奈良 茂左衛門(なら もざえもん、1695年元禄8年) - 1725年10月8日享保10年9月3日))は、江戸時代材木商である。初名は戌松(いぬまつ)、名は広璘(こうりん)、号は泰我(たいが)・安知、通称奈良茂(ならも)。奈良屋茂左衛門五代目である。

なら もざえもん

奈良 茂左衛門
生誕 戌松(いぬまつ)
1695年元禄8年)
日本の旗 日本武蔵国江戸
死没 1725年10月8日(享保10年9月3日享年31(満29 - 30歳没)
日本の旗 日本
死因 病気(病名不明)
住居 日本の旗 日本武蔵国江戸
国籍 日本の旗 日本
別名 名:広璘(こうりん)
号:泰我(たいが)・安知
通称:奈良茂(ならも)
職業 自営業材木商
活動期間 ? - 1725年10月8日(享保10年9月3日
時代 江戸時代中期
活動拠点 日本の旗 日本武蔵国江戸深川黒江町
家族 父:4代目勝豊
弟:6代目勝屋
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人物・来歴 編集

代々、深川黒江町において材木商を営んだ。

泰我は先代から40万両の遺産をうけつぎ、遊里に出入りしてその驕奢はきわまりなかった。吉原中万字屋の名妓玉菊を愛した。玉菊は酒をこのみ、ついにそのために斃れると、泰我は「いと早くうつろひそむる菊よりも心しほるる秋の夕ぐれ」と歌を詠んで弔った。1716年(享保元年)、その一周忌追善に、俳諧師乾什河東節の詞をつくらせ、十寸見河丈山彦源四郎に作曲させ、これを『水調子』と名付けて語らせた。その年の盂蘭盆会に、吉原の茶屋の軒ごとに燈籠をつって玉菊の精霊を祀らせた。

のち、上方にいき、帰途に病を得て、1725年10月8日(享保10年9月3日)に死去した。享年31(満29 - 30歳没)。

関連項目 編集