メインメニューを開く

安藤百福

かつての台湾出身の日本の実業家、インスタントラーメン、カップ麺の開発者

安藤 百福(あんどう ももふく、1910年明治43年)3月5日 - 2007年平成19年)1月5日)、は日本の実業家インスタントラーメンチキンラーメン」、カップ麺カップヌードル」の開発者として知られる。日清食品)創業者。日本統治時代の台湾出身で、元の名前は呉百福、民族は台湾人。1966年(昭和41年)に日本国籍を取得[2]

あんどう ももふく
安藤 百福
Silver statue of Momofuku Ando 20120315.jpg
カップヌードルミュージアムに展示されている安藤の像
生誕 呉百福
1910年3月5日
大日本帝国の旗 台湾嘉義庁樸仔脚
死没 (2007-01-05) 2007年1月5日(96歳没)
日本の旗 日本大阪府池田市
国籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
中華民国の旗 中華民国
日本の旗 日本(1966年に取得[1]
出身校 立命館大学専門部経済学科(二部)
職業 日清食品創業者
配偶者 安藤仁子(
子供 安藤宏寿(長男
安藤宏基二男
父: 呉獅玉(呉阿獅)
母: 呉千緑

1948年昭和23年)に(株)中交総社(後の日清食品)を設立し、日清食品の代表取締役社長、代表取締役会長、創業者会長を歴任。()日本即席食品工業協会会長、()安藤スポーツ・食文化振興財団理事長、(財)漢方医薬研究振興財団会長、世界ラーメン協会会長、(財)いけだ市民文化振興財団会長などを務めた。池田市名誉市民位階勲等は正四位勲二等。

目次

来歴・人物編集

少年時代編集

1910年、日本統治時代の台湾・台南県東石郡樸仔脚(現・嘉義県朴子市)に生まれる。父は呉獅玉(別名は呉阿獅)、母は呉千緑。父は資産家だったが、両親を幼少期に亡くし、繊維問屋を経営する祖父呉武のもと、台南市で育った。幼い頃から数字に異常なほど強い興味を持ち、足し算・引き算・掛け算を習得したという[3]。14歳で高等小学校を卒業[4]。学校と家が遠かったため、学生時代は東石郡守の森永信光宅に寄宿し通学した[5][6]

実業家となる編集

義務教育修了後、祖父呉武の繊維問屋を手伝い、森永郡守の紹介で20歳ごろに町に初めてできた図書館司書となったが2年で辞し、父の遺産で1932年に台湾の永楽市場で繊維会社「東洋莫大小(とうようメリヤス)」を設立して日本内地から製品を仕入れて台湾で販売した[4]。当時の繊維業界の動きからメリヤスの需要が大きく伸びるという予測が当たり、事業は大きな成功を収めた[7]1933年には大阪市にメリヤス問屋「日東商会」を設立。メリヤスを扱った他、近江絹糸紡績夏川嘉久次と組んで、トウゴマを栽培して実からひまし油を採取、葉を養蚕用に繊維メーカーに売る事業も手掛けた[8][9]。この時期の安藤は実業家として活動する傍ら、立命館大学専門部経済学科(二部)に学び、1934年3月に修了した(同校からは60年後の1996年10月に「戦後のベンチャービジネスの卓越した成果」を称えられ、名誉経営学博士号を授与された[10][11])。

太平洋戦争開戦後は、幻灯機の製造、バラック住宅の製造(兵庫県相生市)などの事業をした[12]。軍用機エンジンの部品製造をする軍需工場の経営にも携わったが、三等市民扱いされている外国人であるために45日間拘束されて憲兵から拷問を受けることになった。安藤は国から支給された資材の横流しに気付き憲兵隊に訴えたが、却って自身が横流しした疑いをかけられ、棍棒で殴られる、正座した足の間に竹の棒を挟まれる、といった拷問を受けた[13]。(憲兵隊の中に横流しをしたと思しき者の親戚がいたことが後に判明したと自著の中で書いている[14]。)自白を強要されたが調書への署名を拒否し、拷問はエスカレートした。安藤は留置場で知り合った人物を通じて知人の元陸軍将校に助けを求め、解放されたが留置生活の影響から深刻な内臓疾患を抱えることになり、後に2度の開腹手術を受けている[15]。空襲が激しくなると終戦まで兵庫県の上郡に疎開し炭焼きなどをするが、大阪で事業を手掛けていた頃在住していた千里山では、三軒隣に藤田田の一家が住んでおり、交流を持つこととなった[16]

