宇野勝

日本の元プロ野球選手・コーチ・野球解説者

宇野 勝(うの まさる、1958年5月30日 - )は、千葉県八日市場市(現:匝瑳市)出身の元プロ野球選手内野手外野手、右投右打)・コーチ野球解説者YouTuber愛称はうーやん。

宇野 勝
中日コーチ時代
(2012年8月28日 こまちスタジアムにて)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県八日市場市(現:匝瑳市
生年月日 (1958-05-30) 1958年5月30日(65歳)
身長
体重
180 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手三塁手二塁手外野手
プロ入り 1976年 ドラフト3位
初出場 1977年7月29日
最終出場 1994年7月13日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 中日ドラゴンズ (2004 - 2008, 2012 - 2013)
宇野 勝
YouTube
チャンネル
活動期間 2020年9月23日 - 2022年11月18日
ジャンル 野球
登録者数 約9070人
総再生回数 1,335,122回
チャンネル登録者数・総再生回数は
2023年10月13日時点。
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NPBにおける、史上初の遊撃手としての本塁打王獲得者

経歴 編集

プロ入り前 編集

銚子商業高校では遊撃手、3番打者として活躍。1975年秋季関東大会県予選決勝に進むが、習志野高の鵜野稔に完封を喫し春の選抜出場を逸する。1976年夏の甲子園に出場。エース佐藤斉(住金鹿島)の投打にわたる活躍もあり準々決勝に進むが、この大会に優勝した桜美林高の松本吉啓(明大 - 明治生命)に抑えられ敗退[1]。1年下のチームメイトに、後にプロで同僚となる中堅手尾上旭がいた。同年のドラフト会議中日ドラゴンズから3位指名を受けて、入団する。

プロ入り後 編集

1978年のシーズン後半から一軍に定着し、遊撃手、二塁手として11試合に先発出場。

1979年には正岡真二から遊撃手の定位置を奪取。

1980年には初の規定打席(29位、打率.245)に達する。

1981年には打率.282、25本塁打の好記録を残した。しかし守備面では安定感を欠き、1979年以降7年間で6回のリーグ最多失策を記録している。8月26日の読売ジャイアンツ戦で、7回裏の守備の際に山本功児の打った飛球を捕ろうとしたところ、目測を誤ってボールを頭部に当てるエラーを喫したことが宇野ヘディング事件として知られる。

1982年のリーグ優勝に貢献、西武ライオンズとの日本シリーズでは全6試合に6番・遊撃手として出場するが、20打数4安打1打点5四球と存在感を示せなかった。

1984年は37本塁打で掛布雅之阪神タイガース)と本塁打王のタイトルを分け合った。この年の129試合目と130試合目(シーズン最終戦)は対阪神戦だったが、両軍投手による掛布、宇野の敬遠合戦の末、両者が本塁打王を獲得した。129試合目の7回裏二死満塁で打席が回ってきた際にも歩かされているが、捕手が中腰で捕球したため敬遠とはならず、記録は四球となった。またベストナインにもこのシーズンを含め3度選出されている(その他に1982年1987年)。自身の1シーズン最多本塁打は1985年の41本塁打で、遊撃手のシーズン本塁打としては歴代最多記録である。中日の選手会長だった平野謙が西武ライオンズにトレードで移籍したため、その後任として選手会長を1988年から2年間務めた。

中日時代はシーズン20本塁打以上を9回(うち30本以上は3回、40本以上は1回)記録し、3度もベストナインに選ばれたが、当時のセントラル・リーグには山下大輔高橋慶彦池山隆寛といった人気・実力を兼ね備えた遊撃手が存在していたため、オールスターゲームにはなかなか出場できなかった[注 1]

1988年立浪和義が入団すると前年のベストナインでありながら遊撃手を立浪に譲って二塁手に転向[2]。同年の西武との日本シリーズでは全5試合に二塁手、5番打者として出場、日本一はならなかったが第3戦、第5戦で本塁打を放ち気を吐いた。翌1989年は立浪が前年の怪我で出遅れた為、遊撃手での出場が多かったが、1990年からロッテに移籍するまでは三塁手、外野手としての出場が多くなった[3]

