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日本 > 奈良県 > 奈良市生駒市 > 学園前 (奈良市)
近鉄学園前駅

学園前(がくえんまえ)は奈良県北西部の地域である。奈良市西部(伏見・富雄)から生駒市にまたがる。

近鉄奈良線学園前駅を核とする。西ノ京丘陵の一部にあたり、近鉄の主導で1950年ごろから宅地開発が行われ、住宅地が広がっている。中心となる同駅は特急停車駅であり、大阪市まで約20分というアクセスの良さから、近隣の登美ケ丘や帝塚山と共に大阪市内に勤務する重役が住居を構える高級ベットタウンとして閑静な住宅地が広がる。

「学園前」の名前の由来となった帝塚山学園は、学園前駅の南口から徒歩1分である。

地勢編集

位置編集

学園前は奈良県の北西部、奈良市と生駒市の境界付近に位置する。地域の核となる学園前駅は奈良市の西部にある。学園前駅から直線距離で奈良市役所までは約5km、生駒市役所までは約4.5km離れている。大阪市中心部から25km圏内、神戸市中心部からは55km圏内、京都市中心部から40km圏内、奈良市中心部から10km圏内に位置するため、学園前駅から電車に乗車すると大阪難波駅まで30分弱、京都駅まで40分強、近鉄奈良駅まで約10分の所要時間で到着できる。学園前に位置する住宅地と学園前駅間は、路線バスを利用して移動できる。

さらに2006年に開通した近鉄けいはんな線を利用すれば学園前駅の北約3kmに所在する学研奈良登美ヶ丘駅や北西約4kmに所在する学研北生駒駅から地下鉄本町駅まで40分弱で移動できる。

学園前駅南側には奈良市役所西部出張所が設置されており、奈良市西部地区の行政サービスの拠点となっている。 現在の「学園前」は旧生駒郡富雄町東部、生駒郡伏見町北部、生駒郡平城村西部(以上、現奈良市)、生駒郡北倭村南部(以上、現生駒市)[1]に相当する地域である。旧自治体の境界線が通る地域が開発されたため、奈良市域に学園地区自治連合会を設立する際、旧自治体ごとの自治連合会との折衝が紛糾し、最終的には強引にまとめ上げたというエピソードが残っている。奈良市役所西部出張所の前身は学園地区自治連合会の要望により設置されたが、このような学園前の位置に起因する問題が噴出し、現西部出張所の設置までには相当な努力が必要だったという[2]

範囲編集

学園前は学園前駅を最寄駅とする一帯の地域名であると認知されており、自治体の資料[3][4]、新聞[5][6]、住宅情報誌[7]などにその名が登場する。しかし、自治体が告示などで定めた正確な地名ではないため、学園前の範囲は一意に定義できない。1982年に発行された参考文献[8]では当時の奈良市西部出張所長への短いインタビューを交え、学園前の範囲には以下の3説があると述べている。

  1. 主導で開発を行った近鉄がお墨付きを与えた地域。
  2. 奈良市役所西部出張所管轄の行政区画(富雄、あやめ池、学園、登美ヶ丘)のうち学園地区、登美ヶ丘地区に相当する地域。
  3. 学園前駅を利用する人々が住む範囲。学園前駅行バス路線の始発地点を含む地域。
— 朝日新聞、「8. もっと奥も」『奈良新風土記 学園前』奈良1P版 1982年9月9日

1970年に発行された参考文献の中で森田勝(元学園地区自治連合会長で当時の奈良市議会議員)は学園前の範囲を定義するのは困難であると前置きした上で、上記 3. の説では漏れる地域があるとし「学園前駅前のショッピングセンターを利用される方々の住む範囲」を学園前と定義している[9][10]

奈良市公式Webページのコンテンツでは奈良市の都市計画の例として学園前を取り上げている。このWebページでは学園前駅より北方・南方に離れた地区の開発を「学園前開発の流れ」として説明し、学園前駅周辺の住宅開発時期を地図と年表でまとめている[11]。 このコンテンツに掲載されている地図が示すのは以下の範囲である。(開発年代順に並べた上、2008年現在の地名に置き換えて記述している。)

学園南、学園北、百楽園、登美ヶ丘、鶴舞西町・鶴舞東町、学園大和町、千代ヶ丘、西登美ヶ丘、東登美ヶ丘、中登美ヶ丘、南登美ヶ丘、藤ノ木台、中山町西、学園前緑ヶ丘、朝日町、松陽台[12]、学園中、北登美ヶ丘

人口編集

学園前周辺の人口推移 - 奈良市域(単位: 人)[13][14]
年度 伏見 あやめ池 学園 登美ヶ丘 富雄 平城 平城NT 神功 右京 朱雀 左京 奈良市全体
1961年 11166 8383 4885 137413
1963年 12767 11659 5610 147110
1965年 7824 3771 12681 8733 5994 161587
1970年 15348 4534 31169 19007 7595 207819
1972年 17527 4884 34425 23138 8994 1103 226643
1975年 19345 5191 23142 18615 26637 11230 6839 256083
1980年 21169 5385 25257 20587 37995 13993 2589 6358 2238 4 297156
1985年 24571 7042 26707 21737 44744 16151 3094 7800 4942 177 326290
1990年 25475 7530 27257 23643 50897 17480 4404 7618 6878 2888 349675
1995年 26582 7914 27158 23384 52510 18312 4874 7169 7653 5436 361696
2000年 27001 8212 28737 24226 55564 19037 6040 6650 7426 6295 368562
2005年 27609 8553 28182 24192 57326 19377 6105 5803 7350 6386 373189
 
