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本来の表記は「姜沆」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。

姜沆(きょうこう、강항(カン・ハン)、Gang Hang、1567年6月23日(明暦:隆慶元年5月17日) - 1618年6月27日(明暦:万暦46年5月6日))は、朝鮮李氏王朝時代中期の官人。字は太初(テチョ、태초)。号は睡隠(スウン、수은)。

生涯編集

1593年、朝鮮王朝における文科に合格したが、1597年慶長の役(丁酉再乱)では刑曹佐郎という要職に就いており、全羅道で明の将軍・楊元への食糧輸送任務に従事していた。しかし日本軍の進撃によって全羅道戦線が崩壊し、一族で避難中に鳴梁海戦後に黄海沿岸へ進出していた藤堂高虎水軍により捕虜とされ、海路日本へ移送された。

日本では伊予国大洲に拘留され、のち伏見に移され、この頃に藤原惺窩と交流した。約3年にわたる俘虜生活の見聞(日本制度や情勢)は『看羊録』にまとめられた。

1600年(慶長5年)4月に伏見を立ち、対馬を経由して朝鮮に帰国したが、再び仕官はしなかった。

『看羊録』は彼が日本で見聞したこと、日本の内情や国土の特徴、諸大名の情勢などを細かく記したもので、朝鮮王朝に対する提言集的な側面が強い。

一方、『看羊録』は見聞の中での様々な情動を見事な漢詩にしている[1]。日本について、「日本はどんな才能、どんな物であっても必ず天下一を掲げる。壁塗り、屋根ふきなどにも天下一の肩書が付けば、多額の金銀が投じられるのは普通だ」と綴っている。

朝鮮日報は自国ではつまらないと判断されやすい「技」にも日本には当時から「天下一」があり、それが認められると権威となり、国民がそれを評価して相応の報酬が支払われる社会だったという意味だと解説しており、日本の自営業が400年以上、そうした土壌で成長したと述べいる。

姜が讃えるそんな日本の自営業ですら、人口減少、高齢化、新世代の価値観変化で縮小しているのに、それより厳しいのに政府が逆効果の政策を推進していることによる韓国の自営業の展望に警鐘を鳴らしている[2]

脚注編集

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注釈編集

出典編集

  1. ^ 『看羊録 朝鮮儒者の日本抑留記』翻訳朴鐘鳴訳1984年,平凡社東洋文庫
  2. ^ [1](朝鮮日報日本語版) 【コラム】日本の自営業にあって韓国にはない「天下一」精神