1992年のシーズン前に記者団から目標を聞かれ、「3割、30本、3盗塁」と宣言。しかし、立浪和義種田仁前原博之との定位置争いに敗れ、オフに長嶋清幸と共に今野隆裕横田真之とのトレード千葉ロッテマリーンズに移籍。

1994年オフ、成績不振・出場機会減少によりロッテから戦力外通告を受け、移籍先が見つからなかったためこの年限りで現役を引退した。当初は星野仙一の監督復帰に伴い現役選手として中日復帰が内定していたが、高木守道10.8決戦で日本プロ野球を盛り上げた功績を評価されたことで監督留任が決定し、立ち消えになった[4][5]

引退後 編集

引退後、1995年から2003年までの9年間は、名古屋テレビ(メ〜テレ)・東海ラジオ野球解説者、デイリースポーツ野球評論家を務めていた。

2004年から2008年まで中日の打撃コーチを務めた。この間、2007年にペナントレース2位ながらもクライマックスシリーズ制覇で出場権を得た同年の日本シリーズで日本一(およびアジア一)となる。それまで1982年の日本シリーズ1988年の日本シリーズに選手として、2004年の日本シリーズ2006年の日本シリーズにコーチとして4度とも中日側から出場しているがいずれのシリーズも敗退して涙を呑んでおり、初の体験であった[注 2]。コーチ時代にはナゴヤドームの試合終了後、ベンチからスタンドにサインボールを投げ入れるサービスをしている。

2009年度より再び東海ラジオ、2010年度からはメ〜テレの野球解説者となり、落合監督就任当初からコーチとしてチームに在籍した経験を生かした解説を行い、日刊スポーツの野球評論家に就任した。2012年からは再び中日一軍打撃コーチに復帰し[6]、シーズン後二軍総合兼打撃コーチに配置転換されることが発表された。

2013年、10月4日に球団から翌年の契約を結ばないことが発表され[7]2014年からは再度メ〜テレ・東海ラジオ解説者、東京スポーツ評論家を務める。2020年9月25日、YouTube公式チャンネル「宇野勝の「UNO is PERFECT」を開設した[8]

選手としての特徴 編集

1980年代が全盛期で主に5番を打ち、長距離打者として活躍したが、本塁打王を獲得した年はリーグ最多の117三振もあわせて記録する(前年も97三振でリーグ最多を記録)など、三振が多かった。一般的には遊撃手は守備での負担が大きいといわれるが、宇野の場合は三塁手や外野手として出場したときが打撃不振になることが多かった。

8月に調子を上げて本塁打を量産することからファンやマスコミから「ミスターオーガスト」と呼ばれた。数少ない遊撃手の長距離打者で、1984年の本塁打王獲得は遊撃手として初の記録。1985年に記録した41本塁打は遊撃手における最多本塁打記録で、2019年に坂本勇人(巨人)が達成するまで遊撃手唯一の40本塁打だった。燃えよドラゴンズ!79では「8番宇野がスクイズバント」という歌詞があるが、本人は「スクイズをしたことがない」とコメントしている。

珍プレーの影響や、リーグ最多失策を7回記録するなどエラーが多いため、守備が下手というレッテルを張られているが、落合博満は宇野の守備を、「アレは中日のショートではトップクラス。ちゃらんぽらんに見えるけど、アレはうまい」と絶賛している[9]。エラーが多く守備面での安定感が無いことから、本人は「ピッチャーの人に迷惑をかけないように、エラーを減らしたい」と毎年決意表明していた。

また、成功率の低い盗塁を度々敢行し、78盗塁に対し96の盗塁死を記録しており、これは盗塁企図数100以上の選手のワースト成功率である。

日米野球に強く、4試合出場して5本塁打を放っている。さらに1試合2本塁打を2回記録しており、これは日米野球で1試合2本塁打を達成した5名(宇野の他に川上哲治王貞治江藤愼一松井稼頭央)の中では4回を記録している王に次ぐ記録である。