学園前周辺の人口推移 - 奈良市域(1961年度-2006年度)

註1: 伏見・富雄・平城は奈良市に合併される前の旧町村を引き継いだ地区を示す。その他の地区は伏見・富雄・平城のいずれかから区割りされた地区となっている。

註2: 学園前と呼ばれる地域には上記の平城地区の西端が含まれていたため、この表では平城地区、そして平城地区から分かれた平城ニュータウン地区の人口を掲載している。しかし、平城ニュータウンは奈良警察署や奈良市役所北部出張所の所轄であり、最寄り駅も学園前駅ではなく高の原駅であるため、学園前周辺には含まないのが通常である。平城ニュータウンは一般的に同じ奈良警察署近鉄高の原駅前交番・奈良市北部出張所[要出典]管轄の佐保台を含む。

地理編集

地形編集

学園前のある奈良盆地西端の丘陵地帯は、西から東へ、主脈の生駒山地矢田丘陵、そして西ノ京丘陵と続く。生駒山地は海抜平均400m、矢田丘陵は海抜200-300m前後、一番東の西ノ京丘陵は海抜100m前後で、奈良盆地へ至る。学園前はこの丘陵地帯のうち、西ノ京丘陵に所在する。

西ノ京丘陵の東側には平城京の西の堀川と呼ばれた秋篠川が南北に流れ、西側には聖徳太子の時代、富の小川と呼ばれた富雄川が南北に谷を形成している。西ノ京丘陵は秋篠川富雄川に挟まれ、南北に細長い形をしている。北方の京都府南部付近が一番東西に幅広く丘陵が広がっており、奈良市に入ると幅4km程度、南下するほど幅が狭くなり、最終的には幅1km程度で郡山城付近に達している。丘陵の南北の全長は約18km[15]である[16]

学園前はこの全長約18km[15]のうち、北部から中央部にわたる東西幅約2km、南北約8kmの細長い場所に住宅地を形成している。学園前の最高地は北部北登美ヶ丘や真弓付近で約180m前後である。学園前駅付近では150m、南部では100m位である[16]

西ノ京丘陵の分水嶺は丘陵の西側に片寄っており、分水嶺より西側では分水嶺から富雄川まで500mくらいの距離で急斜面を形成している。一方、分水嶺より東側は緩やかな斜面になっており、分水嶺から秋篠川まで2kmに達する箇所がある。分水嶺から東側では秋篠川方向に小川が流れ、侵食谷を形成している。西ノ京丘陵ではこれら侵食谷に水田が形成された。これら侵食谷は奈良盆地周辺の特徴にもれず水源地が浅いため水不足になることが多く、不足分を補うための溜池が各地に構築されている(後述)。近鉄不動産社長であった泉市郎はこの東側の緩やかな斜面を「住宅地にとって理想的な地形」と評している[16]

地質編集

学園前のある西ノ京丘陵の地層更新世にできた砂礫層を主とし、一部粘土層となっている。この地層は山麓が砂礫層で中央部が花崗岩である矢田丘陵、花崗岩斑糲岩でできた生駒山地よりも侵食されやすい。生駒山地、矢田丘陵、西ノ京丘陵のうち西ノ京丘陵が一番低い丘陵となっているのは一番侵食されやすかったからである。やわらかい砂礫層は宅地造成に適しており、地形だけでなく地層も住宅地にとって好条件であった。また、学園前の東南部には他の地域と比較して粘土層が多く挟まれている地域がある。この地域は赤膚山と呼ばれ、粘土層から産出される粘土を用いて赤膚焼が製造されている[16]

気候編集

学園前は奈良盆地と同じく内陸性気候である。奈良、大和郡山、生駒市高山の気象観測所の観測資料から概観すると、気温は年平均13℃前後、夏と冬との気温の差が大きい内陸性気候を示す。冬はやや底冷えする。風向は北西の風が多く、冬の乾燥した季節風が強い。この風を「生駒颪」と呼ぶ。この生駒颪の影響で奈良地方気象台のある奈良市中部に比べ生駒山に気候が近く、標高に対する気温減率に反する。冬季は昼間に生駒颪が吹き、朝晩に無風なため放射冷却が奈良盆地より強く、結果的に奈良地方気象台のある奈良市街地に比べて2~3℃気温が低くなる。最寒月の平均気温は1.5℃。(奈良が3.8℃、生駒山頂が0.8℃)夏季は奈良盆地と同じく気温は高いが、夜間にやや肌寒くなる。降水量は年平均総量1450mmくらいで、日本の平均よりも少ないほうである。降水量が少ない影響で奈良盆地やその周辺では乾燥しやすく、また大きな河川が存在しないため水不足に悩むことが多かった。宅地開発以前は灌漑用水の不足、宅地開発後は上水の不足に悩んだ[16]。奈良の水不足を表現した「大和豊作米喰わず」ということわざが伝わる。大和国が水に恵まれ豊作になると他の地域では雨が多すぎて凶作になり、米の値段が上がって庶民は米が食べられなくなるという意味である[17]

