女真文字
女真文字(じょしんもじ、女真文: 、、発音: [dʒu ʃə bitxə])は、中国の華北、東北部に金を建てた女真族が使用した文字。女真大字と女真小字の2種類の文字があるとされる。
女真文字 | |
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![]() 、女真文字による「女真」 | |
類型: | 未解読文字 (表語文字と表音文字の両方が認められる) |
言語: | 女真語 |
発明者: | 完顔希尹、熙宗 |
時期: | 12世紀-15世紀頃 |
親の文字体系: | |
Unicode範囲: | 割り当てなし |
ISO 15924 コード: | Jurc |
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青銅器時代中期 前19–15世紀 |
メロエ 前3世紀 |
カナダ先住民 1840年 |
注音 1913年 |
概要編集
現在残されている文字が、女真大字であるか女真小字であるかは今のところ判明していない。現時点では、大字とする説が有力である。また小字は、(下記の『吾妻鏡』や銀簡に見られるような)大字の組み合わせ文字のことであろうとされる。それだけでなく、大字を基礎にして、音を表す部品を加えるなどの修正が行われている。
字形は、全体に正方形に収まる形をし、漢字と共通した部品が使われているなど、全体の構造が漢字に似ている。『女真訳語』に見られる文字の画数は10画未満で、隣国西夏の西夏文字のような複雑さはない。明らかに漢字から借用されたと思われる文字と、契丹文字由来と思われる文字、由来不明の文字等が混淆しているように見える。また、表音文字と表語文字が混在しており、表音表記も必ずしも一音節を表すとは限らず、複数の音節を表すと思われる文字も存在し、音節文字としての法則は明らかではない。日本の国字とは相互に影響し合ってはいないと見られるが、「凩」に似た文字もある。書体には、楷書の他に草書も存在する。
文献資料として、明代に編纂されたとされる華夷訳語のひとつ『女真訳語』があり、また女真文字を記した碑文や遺物も比較的(契丹文字よりは)多く存在する。
現存の12件の女真大字石刻のうち、11件は12世紀から13世紀の金代に集中しており、1件は明代に属するものである。
- 慶源郡女真大字碑(天眷元年または皇統元年7月26日(1138年9月2日または1141年8月29日))
- 海龍女真大字石刻(大定7年(1167年)3月)
- 大金得勝陀頌碑(大定25年7月28日(1185年8月29日))
- 昭勇大將軍同知雄州節度使墓碑(大定26年4月26日(1186年5月16日))
- 金上京女真大字勸學碑(世宗の治世)
- 蒙古九峰石壁女真大字石刻(明昌7年(1196年)6月)
- 奥屯良弼詩石刻(承安5年(1200年))
- 奥屯良弼餞飲碑(大安2年7月29日(1210年8月11日))
- 北青女真大字石刻(興定2年7月26日(1218年8月18日))
- 女真進士題名碑(正大元年6月15日(1224年7月3日))
- 希里札剌(ヒリジャラ)謀克孛菫女真大字石函(金代中晩期)
- 永寧寺記碑(永楽11年9月22日(1413年10月16日))…明代の石碑
歴史編集
14世紀に金王朝の歴史を編纂した正史の『金史』によれば、1119年(天輔3年)に金の太祖阿骨打の命令により、完顔希尹や完顔耶魯らが契丹文字や漢字を参考に女真大字を作成したとされる。女真小字の方は、1138年(天眷元年)に金の第3代皇帝熙宗が制定し、1145年(皇統5年)に公布したという。大字小字共に『金史』に具体的な文字の詳細は述べられていない。
金の公的な文字として西京に官立学校を建てて学ばせ、普及が図られた。『史記』『白氏策林』『論語』『孟子』『老子』などの女真文字を用いた翻訳もなされたらしいが、全て佚書となっており、内容は明らかではない。金の最盛期と評価され、後世においては大定の治として高く評価されている第5代皇帝世宗は、女真文字の使用を奨励し、女真の風俗文化を維持する政策を採った。