珍プレーなど 編集

1982年4月24日の大洋戦(横浜)ではユニフォームを忘れたため、背番号77をつけていた飯田幸夫コーチから借りて試合に出場した。相手チームの野次の中、宇野はその試合で本塁打を放った。その後、2004年にコーチとして中日に復帰した際には正式に背番号77のユニフォームを着用していた[10]

1984年5月5日の大洋戦(横浜)では、ライトへの浅いフライを打ち、ライトの高木由一の落球エラーで出塁したものの、ハーフウェーで打球の行方を追って待機していた一塁走者の大島康徳を見向きもせずに追い抜いてアウトになり、やはり年末の『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』に大きく取り上げられることとなった[注 3]。ちなみに前述のヘディング直後にボールを拾いに行ったのも大島である。

各局の珍プレー番組では、宇野のエラーやミス、動作や所作を集めた特集が毎回のように組まれるようになり、本人は毎回の如く紹介されるのを嫌がっているが、著書『ヘディング男のハチャメチャ人生』では「(ヘディングは)やって良かった。感謝している」と書いている。

2000年の「勇者のスタジアム・プロ野球好珍プレー」(日本テレビ)では、20世紀の珍プレーランキング2位に輝いた(1位は達川光男)。司会の江川卓から「宇野選手にとって、珍プレーとは?」と聞かれ、「他人のは面白いですね」とコメントしている。自身のヘディング事件については「忘れてましたね」、「ボクがなぜここに呼ばれているのか、全然分からない」とギャグを飛ばした。また、散々宇野のエラーや珍プレーがVTRで紹介された後、宇野は「ちゃんとプロ野球やってきたんで」と反論のコメントをしたが、司会の江川が「大丈夫です、みんな知ってますから。(エラーで)落とした数より取った数の方がちょっと多いって」とギャグを飛ばし、宇野も「それ、すごいですよね」と返答した。

1993年6月17日の日本ハム戦(千葉マリン)では、先発投手の吉田篤史が打球を受けてベンチで手当てを受けている間、遊撃手の守備位置を離れマウンドで投球練習を開始。これを見た日本ハムの小川浩一が打席に入り、宇野の投じた球を打ち返した。打球は両手を広げた右翼手・マックス・ベナブルの頭上を越えて行き、場内が笑いに包まれる中、苦笑を浮かべた宇野は膝をついていた。

コーチ時代、2004年の落合監督初優勝の翌日、川崎憲次郎の引退試合で、1回終了後、川崎の胴上げを中日、ヤクルトの両チーム選手がしようとした時、コーチでは宇野のみが飛び出し、しばらくしてから気づいてベンチへ戻っていった。

人物 編集

愛称は「ウーやん」。現役時代の応援歌の原曲は『ウルトラセブン』の「ウルトラ警備隊の歌」の前奏・間奏・後奏(いずれも同じメロディ)[11]。ロッテ移籍後もこのテーマが使用された。

高い人気を誇っていた選手であり、1982年からは、宇野が打席に立つとスタンドに宇野の顔を模造した巨大な『宇野くん人形』が現れ、チベットの“マスクダンス”さながらの熱狂的な応援が繰り広げられていた[12][13]

成績もさることながら、あまりにも上記のヘディング事件の印象が強く、現在まで続く「珍プレー好プレー」の番組誕生となる礎を作ったともいえる点で、プロ野球がバラエティ番組の素材となる傾向を結果的に後押しした選手である。

人間関係 編集

1987年に中日に移籍加入した落合博満とは、打撃の話で何度も徹夜したという。落合は宇野の打撃理論を評価しており、監督就任時に打撃コーチとしてオファーしている。宇野自身も「落合さんが来て初めてチームバッティングというものを教わった」と発言するなど、落合を尊敬している。落合加入の影響は宇野の成績にも表れ、1987年には出塁率が初めて3割5分を超えると、1989年には自身初の打率3割を記録した。コーチ退任後も互いに笑顔で会話を交わす等、その関係は尚も良好であった[14]

家族 編集

これまでに2度結婚している。本塁打王獲得の翌年(1985年)に前夫人(宇野の熱烈なファンであったと言われる[13])と離婚したが、その原因は前夫人の浪費によるもので、給料を球団管理に置くなどしたが、結局離婚に踏み切る[15]。この際、前夫人の借金(約8000万円といわれる)を宇野は全て自分で引き受けたが、前夫人の悪口は一言も口にしなかった。