植生編集

学園前は奈良県植物地理区のうち奈良北部植物区-生駒金剛植物区-西ノ京丘陵区に属する。西ノ京丘陵区は砂礫層を主とするため植物の生育に適しておらず、アカマツ林雑木林を主とする植物区である。特に学園前には松林が広がっており、開発前から開発初期にかけて、学園前周辺ではアカマツ林でのマツタケ狩りが観光資源となっていた。他にマツを切り出して炭にするための炭焼窯が駅の北側に存在したという。また、2008年現在「学園赤松町(旧富雄町大字二名小字赤松)」という地名が残っている[18][19]

社寺にはアラカシシラカシヤブニッケイヤブツバキネズミモチなどの暖地性常緑広葉樹による林が構成される。雑木林にはクヌギコナラのほか、コバノミツバツツジシャシャンボヒサカキマルバハギネザサなどが見られる。登美ケ丘高等学校、登美ケ丘北中学校の校章は所在地周辺に成育していたツツジ、コバノミツバツツジをモチーフとしている[20][21][22]

河川・溜池編集

学園前には大規模な河川は存在しないが、侵食谷による小さな河川がいくつか存在する。また、侵食谷による河川を堰き止めた大型の溜池がいくつか残っている。一覧を以下に示す。

  • 河川
    • 一級河川
      • 秋篠川 - 大和川水系の河川。学園前の侵食谷を水源とする。東進し、中山町を過ぎると進路を南に変えて、西ノ京丘陵の東端を流れる。
      • 富雄川 - 大和川水系の河川。生駒市高山町付近を水源とする。水源からは南進し、西ノ京丘陵の西端を流れる。
      • 山田川 - 淀川水系の河川。生駒市高山町付近を水源とする。水源からは東進し、京都府木津川市内で木津川に合流する。
  • 溜池
    • 大渕池 - 秋篠川の最上流。江戸時代に侵食谷を堰き止めて建設した溜池。
    • 蛙股池
    • 菖蒲上池・菖蒲下池

学園前付近のパノラマ画像編集

西奈良地区北部のパノラマ画像
丘陵を切り開いて住宅地が開発された様子がわかる。

地名編集

地域名の由来編集

学園前という地域名の由来として通説になっているのは帝塚山学園の最寄であったからという説である[23]1941年富雄駅 - 菖蒲池駅間に帝塚山中学校が開校し、翌1942年学園前駅が開設された。人家などのランドマークがない場所に学園だけが開発されたため「学園前」が地域名の固有名詞となったとされる[16]

実際に、近鉄電車に乗ると、学園前駅への車内到着前アナウンスで、「学園前、学園前、帝塚山学園前」とアナウンスされるのを聞くことができる。

異説として、高橋誠一奈良大学名誉教授野崎清孝から教示された説がある。野崎清孝によると、学園前の地名の由来は戦前に計画されたものの実現しなかった慶應義塾大学の分校計画にまで遡れるとしている[23]。慶應義塾大学の分校計画話が流布していたのは事実で、箕面有馬電軌は慶應義塾大学を誘致するため1918年(大正7年)ごろ豊中村に用地を求めている[24][25]

街並み編集

 
学園中地区の遠景

学園前の宅地開発は国や自治体のニュータウン計画に沿った開発ではなく、民間主導で進められた開発であった。

1950年に近鉄が学園都市を目指して学園前南地区の開発をはじめた[26]。その後、近鉄の計画に参加した住宅都市整備公団奈良市住宅協会や、多数のデベロッパー(大和ネオポリス開発恒和興業日生不動産野村不動産住友不動産伊藤忠不動産東急土地開発殖産住宅など)により、年次ごとにブロック単位の開発が進められ、丘陵地の開発の手は駅を中心に南北へ延伸していった。民間主導によるブロック単位の開発を進めることで、学園前には10万人規模の街ができあがった[27][28]

しかし、街がブロックの断片的な積み重ねでしかない状態を生み出す弊害が生じ、各ブロックごとに街路の方位や街区が異なる、ブロック間のつなぎ部分で交通体系上の問題が生じる等の課題が現れている[29]。交通体系上の問題は交通渋滞を引き起こし、学園前が当初目指した「良好な住環境を持つ学園都市」とは異なる発展を遂げた[30]

ライフライン編集

電気編集

学園前では関西電力が電気の供給を行っており、関西電力奈良支店奈良営業所が管轄している。2002年現在、学園前周辺には一次変電所として新生駒変電所がある。新生駒変電所には500kVの送電線が4系統、275kVの送電線が2系統、154kVの送電線が3系統接続されている。500kV級の送電線のうち北河内線は西京都変電所に接続される大飯幹線などを経て、大飯発電所をはじめとする若狭湾周辺の原子力発電所に繋がる[31]2005年12月22日、雪害のため大飯幹線、大飯第二幹線の両送電線からの送電が停止し、近畿地方の約70万世帯が停電した際には、学園前を含む、生駒市、平群町、東大阪市、木津町、加茂町などで停電が発生している[32]。 学園前に電気がやってきたのは1918年ごろである。1913年大阪電気軌道は鉄道事業開業に先立ち電灯事業を開始した。1918年、大阪電気軌道は常用出力 1300kW の放出火力発電所を持ち、大阪市から 160kW を受電しながら、現在の学園前を含む生駒郡に電気を供給していた。しかし、大阪電気軌道は1930年1938年には自力での発電を行わなくなり、全ての電力を受電に頼るようになっている。1931年の統計では、大阪電気軌道の電気供給事業は宇治川電気よりの受電が半分以上、他に大同電力日本電力合同電気からの受電で成り立っていた。学園前を含む地域への大阪電気軌道→関西急行鉄道による電気供給は1942年まで続いた。1941年に公布された配電統制令に従い、1942年に関西急行鉄道を含む関西大手電気供給事業会社14社は関西配電、現在の関西電力に統合され、現在に至る[33][34]