1234年(天興3年)の金滅亡以降も、中国東北部の女真族の間では使われていたらしく、1413年(永楽11年)に作成されたと思われる碑文(奴児干都司永寧寺碑)には、漢文、チベット文字、モンゴル文字に並んで女真文字も記されている。このことから、少なくとも明代、15世紀初頭の段階ではまだ女真文字を解し、使用できる人々が暮らしていたと考えられている。
女真族は後にモンゴル文字を参考にした満洲文字を使用することとなるが、満洲文字の使用された最も早い時期の碑文は1630年(崇禎3年)に作成されたものであり、少なくともこの時点までには既に女真文字は使用されなくなっていたと思われる。
女真文字に関する日本の記録編集
日本の『吾妻鏡』の中に、貞応3年2月29日(1224年3月20日)の記述として、女真の船が越後国寺泊(現在の新潟県長岡市寺泊)に漂着して、その際に乗船していた一行が持っていた銀簡に意味不明の4文字が記されていたことが書かれており、その文字が模写されている。江戸時代に林羅山が朝鮮通信使の文弘績にこの文字について尋ね、文弘績は「王国貴族」と読んだ、という逸話がある[1][2]。
明治になって、書かれている文字が女真文字であることは判明したが、内容は不明のままであった。後の研究により、この文字は「国之誠」と読め、銀簡は金国の通行証に当たるものであることがわかっている。1976年に、当時のソ連沿海地方のシャイギン城址で、『吾妻鏡』に書かれた文字と同じ文字を記した銀簡が発掘され、『吾妻鏡』の記述が正しかったことが明らかになった。
近代における研究編集
一般にも手に入りやすい女真文字の研究資料としては、
- ヴィルヘルム・グルーベ『Die Sprache und Schrift der Jučen』(Leipzig, 1896)=葛魯貝『女真語言文字考』(Tientsin, 1941)
- 金光平・金啓孮『女真語言文字研究』(内蒙古大学出版社、1964)
- Gisaburo N. Kiyose『A Study of the Jurchen Language and Script: Reconstruction and Decipherment』(Kyoto, 1977)
- 金光平・金啓孮『女真語言文字研究』(文物出版社、1980)
- 愛新覚羅烏拉熙春『女真言語文字新研究』(明善堂、2002)
- 『明代の女真人──『女真訳語』から『永寧寺記碑』へ──』(京都大学学術出版会、2009)
- 愛新覚羅烏拉熙春・吉本道雅『韓半島から眺めた契丹・女真』(京都大学学術出版会、2011)
- 愛新覚羅烏拉熙春『명나라 시대 여진인:《여진역어》에서 《영영사기비》까지』(경진出版、2014)
がある。
研究者編集
- ヴィルヘルム・グルーベ
- Louis Ligeti
- 金光平
- 金啓孮
- 清瀬義三郎則府
- ダニエル・ケイン (言語学者)
- Alexander M. Pevnov
- 烏拉熙春(愛新覚羅氏)
脚注編集
- ^ 古典籍資料のなかの『外国語』 - 大阪府立中之島図書館
- ^ 信州発考古学最前線vol39~52 - vol.50-52 『女真の『パイザ』発見』、清瀬義三郎則府の論文に関する言及あり(『契丹女真新資料の言語学的寄与』『日本語学とアルタイ語学』明治書院, 1991年)
参考文献編集
- 金光平・金啓孮『女真語言文字研究』文物出版社、1980年。
- 愛新覚羅烏拉熙春『明代の女真人──『女真訳語』から『永寧寺記碑』へ──』京都大学学術出版会、2009年。
- 愛新覚羅烏拉熙春・吉本道雅『韓半島から眺めた契丹・女真』京都大学学術出版会、2011年。
関連項目編集
外部リンク編集
- Jurchen Studies[リンク切れ]
- Omniglot:Jurchen script - 女真文字概要。
- 亜細亜のフォント - 女真文字のTrueTypeフォントがある。
- 女真大字碑刻銘文[リンク切れ]
- 世界第12件女真大字石刻[リンク切れ]
- Mr.Jin Guang ping and His Study of Big and Small Script in Khitan and Jurchen Languages[リンク切れ]
- 女真文字研究と愛新覚羅家学[リンク切れ]