孝貞王皇后
王皇后(おうこうごう)は、明の成化帝の2人目の皇后。孝貞純皇后(こうていじゅんこうごう)と諡された。
王皇后 | |
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明の皇后 | |
孝貞純皇后王氏 | |
在位 |
天順8年10月11日 - 成化23年10月9日 (1464年11月10日 - 1487年10月25日) |
別称 |
慈聖康寿太皇太后 孝貞荘懿恭靖仁慈欽天輔聖純皇后 |
出生 |
不詳 応天府上元県 |
死去 |
正徳13年2月10日 (1518年3月20日) 順天府、紫禁城 |
埋葬 | 茂陵 |
配偶者 | 成化帝 |
父親 | 王鎮 |
経歴
編集応天府上元県の人。庶民の王鎮の娘として生まれる。天順8年(1464年)、英宗に選抜されて、太子朱見深(後の成化帝)の準側室となった。
成化帝が即位した翌月、最初の皇后呉氏は、側室万氏(後に皇貴妃となった)を嫉妬して杖で打った。成化帝は激怒して理屈をつけて呉氏を廃位し、生母の周太后が強く主張したので代わって王氏を皇后に立てた。父の王鎮は正一品錦衣衛都督に進封された。
成化帝は万皇貴妃を寵愛し、王皇后を全くかえりみなかった。王皇后は低調な生活を送ったが、皇貴妃を丁重に扱い、怨みごとはなかったという。
成化23年(1487年)、弘治帝が立つと、皇太后となった。弘治帝の崩御に際してはその孝養をたたえる諭旨を出している。弘治18(1505年)、正徳帝が立つと、さらに慈聖康寿太皇太后の尊号を受けた。正徳13年(1518年)、崩じた。孝貞荘懿恭靖仁慈欽天輔聖純皇后と諡され、成化帝と合葬された。
伝記資料
編集- 『明憲宗実録』