ガス編集

学園前では大阪瓦斯天然ガス 13A を供給している。2005年現在、学園前は大阪瓦斯の区分で北東部地区に属する。

学園北一丁目には大阪瓦斯の奈良事業所が存在する。奈良事業所は1963年に学園前へ移転した大阪瓦斯奈良営業所を元とする。奈良営業所は1910年に設立された奈良ガスが大阪瓦斯と合併することになった1945年に設置された営業所である。

学園前を縦断する形で近畿幹線第1東部ラインとよばれる高圧幹線が敷設されている。近畿幹線第1東部ラインは1967年に建設が開始された大阪瓦斯初の高圧幹線である。大阪東部、奈良地区で行われていた 6C によるガス供給を天然ガス 13A に移行するため、また、供給末端である京都、滋賀への大量のガスを輸送するために建設された。

近畿幹線第一東部ラインは泉北工場を基点とし、堺市、藤井寺市、大和郡山市、奈良市を経て枚方供給所に至る。総延長は 79km、管径は 600mm、最高圧力は 2.5MPa である。ガス管には API5LX42 と呼ばれるアメリカ石油協会ハイテストラインパイプ規格の管を用いている。奈良地区での建設反対運動を説得の上、1972年に完成した。1977年には泉北工場に泉北第二工場を増設している。学園前では1970年から1972年にかけて高圧幹線敷設を問題視し、大阪瓦斯と交渉を行ったと記録されている[35]

上水道編集

上水の不足としては1965年に学園前の北部周辺で大規模な断水が続き、大きな問題となった。富雄井戸(現廃止)、奈良市東部の須川ダム、大渕幹線、藤ノ木貯水池の完成により、1970年頃には上水の不足は解消している。

下水道編集

学園前の下水道は奈良市域、生駒市域とも最終的に県営下水道の大和川上流流域下水道第一処理区に接続されている。ただし、分水嶺を越えて淀川水系の流域に属する鹿ノ台は生駒市の単独公共下水道が整備されている。

大和川上流流域下水道第一処理区は大和川右岸の下水を処理し、大和川の水質を改善するため1970年に事業が開始された流域下水道である。奈良県で初めての流域下水道事業であった。供用開始は1974年である。学園前の下水は富雄川幹線(管径1800-1100mm, 延長約14km)をとおり、近鉄橿原線ファミリー公園前駅西側の終末処理場(浄化センター)で処理され、大和川に放流される。

ごみ処理編集

交通編集

鉄道では、JR西日本が収める地域は無く、専ら近鉄が担っている。

道路編集

主要地方道編集

鉄道編集

バス編集

学園前の開発とともに発展したのがバス路線である。学園前近辺は丘陵地帯のため発達している。

施設編集

公共機関編集

文化施設編集

教育機関編集

大学編集

高等学校編集

中学校編集

小学校編集

ショッピングセンター編集

駅前ショッピングセンター編集

 
パラディ

学園前駅前には近商ストアと名店街(ここでは専門店街を指す)で構成されたショッピングセンター、「パラディ」がある。2008年現在、1984年にオープンした「パラディI」、1991年にオープンした「パラディII」から構成される。

パラディの前身は学園前初の大規模小売店舗「学園前ショッピングセンター」である。学園前ショッピングセンターは学園前駅北側へ1960年に設置された学園前第一ショッピングセンター、第一ショッピングセンターに隣接して1963年に設置された学園前第二ショッピングセンターから構成されていた。1960年代当時の学園前第一ショッピングセンターは全国でも珍しい円形の建物であり、同じく円形の帝塚山学園の校舎とともに長らく学園前のランドマークとなっていた。開店初期は、学園前第一ショッピングセンターに近商ストア、近鉄パーラーが入居し、第一・第二ショッピングセンター両方に名店街が入居していた。

学園前第一ショッピングセンターに入居した近商ストアは近商ストアにおける第一号スーパーマーケットであり、日本で初めて生鮮食料品セルフサービスを導入したスーパーとして、業界や買い物客からの注目を集めた。

1970年代には近商ストアが第二ショッピングセンターに移転し、近鉄パーラーが北京料理百楽[36]に業態変更されるなどの改装が行われている。

1984年、学園前ショッピングセンターの北側にショッピングセンター新館(現、パラディI)がオープンした。学園前第一・第二ショッピングセンターはショッピングセンター新館オープン直後に、学園前駅北口拡充工事のため取り壊された。跡地には奈良交通バスセンターとタクシーのりばなどへ通じる道路、そして1991年にパラディIIが開店し現在に至る。

新規出店と住環境編集

1970年代後半、大手スーパは学園前周辺への出店を目論むようになっていた。1982年の新聞記事には「みどり台ショッピングセンター」「中山町パークサイドセンター」「ショッピングバザール富雄」の出店が計画されていると記述されている。これら出店計画に対して交通渋滞による住環境の破壊や地元無視の一方的な出店に対して出店反対運動が起こり、「みどり台ショッピングセンター」は訴訟沙汰に、「中山町パークサイドセンター」は商工会議所の指導により売り場面積を計画の48%に縮小することになった。