後に中部日本放送(CBC)アナウンサーだった寺嶌しのぶ再婚している。

詳細情報 編集

年度別打撃成績 編集

















































O
P
S
1977 中日 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1978 26 55 48 6 10 2 0 3 21 7 1 0 1 0 6 0 0 14 1 .208 .296 .438 .734
1979 122 395 359 42 95 14 2 12 149 37 4 8 5 2 21 6 8 74 4 .265 .318 .415 .733
1980 121 444 408 40 100 22 0 12 158 44 3 7 9 0 21 4 6 71 10 .245 .292 .387 .679
1981 128 475 429 62 121 18 3 25 220 70 6 7 12 5 26 2 3 85 8 .282 .324 .513 .837
1982 125 481 446 57 117 15 0 30 222 69 4 8 1 2 29 3 3 91 8 .262 .310 .498 .808
1983 129 516 457 71 123 21 2 27 229 64 9 7 4 3 47 4 5 97 9 .269 .342 .501 .843
1984 130 531 458 74 116 8 0 37 235 87 13 7 7 5 59 7 2 117 14 .253 .338 .513 .851
1985 130 550 486 82 133 17 2 41 277 91 5 6 2 4 56 6 2 98 14 .274 .349 .570 .918
1986 83 340 308 31 65 10 0 10 105 26 7 8 1 2 29 1 0 71 7 .211 .277 .341 .618
1987 130 534 471 72 127 20 0 30 237 80 9 10 0 2 61 4 0 75 21 .270 .352 .503 .855
1988 130 528 465 68 129 28 0 18 211 76 8 12 3 6 54 1 0 78 15 .277 .349 .454 .802
1989 119 488 437 66 133 22 0 25 230 68 2 7 6 5 39 3 1 82 15 .304 .359 .526 .885
1990 119 510 454 66 131 22 0 27 234 78 4 2 1 2 52 2 1 105 14 .289 .361 .515 .877
1991 125 478 428 56 102 18 3 26 204 74 2 3 2 3 43 2 2 112 11 .238 .309 .477 .785
1992 110 378 335 32 80 8 1 11 123 52 1 4 0 1 42 1 0 86 5 .239 .323 .367 .690
1993 ロッテ 59 185 166 12 30 3 1 3 44 9 0 0 2 1 16 0 0 43 1 .181 .251 .265 .516
1994 14 38 33 3 8 1 0 1 12 4 0 0 1 0 4 0 0 7 0 .242 .324 .364 .688
通算:18年 1802 6926 6188 840 1620 249 14 338 2911 936 78 96 57 43 605 46 33 1306 157 .262 .329 .470 .799
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル 編集

表彰 編集

記録 編集

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1983年8月18日、対ヤクルトスワローズ18回戦(明治神宮野球場)、6回表に酒井圭一から中越ソロ ※史上126人目
  • 150本塁打:1985年5月6日、対阪神タイガース6回戦(阪神甲子園球場)、5回表に池田親興から左越ソロ ※史上76人目
  • 1000試合出場:1987年4月14日、対広島東洋カープ1回戦(ナゴヤ球場)、6番・遊撃手として先発出場 ※史上268人目
  • 200本塁打:1987年4月18日、対阪神タイガース2回戦(ナゴヤ球場)、6回裏に池田親興から2ラン ※史上51人目
  • 1000安打:1987年10月8日、対阪神タイガース26回戦(阪神甲子園球場)、1回表に伊藤文隆から中前安打 ※史上149人目
  • 250本塁打:1989年5月10日、対広島東洋カープ4回戦(ナゴヤ球場)、2回裏に長冨浩志からソロ ※史上29人目
  • 1500試合出場:1991年4月14日、対横浜大洋ホエールズ2回戦(長良川球場)、7番・三塁手として先発出場 ※史上98人目
  • 300本塁打:1991年5月3日、対ヤクルトスワローズ6回戦(ナゴヤ球場)、4回裏にティム・バートサスから右越2ラン ※史上21人目
  • 1500安打:1991年10月15日、対広島東洋カープ25回戦(ナゴヤ球場)、2回裏に川島堅から ※史上62人目
その他の記録
  • 連続試合打点:10(1984年8月2日 - 8月14日)
  • 連続打席四球:10(1984年10月3日 - 10月5日)
  • 連続試合三振:23(1991年6月9日 - 7月14日)
  • 中日時代に記録した334本塁打は2019年シーズン終了時点において球団記録である。
  • オールスターゲーム出場:3回(1987年、1989年、1993年)

