奥村悳輝

日本の江戸時代前期~中期の武士。加賀藩年寄奥村庸礼の子で、加賀八家奥村分家3代当主。従五位下丹波守

奥村 悳輝(おくむら やすてる、承応2年10月5日1653年11月24日) - 宝永2年閏4月20日1705年6月11日))は、加賀藩年寄。加賀八家奥村分家第3代当主。

奥村悳輝(石川県立歴史博物館蔵)

父は奥村庸礼。母は横山康玄の娘。正室は品川雅直の娘。子は奥村明敬奥村温良横山貴林奥村有定。幼名千松。初名和広、和長、和貴。通称大蔵、兵部、因幡、壱岐。号は澗宇。

生涯 編集

承応2年(1653年)、加賀藩年寄奥村庸礼の次男として金沢に生まれる。兄多宮が夭折したため父の嫡男となる。万治4年(1661年)9歳で藩主前田綱紀に御目見する。寛文6年(1666年)、綱紀に仕える。延宝3年(1675年)、近習取次となり、翌年知行1500石を与えられる。延宝7年(1679年)、若年寄となり800石加増。後に1700石の加増を受け、貞享3年(1686年)に家老となり、さらに1000石の加増を受け禄高5000石となる。貞享4年(1687年)、父庸礼の死去により家督と1万2450石を相続し、合わせて禄高1万7450石の人持組頭となる。宝永元年(1705年)12月、従五位下丹波守に任官。宝永2年(1705年)閏4月20日、53歳で死去した。家督は嫡男明敬が相続した。六男貴林は横山任風の養子となり、七男有定(定賢)は奥村宗家有輝の養子となって家督を相続した。

父庸礼と同じく、藩主綱紀の命で儒学者朱舜水の弟子となった。

参考文献 編集

  • 『加賀藩史稿』