結局、「みどり台ショッピングセンター」はイズミヤ学園前店とともに1983年開店、「ショッピングバザール富雄」はユニード(現イオン)富雄店とともに同じく1983年開店、「中山町パークサイドセンター」はサティ学園前(後に学園前サティに名称変更)として1984年に開店している。学園前サティは当時のニチイが「サティ」ブランドで初めて出店した店舗であったが、その後のマイカル(2003年に再建するもその8年後にイオンリテールに吸収合併され消滅)の経営破綻の際、不採算店舗に指定され、2001年に閉店した。

大型小売店一覧編集

旧跡編集

宿泊施設編集

2009年現在、学園前にはビジネスホテルが存在しない。

歴史編集

前史編集

古代、大和国北西部は登美郷と呼ばれた。法隆寺のある斑鳩や平城京から比較的近いため、登美郷には要人の関わったとされる伝説が残っている。

聖徳太子が亡くなった際、三杖大夫は以下のような和歌を残したと伝わる。この「富の小川」は現在の富雄川を指すと考えられている[37][38]

鵤の富の小川の絶えばこそわが大君の御名忘られめ
(いかるがの とみのおがわの たえばこそ わがおおきみの みなわすられめ)

押熊町の北方、京都府相楽郡精華町乾谷には平城京造営の際に使用されたと推定される瓦窯跡が見つかっている。また、奈良市と精華町との境にある「石のカラト古墳」からは8世紀ごろの金銀の埋葬品が発掘されている。

聖武天皇は富雄川のある土地を訪れた際、水碓(みずからうす、水車のこと)を用いて農民が精米しているのを見かけ、この土地に「三碓の里」と名づけたという伝説が残っており、現在の奈良市三碓町の地名の由来とされる。三碓三丁目にある添御縣坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)は(添上郡・添下郡の)「添」の地を守る神社として建立されたとされ、1383年永徳3年)建立の本殿(重要文化財)が残っている[37][38][39][40]

学園前誕生前夜編集

1914年大阪電気軌道奈良線(現在の近鉄奈良線)、上本町六丁目-奈良高天町間が開通し、学園前に相当する地域を電車が横断するようになった。開通当時、奈良市西部には富雄駅西大寺駅が設置されたのみで、現在の学園前駅菖蒲池駅は設置されず、この地域は松林の続く、人家のまばらな丘陵地帯のままであった[41][42]

富雄駅前で券売を委託されたよろず売店にて電車開通の年に誕生した、奈良市立二名小学校[43]の初代校長は当時の富雄や学園前の様子を回想している。学園前駅はまだ設置されておらず、現在の学園前駅の南西には杣木谷(現在の学園前駅南西の池)という小さな村があるのみであった。また、富雄川はホタルが生息できるほど清らかで、富雄や学園前の付近はマツタケ狩りで有名であった。タヌキキツネが生息し、特にタヌキは近鉄奈良線の富雄川橋梁の付近にまで顔を見せるほどだったという。また、富雄駅は駅長と改札員の2人だけが配置されたのんびりとした雰囲気の駅で、駅員は電車が着くたびに対向式ホームを往復していた。たまに米俵を積むための貨車が引込み線に停車していたという[16]

未開発であったこの地域に目をつけた大阪電気軌道は、臨時扱いで菖蒲池駅を開業し、菖蒲池温泉と呼ばれるレジャー施設を建設した。菖蒲上池、菖蒲下池を利用した遊園地、旅館が併設され、大阪から遊戯客が訪れるようになった。

本格的な「街」の建設の端緒になったのは、1941年に大阪電気軌道の誘致により開学した帝塚山中学校である。翌1942年に帝塚山中学校への通学に便宜を図るために学園前駅が設置された[41]。自ら開発前の学園前駅の最寄に住み、学園前駅を初めて管轄した生駒駅長[44]が設置当時の学園前駅とその周辺の様子について回想している。開業当時の学園前駅は2面2線で1線の引込み線が存在した。

帝塚山中学校の開学は「街」の建設のきっかけにはなったものの、開学以降しばらくは開発へ向けての具体的な動きは見られなかった。動きが現れるのは戦後に入ってからである。

資料編集

学園前地域の各町編集

学園前駅からの通勤向けバスが乗り入れる小学校区に属する町の町名と沿革を紹介する。町名の右に書かれた年は旧町から新町を自治体が正式に分置した年を表す。よって、この年は分譲が開始された年とは異なる。例えば、藤ノ木台は1965年に分譲が開始され「藤ノ木台」と通称されていたが、奈良市中町から正式に分置されたのは1988年である。