背番号 編集

  • 43(1977年 - 1978年)
  • 7(1979年 - 1992年)
  • 2(1993年)
  • 49(1994年)
  • 77(2004年 - 2008年)
  • 73(2012年 - 2013年)

関連情報 編集

出演 編集

テレビ番組 編集

ラジオ番組 編集

CM 編集

著書 編集

  • 『ヘディング男のハチャメチャ人生』(海越出版社, 1986年1月)ISBN 4-906203-31-0

ディスコグラフィー 編集

原辰徳岡田彰布高橋慶彦遠藤一彦荒木大輔と共にコーラス参加。

脚注・出典 編集

注釈 編集

  1. ^ 逆にロッテ移籍後には、不振にもかかわらずファン投票で選ばれたことがある。
  2. ^ 1988年に出場した日本シリーズでは敢闘選手賞を受賞している。
  3. ^ このプレーに関しては、走り出さなかった大島のミスであったという説もあるが、ライトが取れそうな浅いフライの行方を追い続けてハーフウェーで待機する大島の判断は当然のプレーであり、一塁で止まらなかった宇野の方がミスを犯しているという見方の方が強い。

出典 編集

  1. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  2. ^ 【追悼 星野仙一氏】宇野勝氏 必ずフォローしてくれた「気遣い」の人”. 東京スポーツ (2018年1月7日). 2021年4月11日閲覧。
  3. ^ http://2689web.com/ind/1977001.html
  4. ^ 【星野の記憶】宇野勝氏 あの“ヘディング”の試合後「飯でも食いに行こうや」”. スポニチアネックス (2018年1月12日). 2021年4月11日閲覧。
  5. ^ ロッテ移籍2年目の衝撃「もう名古屋帰ってもいいよ」【ウーやんが語る「プロ野球選手のセカンドキャリア」】”. YouTube (2020年12月11日). 2021年4月11日閲覧。
  6. ^ 来季のコーチングスタッフについて”. 中日ドラゴンズ 公式サイト (2011年11月21日). 2011年11月21日閲覧。
  7. ^ 来季の契約について”. 中日ドラゴンズ 公式サイト (2013年10月4日). 2021年4月11日閲覧。
  8. ^ 宇野勝の「UNO is PERFECT」”. YouTube. 2021年4月11日閲覧。
  9. ^ 落合博満氏 中日史上トップの名手に意外な?名前「ちゃらんぽらんに見えるけど…」”. スポーツニッポン (2018年12月14日). 2021年4月11日閲覧。
  10. ^ 久保田龍雄 (2018年2月14日). “宇野勝が生み出した「伝説の珍プレー」 “アレ”だけじゃなかった! (ページ2)”. AERA dot.. 2022年7月7日閲覧。
  11. ^ 宇野本人は2020年まで原曲を知らなかったという。…【還暦越えウ-やん初耳】宇野勝「背番号7 衝撃のハナシ」 - メ~テレ 公式チャンネル、2020年4月27日配信。
  12. ^ [コラム]発掘!25周年ドアラに先輩がいた 19日からの竜陣祭前に知っておきたい - 中日スポーツ、2019年4月18日配信。
  13. ^ a b 別冊宝島『プロ野球名選手読本』(宝島社) P.262。
  14. ^ 山岡則夫 (2020年9月11日). “落合博満は「同志」、中日でともに戦った宇野勝が語る“孤高の男”の実像”. AERA dot.. 2020年9月12日閲覧。
  15. ^ 莫大借金トラブルも自己最高の41本塁打”. 東京スポーツ (2021年2月24日). 2021年7月6日閲覧。

関連項目 編集

外部リンク 編集