孝定太后(こうていたいごう、1546年12月11日嘉靖21年11月19日) - 1614年3月18日万暦42年2月9日))は、隆慶帝の妃嬪で万暦帝の母。姓は李氏

孝定太后李氏

経歴編集

順天府漷県の建築労働者であった李偉と王氏の長女として生まれる。嘉靖年間、裕王朱載坖(後の隆慶帝)の邸に入り、婢(側女)となった。嘉靖42年8月17日(1563年9月4日)、朱翊鈞(後の万暦帝)を産んだ。他の妻妾が産んだ長男の朱翊釴と次男の朱翊鈴はすでに早世していたため、裕王を喜ばせ、李氏は寵愛を受けた。

隆慶元年(1567年)3月、皇貴妃に封じられた。万暦帝が即位すると、慈聖皇太后と尊称された。父の李偉は武清侯に封じられた。

財貨を喜び、仏教を尊崇した。万暦42年(1614年)2月、崩じた。

逸話編集

  • 晩年、李太后は目が見えなくなり、女医の王氏が彭氏と共に仕えた。彭氏は妊娠したが、それを隠し、夜半秘かに夫人の彭金花[1]の居所で男子を1人産んだ。彭氏はこの息子をすぐさま糞桶で溺死させた。これを知った万暦帝は激怒したが、李太后は彭氏を憐れみ、杖罪に処して追い出し、嬰子の遺体を宮門に捨てた。翌年、李太后は崩じた。

子女編集

伝記資料編集

  • 『明穆宗実録』
  • 『明神宗実録』

脚注編集

  1. ^ 彭金花(? - 1614年以降)、隆慶帝の侍女あるいは側女。隆慶6年、勤侍夫人に封じられた。孝定太后の崩御まで皇宮で健在であった。