太字は伝統的な大字・小字に相当する地域を継承した町の町名である。

  • 奈良市
    • 秋篠町 - 1951年
      • 旧添下郡秋篠村。奈良市と平城村の合併により設置。
    • 中山町 - 1951年
      • 旧添下郡中山村。奈良市と平城村の合併により設置。
    • 押熊町 - 1951年
      • 旧添下郡押熊村。奈良市と平城村の合併により設置。
    • 石木町 - 1955年
      • 旧添下郡石木村。奈良市と富雄町の合併により設置。
    • 大和田町 - 1955年
      • 旧添下郡大和田村。奈良市と富雄町の合併により設置。
    • 中町 - 1955年
      • 旧添下郡中村。奈良市と富雄町の合併により設置。
    • 二名町 - 1955年
      • 旧添下郡二名村。奈良市と富雄町の合併により設置。
    • 疋田町 - 1955年
      • 旧添下郡疋田村。奈良市と伏見町の合併により設置。
    • 学園大和町 - 1965年
      • 中町、三碓町の各一部から分置。
    • 学園朝日町 - 1967年
      • 中山町の一部から分置。第二次大戦後に開拓が行われ、朝日園と呼ばれるようになり、1951年に朝日町と通称されるようになる。
    • 学園北 - 1967年
      • 菅原町、中町、二名町の各一部から分置。
    • 学園南 - 1967年
      • 菅原町、中町の各一部から分置。
    • 登美ヶ丘 - 1967年
      • 二名町、中山町、押熊町の各一部から分置。
    • 百楽園 - 1967年
      • 中町、二名町、三碓町の各一部から分置。
    • 鶴舞西町 - 1967年
      • 二名町、中山町の各一部から分置。
    • 鶴舞東町 - 1967年
      • 二名町、中山町の各一部から分置。
    • 中登美ヶ丘 - 1968年
      • 押熊町、中山町、二名町の各一部から分置。
    • 千代ヶ丘 - 1969年
      • 中町、三碓町の各一部から分置。
    • あやめ池南 - 1972年
      • 西大寺町、菅原町、青野町の各一部から分置。
    • あやめ池北 - 1973年
      • 西大寺町、秋篠町の各一部から分置。
    • 学園朝日元町 - 1973年
      • 中山町、西大寺町の各一部から分置。
    • 中山町西 - 1973年
      • 中山町の一部から分置。
    • 朝日町 - 1973年
      • 中山町、秋篠町の各一部から分置。
    • 東登美ヶ丘 - 1973年
      • 押熊町、中山町の一部から分置。
    • 青垣台 - 1976年
      • 石木町、中町、五条町、六条町の各一部から分置。
    • 西登美ヶ丘 - 1976年
      • 二名町の一部から分置。
    • 富雄北 - 1978年
      • 二名町、三碓町の各一部から分置。
    • 学園中 - 1983年
      • 中町、三碓町の各一部から分置。
    • 三碓 - 1984年
      • 三碓町の一部から分置。
    • 赤膚町 - 1985年
      • 五条町、中町の各一部から分置。
    • 六条西 - 1985年
      • 五条町、六条町、七条町、中町、石木町の各一部から分置。
    • 六条緑町 - 1985年
      • 五条町、六条町、中町、石木町の各一部から分置。
    • 丸山 - 1985年
      • 大和田町、中町、石木町の各一部から分置。
    • 菅野台 - 1988年
      • 中町の一部から分置。
    • 西千代ヶ丘 - 1988年
      • 中町、三碓町の各一部から分置。
    • 大倭町 - 1988年
      • 中町の各一部から分置。
    • 藤ノ木台 - 1988年
      • 中町の一部から分置。
    • 北登美ヶ丘 - 1988年
      • 押熊町の一部から分置。
    • 五条西 - 1989年
      • 五条町、中町の各一部から分置。
    • 三松 - 1989年
      • 二名町の一部から分置。
    • 学園新田町 -
    • 学園赤松町 -
    • 学園緑ヶ丘 -
    • 松陽台 -
    • 大渕町 -
      • 二名町から分置。
    • 南登美ヶ丘 -
    • 二名 -
    • 二名東町 -
    • 二名平野 -

