頁 太田孝太郎 等校 南部叢書刊行会 昭和2.6 国立国会図書館

12、津軽家文書「由緒書」:Web弘前市 古文書の利用について 津軽家文書総目録(2193KB) 80頁 第55

13、「成田記」小沼小十郎著 今津健之助 昭和15 国立国会図書館

14、Web 稿本「郷土忍の歴史」 成田氏時代上編 森尾津一著 行田郷土史研究会2012

15、「成田家分限帳」14(写) 成田氏長著 国立国会図書館