孫 奇逢(そん きほう、1585年 - 1675年)は、中国明末清初の儒者、性理学の大家。字は啓泰、号は鍾元夏峯先生と称せられる。直隷省保定府容城県出身。

孫奇逢

生涯 編集

篤行で名をよく知られ、1600年万暦28年)に郷試に合格し挙人となり、その頃から東林党の党人との間に親密な交流を持った。その後両親を亡くし6年間服喪し、朝廷に召されても応じず、貧困に甘んじて暮らしていた。1633年崇禎6年)に清兵が容城の県城を包囲した際にも民衆とともに守備し、その後は易州五公山に転居している。清代以降も朝廷の招聘に応じず、明代より合計11回も徴命されたことから「孫徴君」と称された。1652年順治9年)に河南省衛輝府輝県蘇門山中にある夏峯に居を定め、25年にわたり講学に専念した。1675年康熙14年)に享年90で没する。1828年道光8年)に孔子廟に祀られた。

学問と著作 編集

陸象山王陽明に基本を置くが、朱子学も採用していた。盛名はあったが嫉視を招くことなく、李顒黄宗羲と同格に置かれ、「明末清初の三大儒」と評された。現代中国の評論家である銭鍾書は、孫奇逢の特筆すべき点は「講学では身体力行(実行)を重んじたこと、明末の乱世に数百家を率いて防衛し郷里を保全したこと、門人を多く教育し人才を輩出したこと」であるという。

  • 『理学宗伝』20巻…周茂叔程頤から王陽明・羅洪先顧憲成など11人を性理学の正統とし、その伝記と学説を系統的に述べたものである。
  • 『隋儒考』1巻
  • 『唐儒考』1巻
  • 『宋儒考』4巻
  • 『元儒考』1巻
  • 『明儒考』7巻・附録1巻
  • 『聖学録』
  • 『読易大旨』
  • 『四書近指』

参考文献 編集

  • 『続表忠記』2
  • 『小腆紀伝』53
  • 『明儒学案』57