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妙円寺 (日置市)

妙円寺(みょうえんじ)は、鹿児島県日置市伊集院町徳重にある曹洞宗寺院である。山号は「法智山」。

妙円寺
Myouenji Kagoshima.JPG
所在地 鹿児島県日置市伊集院町徳重
山号 法智山
宗派 曹洞宗
創建年 1390年(南朝:元中7年、北朝:明徳元年)
公式HP 妙円寺公式ホームページ
法人番号 2340005000166
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三国名勝図会にある妙円寺

目次

歴史編集

建立から廃仏毀釈まで編集

薩摩の戦国大名、島津義弘(戒名「妙円寺殿松齢自貞庵主」)の菩提寺である。禅寺であるため妙円禅寺、また妙圓寺とも記す。600年以上の歴史があり、永平寺總持寺とを両本山に持つ曹洞宗の寺院として、毎年行われる節分祭は鹿児島県内有数の信者数を誇っている。

元中7年(1390年)、当時この地の支配者であった伊集院忠国の11男である石屋真梁によって、長州守護大名であった大内義弘の息女の供養の為に[1][注釈 1]建立された。ちなみに石屋は応永元年(1394年)に島津元久の命で福昌寺の開山となった人物でもある。石屋の兄・南仲景周は広済寺の開山となっており、若い頃の石屋は小僧として兄の下、広済寺で勉学や修行に励んでいる。妙円寺は福昌寺の兄寺にあたる。訳あって妙円寺が既に廃寺となりかけていた文明2年(1470年)には、福昌寺6代住職・愚丘妙智ぐきゅうみょうちが来て、必要なものを妙円寺へ移し、仏像や仏堂を飾り元通りにして、今まで廃れていたものを全て復興しており、愚丘は妙円寺の中興だと『薩藩名勝志』に書かれている[4]。歴代島津氏当主の尊崇を受けてきたが、島津義弘は特にこの寺に対する帰依が厚く、自分の菩提寺に妙円寺を指定した島津義弘は、生前に京都より仏師・康厳を招き、自らの姿を彫刻させ[注釈 2]、その木像を生きている義弘と思い弔うよう指示して妙円寺に500を与え[5]、妙円寺にとってこの500石が最盛期の寺領となり[6]、島津義弘とその妻の墓所となったために薩摩藩の中でも有数の禅寺となった。「妙円寺詣り」の妙円寺とは本来この寺のことを指す。

寛永2年(1625年)正月や、寛延3年(1750年)6月14日には火事が起きており[4]天保6年(1835年)には、妙円寺が全焼[7][5]。神体である島津義弘の木像は一時、雪窓院[注釈 3]に安置され、後に再興された妙円寺へ再び戻された[5]。その際の行列は、当時の大名行列を小規模にした形式を取っていた[5]。ちなみに、伊集院町文化財に指定されている松崎勘助貞範[注釈 4]の日記には、城下の武士が鹿児島城の城主へ、元旦に新年を祝う言葉を述べるのと同じ作法で、伊集院郷士で許可された者が神体である義弘の木像に、新年を祝う言葉を述べていたことが記されている[5]。天保14年(1843年)にまとめられた『三国名勝図会』には、妙円寺の寺領は375石と記されている[7]。また、『三国名勝図会』や『薩藩名勝志』には、寺の敷地内に鎮守社という神社も描かれている[8][9]

廃仏毀釈による廃寺と再興編集

明治2年(1869年)には、神仏分離などに端を発した廃仏毀釈により破壊され、当時の住職は島津義弘の位牌などの宝物を持って避難した。明治13年には早くも地元の支援者により、かつての寺地の近隣に再興され、徳重神社の所有となった宝物の返還を求めたが、達せられないまま現在に至っている。また、明治2年11月までに薩摩藩内1066カ所の寺が廃絶し、2964人いた僧侶も明治7年(1874年)までには還俗させられ、それから数年間、寺院は全て無く、僧侶も全ていない状態になったと鹿児島県史[10]にも記されている状況下[11][12]において、島津氏における6代から28代までの当主の墓が並び最盛期には約1500人の僧侶がいた南九州屈指の寺だった福昌寺をはじめ、日新寺や薩摩藩屈指の有力寺院だった一乗院など、島津氏に深く関わりがある数々の寺でさえも、廃仏毀釈によりその多くは再興に到らず廃寺のままとなっている中、再興にまで至った恵まれた幸運な寺でもある。復興後の妙円寺は600坪程に縮小されたが、島津義弘の位牌に加え、境内には昭和11年に公爵で島津家第30代当主・島津忠重の寄贈した石屋眞梁の碑があり、碑銘は陸軍大将・町田経宇によって書かれている。