脚註編集

  1. ^ 町村名は昭和の大合併前の自治体名を記した。
  2. ^ 住井編『学園前のあゆみ』34頁
  3. ^ 奈良県『奈良県宅地供給計画 学園前地区 策定報告書』
  4. ^ 奈良市 Webページ 『古今奈良の都市計画今昔物語 - 学園前の住宅開発経緯』
  5. ^ 朝日新聞社編『奈良新風土記 学園前』
  6. ^ 西田大智、実森出『ふるさとはニュータウン』
  7. ^ リクルート『住宅情報style. 関西版』
  8. ^ 朝日新聞社編「8. もっと奥も」『奈良新風土記 学園前』朝日新聞 奈良1P版 1982年9月9日 閲覧
  9. ^ 住井編『学園前のあゆみ』34頁
  10. ^ 森田勝によると、1970年当時、百楽園の西部では富雄駅を最寄としていたという。1986年に学園前駅から百楽園へ向かうバスが大幅に増発されたため、2008年現在とは事情が異なる。
  11. ^ 奈良市 Webページ 『古今奈良の都市計画今昔物語 - 学園前の住宅開発経緯』
  12. ^ 参考文献に掲載されている図では二名町(真弓)と記載されている。
  13. ^ 奈良市『奈良市統計書』
  14. ^ 奈良市『統計なら』
  15. ^ a b 参考文献には8kmとあるが明らかに誤植である。国土地理院の5万分の1の地形図で、丘陵の北端である京田辺市松井山手駅から大和郡山市郡山城までの直線距離を実測したところ20kmであった。よって8kmではなく18kmの誤植であると考えられる。(執筆者註: 18kmを証明する参考文献を求む。)
  16. ^ a b c d e f g 参考文献『学園前のあゆみ』による。
  17. ^ 松川 『平城京跡の村 秋篠川流域』 132頁
  18. ^ 住井編『学園前のあゆみ』10頁
  19. ^ 奈良県史編集委員会編『奈良県史』236-237, 253頁
  20. ^ 奈良県史編集委員会編『奈良県史』236-237, 253頁
  21. ^ 登美ケ丘高等学校『創立十周年記念誌』
  22. ^ 登美ケ丘北中学校Webページを参考
  23. ^ a b 『ニュータウン 奈良学園前』より
  24. ^ 参考文献『産経新聞』より
  25. ^ 豊中市より
  26. ^ 近畿日本鉄道編『50年のあゆみ』
  27. ^ 奈良市『奈良市都市計画』
  28. ^ 近畿日本鉄道編『最近20年のあゆみ』
  29. ^ 高橋『ニュータウン - 奈良学園前 -』
  30. ^ 住井編『「学園前産土の森」あゆみ 続編』
  31. ^ 関西電力、2002年、1098頁
  32. ^ 産経新聞、2005年
  33. ^ 関西地方電気事業百年史編纂委員会、1987年、116頁、486頁
  34. ^ 関西電力、2002年、128頁
  35. ^ 学園南中自治会,
  36. ^ 近鉄系列の中華料理店。学園前店は閉店したが、2008年現在でも奈良県大阪府東京都などに店舗を持つ。
  37. ^ a b 『角川地名大事典 奈良県』より
  38. ^ a b 『富雄町史』より
  39. ^ 添御県坐神社 公式サイト
  40. ^ 添御縣坐神社 地域情報ネットワーク株式会社おすすめエリア
  41. ^ a b 参考文献『最近20年のあゆみ: 創業70周年記念』による。
  42. ^ 参考文献「ふるさとはニュータウン 大和の20世紀(連載全10回)」による。
  43. ^ 1973年に開校した2代目の二名小学校。奈良市立富雄北小学校の前身とは異なる。
  44. ^ 近鉄では2008年現在においても全ての駅に駅長を置かず、駅長配置駅の駅長が複数の駅を管轄する方式が採られている。

