好地 由太郎(こうち よしたろう、1865年(慶応元年)5月15日 - 没年月日不詳)はホーリネスの伝道者。

出獄時
伝道旅行
妻と母

生涯 編集

1865年(慶応元年)5月15日千葉県金田村に生まれた。1882年(明治15年)に17歳で奉公先の女主人に対して性的罪を犯し、それを隠蔽するため殺害・放火して逮捕され、死刑を宣告されるが、未成年のために無期懲役刑になる。

鍛冶橋監獄で、安川亨に聖書を送られる。冤罪で投獄されていた青年伝道者の祈りに心を動かされて、入信した。牢獄内で迫害を受けるが、留岡幸助が教戒師になり、留岡と妻の夏子に大きな影響を受けた。

その後、模範囚になって1904年(明治37年)に出獄して諸方で伝道活動をして、1905年(明治38年)4月に留岡幸助の司式で結婚して巣鴨に住んでいたが、7月より開館した浅草の駒形伝道館に住み込んで伝道をした。

会館以来連夜説教会を開催して多くの人が救われた。公園内で路傍伝道説教をしたが、9月に由地が留守の間に、伝道館で婦人会の最中に、暴徒に襲われ家財道具を焼かれた。好地の妻は暴徒に追われて逃げ場を失い、隅田川大川端まで逃げて逃げ場を失い投身自殺をしようとしたが、聖書を見ておもい留まり、暴徒から逃れることができた。

後に好地のこの時逮捕された暴徒の一人に聖書を差し入れた。後に、多くの重罪人を回心に導いた。

この事件は当時のキリスト教界に知れ渡り、基督教会側の、西洋人一人、日本人一人が忠告委員として、責任者の中央福音伝道館中田重治に忠告しに行った。「中田君。浅草の観音堂の下で路傍説教をさせて、偶像を攻撃させるものだから、あんなことになったのだ。今後注意してもらいたい」と忠告されると、中田は「それなら、更にまされる伝道方を示してくれ給え」と反論した。[1]

浅草伝道館を退いた後に、向島須崎町に移り、聖城団と名づけて、出獄人は不良青年の保護や天幕伝道などをした。その頃松山監獄よりいらいで、「熊ん蜂」という通称の囚人を引き受けた。後に彼は、好地の伝道を助けた。[2]

1907年(明治40年)11月6日に、中田重治と共に千葉県に巡回して、東金銚子に行った。銚子では都田友次郎(都田恒太郎の父)の伝道を応援した。

1908年(明治41年)5月10日、東洋宣教会が役員制度を設けたときに、柏木聖書学院の教職者になった。[3]

1908年(明治41年)、大久保百人町に家を建てて家族と共に移り住んだ。その後、全国の監獄伝道を巡回伝道するようになり、司法省の直木監獄課長の紹介状をもらって全国を回った。[4]

自伝 編集

  • 『-獄中30年-恩寵の生涯』真菜書房

脚注 編集

  1. ^ 米田勇『中田重治伝』146ページ
  2. ^ 『中田重治伝』173ページ
  3. ^ 『中田重治伝』169ページ
  4. ^ 『中田重治伝』174ページ

参考文献 編集

  • 『クリスチャン情報ブック2006』いのちのことば社、2005年
  • 米田勇著『中田重治伝』中田重治伝刊行委員会、1959年

外部リンク 編集