鹿児島本線伊集院駅の案内や地図には、この禅寺の所在は記されていないが、伊集院駅近くにある鹿児島県道24号鹿児島東市来線からの道への入口や、徳重神社の敷地内駐車場入口や、城山トンネル交差点、鹿児島県立伊集院高等学校近くにある鹿児島県道37号伊集院日吉線からの道への入口など様々な場所に、妙円寺と徳重神社それぞれの方向を指す矢印が書かれたうえ、日置市のご当地キャラクター『ひお吉』の顔と腕が描かれた看板が、日置市により年中設置されている。また、妙円寺詣りのパンフレットにも、妙円寺が再興されていることが記載されている。妙円寺61代住職・伊藤憲一いとうけんいつの代になってからは、妙円寺の名を冠しながら、現在では徳重神社にて行われている「妙円寺詣り」について、妙円寺は主催者の日置市などに対し名称を「徳重神社詣り」に変更するよう要望している[13]。ちなみに、61代住職・伊藤憲一は韓国の禅寺とも交流があり、平成22年10月末には韓国の東國寺で行われた韓国人強制徴用者物故者供養祭という供養祭にも参加している[14]

谷山大観音編集

鹿児島市下福元町にあり、清泉寺跡の比較的近くに、鹿児島市の珍スポットとして知られ「谷山大観音」と呼ばれている、吹きさらしで建っている金色の観音像は、61代住職・伊藤憲一の代に妙円寺によって建立され、2001年完成。現在、この妙円寺が管理している。33mある観音像の台座より下は納骨堂の建物になっており、納骨堂の正面には8体の白い仏像が設置され、向かって右側面には、妙円寺により分譲された数々の墓や、大小たくさんの地蔵が並んでいる。

入口には、商売繁盛、合格祈願、縁結びのために、ここで行われている「ろうそく祈願」なる祈祷、この場所の納骨堂、近場にある摩崖仏[注釈 5]史跡の案内が書かれた看板が立てられている。かつて「妙円寺谷山出張所」と表記されていた入口看板は現在、なぜか廃寺になっているはずの清泉寺の名が称された「清泉寺観音堂」となっており、道路からの入口近くにある寺務所は「清泉寺寺務所」と表記されている。大観音像の下にある納骨堂の建物も現在は「清泉寺大観音堂」と表記されており、納骨堂の横には賽銭箱の置かれた祈祷などを行う建物がある。かつては、清泉寺の名が書かれた納骨堂分譲中の旗が立てられていたこともある。

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 建立については、島津元久1387年(或いは1390年)に石屋を開山に招き、伊集院城の北東の地に妙円寺を創建したという説もある[2][3]
  2. ^ そのため、徳重神社に祭られている義弘の神体は、出家して惟新斎と名乗っていた頃の姿である。
  3. ^ 島津義弘の母である島津貴久夫人の菩提寺。伊集院町本通りの西にある城山トンネル入口付近にあったが、廃仏毀釈により廃寺。
  4. ^ 幕末の伊集院郷組頭。越後小出島で戦死。
  5. ^ 隠れ念仏によるもの。

出典編集

  1. ^ 由来”. 妙円寺. 2018年9月2日閲覧。
  2. ^ 『島津元久譜』
  3. ^ 『伊集院由緒記』
  4. ^ a b 鹿児島県立図書館 2002, pp. 173-174。
  5. ^ a b c d e 松元町 1986, pp. 222-223, 「第十三章 島津藩 第二節 妙円寺詣り」。
  6. ^ 妙円寺が伝えゆくもの”. 妙円寺. 2018年9月2日閲覧。
  7. ^ a b 薩摩藩 1843, p. 45。
  8. ^ 薩摩藩 1843, p. 44。
  9. ^ 鹿児島県立図書館 2002, p. 172。
  10. ^   鹿児島県 『鹿児島県史』 - ウィキソース
  11. ^ 廃仏毀釈”. 鹿児島県 (2012年6月27日). 2018年9月11日閲覧。
  12. ^ 寺と僧侶が「完全消滅」した 数字でたどる宗教の系譜(下)”. 日経ビジネスオンライン. 日経BP (2015年1月21日). 2018年9月11日閲覧。
  13. ^ “島津義弘ゆかりの妙円寺詣り、本当は神社参拝?”. 読売新聞. (2011年1月12日). http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110112-OYT1T00724.html 2011年1月12日閲覧。 
  14. ^ myoenji_note 日置市伊集院町妙円寺in韓国”. 妙円寺. 2018年8月4日閲覧。

参照文献編集

  • 「法智山妙圓寺」『三国名勝図会』8、1843年2018年9月2日閲覧。
  • 「法智山妙円寺」『薩藩名勝志』(PDF)1、鹿児島県立図書館〈鹿児島県史料集〉、2003年3月NCID BA6212633X2018年9月23日閲覧。
  • 「第3編 松元町の歴史」『松元町郷土誌』(PDF) 松元町、1986年3月2018年9月1日閲覧。

関連項目編集

外部リンク編集