宇都宮景綱

1235-1298, 鎌倉時代中期の鎌倉幕府の御家人。宇都宮泰綱の子。法名は蓮瑜。勅撰集『続古今和歌集』以下に30首入集

宇都宮 景綱(うつのみや かげつな)は鎌倉時代中期の鎌倉幕府御家人宇都宮氏第7代当主。父は宇都宮泰綱。母は北条朝時の娘。

 
宇都宮景綱
Utsunomiya Kagetsuna.jpg
宇都宮景綱像(『集古十種』より)
時代 鎌倉時代中期
生誕 嘉禎元年(1235年
死没 永仁6年5月1日1298年6月10日
別名 下野四郎、宇都宮検校、弥三郎
官位 下野尾張
幕府 鎌倉幕府 引付衆評定衆
主君 宗尊親王惟康親王久明親王
氏族 宇都宮氏
父母 宇都宮泰綱北条朝時の娘
兄弟 景綱経綱盛綱
北条経時室、小山時長
正室:安達義景の娘
貞綱、三鶴丸、泰宗
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生涯編集

建長4年(1252年)4月、宗尊親王の近習として仕える。正嘉元年(1257年)には御格子番、弘長3年 (1263年)には御鞠奉行に任じられるなど、宗尊親王から重用された。その後も下野守に叙任され、引付衆評定衆に任じられるなどして、幕政の中でも重きを成した。弘安6年(1283年)には御成敗式目に基づき宇都宮家式条(宇都宮家弘安式条)を制定した。

弘安8年(1285年)11月、内管領平頼綱によって安達泰盛が滅ぼされた霜月騒動では、景綱は安達氏の縁戚(泰盛と義兄弟の関係)であった事から失脚するが、永仁元年(1293年)に平禅門の乱で頼綱が滅ぼされると幕政に復帰した。永仁6年(1298年)5月1日、64歳で死去。

人物編集

  • 歌人としても優れた才能を持っていたといわれている。
  • 安達義景の娘を正室に迎えたが、(実名)の「景」の字はその義景から一字拝領したものと考えられている[1]

脚注編集

  1. ^ 江田郁夫 「総論 下野宇都宮氏」(所収:江田郁夫 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第四巻 下野宇都宮氏』(戎光祥出版、2011年)P.9)より。父の泰綱や子の貞綱、孫の高綱北条氏得宗家より1字を受けていたが、景綱は例外であった。しかし、安達氏は得宗家の外戚として幕政の中枢に位置していた家柄であるから冷遇というわけではないようである。或いは義景が得宗家当主(北条時頼か)の指名を受けて烏帽子親となった可能性も考えられる(参考:山野龍太郎 「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年))。