参考文献編集

  • 書籍
    • 生駒市誌編纂委員会編『生駒市誌 地誌編』生駒市、1971年-1985年、
    • 大阪ガス『大阪ガス100年史 1905~2005』2005年
    • 関西地方電気事業百年史編纂委員会編『関西地方電気事業百年史』1987年
    • 関西電力五十年史編纂事務局編『関西電力五十年史』関西電力、2002年
    • 北倭村誌編纂委員会『北倭村誌』北倭村誌編纂委員会、1962年
    • 近畿日本鉄道編『最近20年のあゆみ 創業70周年記念』1980年
    • 近畿日本鉄道編『50年のあゆみ』1960年
    • 工業時事通信社編『近畿地区の下水道 第8次五カ年計画版. 1』1996年、ISBN 4876121540
    • 国土交通省都市・地域整備局編『都市計画年報 平成18年』都市計画協会、2007年
    • 住井恒雄編『「学園前産土の森」あゆみ』学園前産土の森保存会、1988年
    • 住井恒雄編『「学園前産土の森」あゆみ 続編』学園前産土の森保存会、1998年
    • 住井恒雄編『学園前のあゆみ』学園前ショッピングセンター開設十五周年記念事業誌発行委員会、1975年
    • 帝塚山学園記念誌編集委員会編『帝塚山学園五十年史』帝塚山学園、1991年
    • 帝塚山学園創立60周年誌編集委員会編『松毬(まつかさ)創立60周年記念誌』帝塚山学園、2001年
    • 富雄北小学校創立百周年記念事業実行委員会編集部編『富雄北 創立百年史』富雄北小学校創立百周年記念事業実行委員会、1973年
    • 富雄町史編纂委員会編『富雄町史』富雄町教育委員会、1954年
    • 奈良交通編『奈良交通のあゆみ 発足50周年記念』1994年
    • 奈良県『奈良県宅地供給計画 学園前地区 策定報告書 昭和54年度』1980年
    • 奈良県史編集委員会、藤田佳久編『奈良県史 第1巻 地理 地域史・景観』名著出版、1985年、ISBN 4626010970
    • 奈良県都市計画研究会編『奈良県の都市計画 近代都市計画と都市計画区域マスタープラン』清文社、2004年
    • 奈良県土木部下水道課編『奈良県の下水道』2006年
    • 奈良県立北大和高等学校『北大和高等学校30年ものがたり』2003年
    • 奈良県立登美ケ丘高等学校『創立十周年記念誌』1996年
    • 奈良市史編集審議会編『奈良市史 地理編』吉川弘文館ISBN 464201571X
    • 奈良市史編集審議会編『奈良市史 自然編』吉川弘文館、ISBN 464201571X
    • 奈良市水道局『奈良市水道五十年史』1973年
    • 奈良市立図書館編『奈良市の図書館 平成18年度版』2006年
    • 奈良市立富雄中学校50周年記念事業実行委員会編『50周年記念誌』1997年
    • 奈良電気鉄道株式会社社史編纂委員会編『奈良電鉄社史』近畿日本鉄道、1963年
    • 西村一朗前田真子『これからの郊外戸建住宅地 「思い出し・思い入れ」から「つながり」へ 平城・相楽ニュータウンを事例に』せせらぎ出版、2005年、ISBN 4884161440
    • 伏見町史刊行委員会編『伏見町史』1981年
    • 松川文吉『平城京跡の村々 秋篠川流域』東洋書院、1993年、ISBN 4885942098
    • 編者不詳『奈良市及びその周辺地区における水道事業基礎計画』1968年
  • 雑誌等
    • 北畠潤一「奈良盆地の北西部丘陵における住宅地化 1965~1976年」『地理学評論』Vol.54, No.8 、日本地理学会古今書院、1981年
    • 篠部武嗣「近鉄学園前駅の交通規制によるバス優先化策」『トランスポート』Vol.42, No.4、運輸振興協会、1992年
    • 関口靖之「地形図にみる都市と大学 日本の学園前とイングランド・スイスの若干の事例」『日本文化史研究』Vol.28、帝塚山大学、1998年
    • 高橋誠一「ニュータウン 奈良学園前」『地理』Vol.28, No.2、古今書院、1983年
    • 淡野明彦「大都市圏における地価形成の傾向分析 大阪大都市圏奈良県北西部の事例」『奈良教育大学紀要, 人文・社会科学』Vol.29, No.1、奈良教育大学、1980年
    • 都司尚、北畠肇、牧洋史他「施工 関西学研都市へアクセス路線を建設 京阪奈新線 生駒~登美ヶ丘間」『トンネルと地下』Vol.34, No.3 通号391、土木工学社、2003年
    • 中島大輔「私鉄による戦前期開発地域の変容 奈良市菖蒲池南園住宅地の事例」『立命館地理学』Vol.13、立命館大学、2001年
    • 長田宏「現場から 近鉄奈良線学園前駅改良等工事」『日本地下鉄協会報 Subway』通号120、日本地下鉄協会、1999年
    • 『住宅情報style. 関西版』Vol.30, No.33 通号1461、リクルート関西支社、2007年
    • 「大阪歯科大学天満橋附属病院, ロ-レルスクエア登美ヶ丘第1期, 坂出カトリック教会」『建築と社会』Vol.78, No.10、日本建築協会、1997年
    • 「学園前総合開発計画競技設計(最優秀案)〔設計・安藤忠雄他〕」『建築』通号139、中外出版、1972年
    • 「近鉄学園前駅ビル(ル・シェル学園前)」『近代建築』Vol.53, No.12、近代建築社、1999年
    • 「西登美ヶ丘の家」『住宅建築』通号285、建築資料研究社、1998年
    • 「フォトレポート 『総合案内』の設置により利便性・効率性の向上図ったクリニックモール」『シニアビジネスマーケット』No.37、綜合ユニコム、2007年
  • 学会予稿集等
    • 磯田憲生、佐々尚美「環境共生に係る意識や住まい方に関する調査研究 奈良市近郊の新興住宅地の戸建住宅を対象とした場合(2002年度大会(北陸) 学術講演梗概集)」『学術講演梗概集. 計画系』Vol.2002, No.D-2、日本建築学会、2002年
    • 今井範子、山本稲子「郊外住宅地・奈良市学園前における高齢期の家族形態と居住形態の動向」『学術講演梗概集. 計画系』Vol.2002, No.E-2、日本建築学会、2002年
    • 近藤公夫、前川京子「住宅敷地外囲工についての居住者意識 奈良市学園前住宅地における事例研究」『造園雑誌』Vol.33, No.3、日本造園学会、1970年
    • 東海林史子、渡瀬章子、田中智子「7340 駅型保育所の利用者ニーズに関する研究 第2報 認可保育所との比較 その2 利用状況と評価」『学術講演梗概集. F-1, 都市計画, 建築経済・住宅問題』Vol.1999、日本建築学会、1999年
    • 東海林史子、渡瀬章子、田中智子「7209 駅型保育所の利用者ニーズに関する研究(都市型建築・施設複合)」『学術講演梗概集. F-1, 都市計画, 建築経済・住宅問題』Vol.1998、日本建築学会、1998年
    • 瀬本真弓、多治見左近「7102 奈良市における地域共有施設の形態と管理に関する研究」『学術講演梗概集. F, 都市計画, 建築経済・住宅問題, 建築歴史・意匠』Vol.1992、日本建築学会、1992年
    • 山下和子、鳴海邦碩、澤木昌典、岡絵理子「5059 集合住宅団地における計画的コミュニティ形成に関する研究 ローレルスクエア登美ヶ丘を事例として」『日本建築学会近畿支部研究報告集. 計画系』Vol.42、日本建築学会、2002年
    • 横島毅「奈良県における住宅地開発の動向及び秩序立ての一試案 都市計画」『学術講演梗概集. 計画系』Vol.45、日本建築学会、1970年
  • 新聞記事
    • 西田大智、実森出 「ふるさとはニュータウン 大和の20世紀(連載全10回)」『読売新聞』大阪朝刊、2000年1月1日-11日 閲覧
    • 「学園前(連載全23回)」『朝日新聞』大阪朝刊奈良1P版〈奈良新風土記〉1982年9月1日-30日 閲覧。
  • 地図
    • 大阪人文社編集部編『奈良県都市計画地図集』1973年版、大阪人文社出版センター、1973年
    • Jinbun21編『奈良県都市計画地図集』平成18年版、大阪人文社出版センター南事務所、2006年
    • 『奈良市西部』奈良市〈1:10000都市計画図〉、1951年
  • ウェブ上の資料

関連項目編集