宇文 化及(うぶん かきゅう)は、政治家軍人隋末の混乱期に独立して皇帝を僭称しを建国した。宇文智及の兄、宇文士及の異母兄。

宇文化及
皇帝
王朝
在位期間 618年 - 619年
都城 魏県
姓・諱 宇文化及
生年 不詳
没年 天寿2年(619年
宇文述
年号 天寿 : 618年 - 619年

経歴 編集

北周の左翊衛将軍宇文述の長男として代郡武川鎮(現在の内モンゴル自治区フフホト市武川県)に生まれ、若くから国都長安で育った。長安では「軽薄公子」と呼ばれていた。幼少の頃より楊広(煬帝)の寵愛を受け、何度も賄賂を受けたために再三免官されたが、煬帝はすぐに復職させた。煬帝の即位後は太僕少卿に任じられている。大業元年(605年)に煬帝が楡林に行幸すると、弟の宇文智及とともに禁止されていた突厥との交易をおこなったので煬帝は激怒して彼ら兄弟を数ヶ月収監したままにした。煬帝は大興城に到着すると兄弟を斬首してから入城しようと思ったが、宇文士及に嫁いだ南陽公主のこともあり、しばらくして二人の死罪を赦し、宇文述の奴隷とさせた。大業2年(616年)に述が死去するとその遺言により身分を戻して右屯衛将軍に任命された。

大業14年(618年)、叛乱を避け江都に逃れたまま大興城(長安)へ帰還しようとしない煬帝に対し、司馬徳戡趙行枢薛世良らによる反乱が計画され、宇文化及はその指導者に推戴された。宇文化及は弟の宇文智及とともに禁軍を伴って宮中の煬帝を弑殺し、煬帝の弟の秦王楊俊の子の秦王楊浩を擁立して皇帝とし、自らは大丞相となった。宇文化及は江都の隋軍を糾合して北上したが、王世充李淵李密らの勢力に阻まれ長安に入ることはできなかった。そのため楊浩を毒殺し、魏県を根拠地として自ら皇帝に即位、国号を、元号を天寿と定めた。

天寿2年(619年)、竇建徳聊城で敗れると宇文智及ら部下は処刑され、自らは子の宇文承基宇文承趾とともに襄国に運ばれて斬首された。化及の首は突厥に嫁いだの宗室の娘である義成公主に送られた。

脚注 編集

伝記 編集

  • 隋書』巻85(列伝第50)
  • 北史』巻72(列伝第62)

出典 編集

  • 『隋書』第六冊、中華書局(北京)、1973、pp1888–1892、ISBN 7-101-00316-8

注釈 編集

外部リンク 編集