孝荘帝
孝荘帝(こうそうてい、507年 - 531年、在位:528年 - 530年)は、北魏の第9代皇帝。姓は元、諱は子攸。彭城王元勰の三男で、第6代皇帝孝文帝の甥にあたる。母は正室の李媛華。
孝荘帝 元子攸 | |
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北魏 | |
第9代皇帝 | |
王朝 | 北魏 |
在位期間 |
建義元年4月11日 - 永安3年12月13日 (528年5月15日 - 531年1月6日) |
都城 | 洛陽 |
姓・諱 | 元子攸 |
諡号 |
武懐皇帝(後廃帝による)[1] 孝荘皇帝(孝武帝による)[2] |
廟号 | 敬宗 |
生年 | 正始4年(507年) |
没年 |
永安3年12月13日 (531年1月16日) |
父 | 彭城王元勰(第3子) |
母 | 李媛華 |
后妃 | 爾朱皇后 |
陵墓 | 静陵 |
年号 |
建義 : 528年 永安 : 528年 - 530年 |
生涯編集
孝明帝の初年、父の元勰の勲功により武城県公に封ぜられた。幼い頃から宮中に入って孝明帝に侍従し、成長した。少年期には抜きん出た美少年と謳われた。526年8月、長楽王に封ぜられ、侍中・中軍将軍に転じた。527年10月、衛将軍・左光禄大夫・中書監となった。
528年2月、孝明帝が生母の胡太后によって殺害されると、これに対して爾朱栄が挙兵した。元子攸は黄河を渡って河陽に入り、爾朱栄と合流した。4月、元子攸は爾朱栄によって北魏の皇帝に擁立され、胡太后らは黄河に沈められた(河陰の変)。洛陽の太極殿に入ると、大赦して建義と改元した。爾朱栄の娘(大爾朱氏)をめとって皇后に立て、朝政の実権は岳父の爾朱栄が掌握することになった。
529年、元顥が南朝梁の兵を借りて北進し、魏帝を称した。5月、元顥が洛陽に迫ると、孝荘帝は黄河の北の河内郡に避難した。まもなく洛陽は元顥に占拠された。7月、爾朱栄らが元顥を討ち、孝荘帝は洛陽に帰還することができた。
ときに孝荘帝は爾朱栄の傀儡に等しく、これを不満に思っていた。孝荘帝は側近らに対し「朕はたとえ高貴郷公(曹魏の第四代皇帝曹髦。甘露の変により臣下の司馬昭の専横を除こうとしたが、逆に殺害された)の如く死なんとも、常道郷公(曹魏の第五代皇帝曹奐(元帝)。臣下の司馬炎に帝位を禅譲し、天寿を全うした)の如く生き永らえる気はない!」と述べ[3]、530年9月21日、爾朱皇后が妊娠したことから、この報を爾朱栄と爾朱菩提父子に知らせ、宮中に誘き寄せて謀殺した。
しかし爾朱栄の一族である爾朱兆・爾朱世隆らが起兵し、長広王元曄を擁立した。12月に洛陽が落とされて、孝荘帝は拘束された。身柄を永寧寺に移されて、爾朱皇后が生まれたばかりの皇子をも殺された。さらに晋陽に身柄を移されて、12月13日(531年1月16日)、城内の三級仏寺で殺害された。
死に際して詩を遺している。
- 権去生道促、憂来死路長。
- 懐恨出国門、含悲入鬼郷。
- 隧門一時閉、幽庭豈復光。
- 思鳥吟青松、哀風吹白楊。
- 昔来聞死苦、何言身自当。
拓跋部 | 1(成帝) 拓跋毛 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
13(献帝) 拓跋鄰 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
14(聖武帝) 拓跋詰汾 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
禿髪部1禿髪匹孤 | 15(神元帝) 拓跋力微 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(南涼) | 16(文帝) 拓跋沙漠汗 | 17(章帝) 拓跋悉鹿 | 18(平帝) 拓跋綽 | 東部(昭帝) 拓跋禄官 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
中部(桓帝) 拓跋猗㐌 | 19(思帝) 拓跋弗 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
代 | 1(穆帝) 拓跋猗盧 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2拓跋普根 | 5(恵帝) 拓跋賀傉 | 6,8(煬帝) 拓跋紇那 | 拓跋六脩 | 4(平文帝) 拓跋鬱律 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
3拓跋氏 (諱不明) | 7,9(烈帝) 拓跋翳槐 | 10(昭成帝) 拓跋什翼犍 | 拓跋孤 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
拓跋寔君 | 追(献明帝) 拓跋寔 | 拓跋窟咄 | 拓跋斤 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北魏 | 1道武帝 拓跋珪 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2明元帝 拓跋嗣 | 清河王 拓跋紹 | 陽平王 拓跋煕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
3太武帝 拓跋燾 | 淮南靖王 拓跋他 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
追景穆帝 拓跋晃 | 東平王 拓跋翰 | 4南安王 拓跋余 | 元鍾葵 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
5文成帝 拓跋濬 | 南安王 拓跋楨 | 僭元法僧 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
6献文帝 拓跋弘 | 章武王 元彬 | 扶風王 元怡 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
7孝文帝 元宏 | 追先帝 元羽 | 北海王 元詳 | 追文穆帝 元勰 | 章武王 元融 | 11東海王 元曄 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
廃太子 元恂 | 12節閔帝 元恭 | 僭北海王 元顥 | 追孝宣帝 元劭 | 10孝荘帝 元子攸 | 13安定王 元朗 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
8宣武帝 元恪 | 僭/追文景帝 元愉 | 清河王 元懌 | 追武穆帝 元懐 | 僭汝南王 元悦 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
9孝明帝 元詡 | 臨洮王 元宝暉 | 西1文帝 元宝炬 | 清河王 元亶 | 14孝武帝 元脩 | 馮翊公主 元氏 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
僭孝明帝女児 元氏 | 僭幼主 元釗 | 西2廃帝 元欽 | 西3恭帝 拓跋廓 | 東1孝静帝 元善見 | 北周1孝閔帝 宇文覚 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||