1946年冬、疎開先から大阪へ戻り、泉大津市に住んだ。終戦直後は土地が安く手放されていたため、久原房之助の助言により、大阪の中心街の心斎橋ほか御堂筋大阪駅前など相当の土地を手に入れた[4]。戦後の食糧難の中で「衣食住というが、食がなければ衣も住もあったものではない」という思いを抱くようになり、食品事業を手掛けることを決意した[17]。安藤によるとこの時抱いた想いが原点となって、後に日清食品の企業理念「食足世平(食足りて世は平らか)」が誕生した[18]。自宅近くにあった軍需工場跡地の払い下げも受け、跡地に置かれていた鉄板を用いた製塩業や漁業を営んだ[19][20]1948年、「中交総社」(後の日清食品)を設立[21]。栄養食品の開発に取り組んでいた頃、仕事の関係で厚生省に出入りしていたが、当時厚生省は米国の余剰小麦を使って日本人に粉食を奨励しており、同省栄養課長の有本邦太郎(のち国立栄養研究所長)に麺食を進言し、その研究を勧められる[22]。専門家を集めて国民栄養化学研究所を設立し、牛や豚の骨からたんぱく質エキスを抽出することに成功、パンに塗るペースト状の栄養商品「ビセイクル」として病院にも供給された[23][24]

また、1947年に名古屋で開校した中華交通学院のオーナー・理事長を務めた(1951年に閉校して建物の大部分は名城大学となった)[20][25]

1948年12月、GHQに脱税の嫌疑をかけられた。安藤は前述の事業において地元の若者を雇い、彼らに「奨学金」として現金を支給していたが、奨学金は所得であり源泉徴収して納税すべきであるのにそれを行わなかったというのが理由であった。判決は4年間の重労働の刑[注釈 1]で、巣鴨拘置所に収監された。さらに安藤が個人名義で所有していた不動産は全て没収された。収監後、GHQは安藤の名を挙げて「納税義務に違反した者には厳罰を処す」という内容の談話を発表した[26]。安藤はこの一件について、「みせしめに使われたようだ」と述べている[27]。その後、法学者の黒田覚の支援を受け、弁護団を結成して処分取り消しを求める裁判を起こした。これに対しGHQ側は「訴えを取り下げれば釈放する」と取引を持ちかけた。当初安藤は断固裁判を継続する覚悟を固めていたが、最終的には大阪に残した家族の生活を案じて取引に応じて訴えを取り下げ、釈放された[28]。なお、日本の敗戦により、台湾人は外国人となった(平和条約国籍離脱者)。

インスタントラーメン、チキンラーメンを開発編集

収監中に営んでいた事業を整理していたため、事業家としての人生は振り出しに戻ってしまった[29]。大阪に新設されたある信用組合から懇願され、その理事長に就任したが、やがてその信用組合は破綻し「いよいよ無一文になった」[30]。なお、安藤はこの件において、信用組合と親密な関係にあった銀行に対し不信感を抱いたことから「銀行には頼らない」と心に決め、日清食品の経営時には無借金を貫いた[31]

大阪府池田市の自宅敷地内に小屋を作り、かねてから構想を抱いていたインスタントラーメン(即席めん)作りに取り組んだ。安藤はインスタントラーメンを「1.おいしくて飽きがこない、2.保存性がある、3.調理に手間がかからない、4.安価である、5.安全で衛生的である」の5要件を満たすものと定義した[32][33][34][35]。早朝から深夜まで小屋に籠り、インスタントラーメン作りに取り組む生活を1年間続けた[36]

開発の過程は失敗を繰り返しながら少しずつ前進するというもので、開発成功の決定的な場面は思い浮かばないという[37]。安藤はまず、スープの味を染み込ませた「着味麺」の開発に取り組んだ。小麦粉の中にスープを染み込ませて味の付いた麺を作ろうとしたが、製麺機にかけるとボロボロになって切れた。そこで麺を蒸してからスープに浸してみたが、今度は生地が粘ついて乾燥しにくいという問題が生じた。試行錯誤の末、じょうろを使って生地にスープをかけ、しばらく自然乾燥させた後に手でもみほぐすという方法を考案した[38]。スープはチキンスープを選んだ。きっかけは庭で飼っていたニワトリが調理中に暴れたことに驚いて以来鳥肉を口にしなくなった息子が、鳥ガラでとったスープで作ったラーメンだけは食べたことにあった[39]

次に、麺を長期間保存ができるように乾燥させ、かつ熱湯をかけるとすぐに食べることができる状態になる性質を持たせることに挑んだ。天ぷらからヒントを得て、麺を高温の油で揚げることにした[40][41]。安藤が意図したのは、麺を高温の油で揚げると水分がはじき出されると同時に麺に無数の穴が開き、熱湯を注いだ際にはその穴から湯が吸収されて麺が元に戻りやすくなるという仕組みであった。麺の固まりを油の中に入れるとバラバラに分解して浮かび上がるため、針金と金網を使って枠型を作り、その中に麺を入れて揚げる手法を考案した。これら一連の製法は「瞬間油熱乾燥法」と名付けられ[42]1962年特許を取得した[35][43]。安藤は、油熱乾燥させたラーメンは独特の香ばしさを持つようになるが、その香ばしさこそがおいしさの秘密であり、普通のラーメンとは違う食べ物にしているのだと述べている[44]

インスタントラーメンの開発は1958年の春にはほぼ完了した[45]。貿易会社を通じて試作品をアメリカ合衆国に送ったところ注文が入り、日本で発売する前に日本国外への輸出が行われた[46]。同年夏には「チキンラーメン」という商品名で日本での発売を開始。安藤によると、チキンラーメンの需要は「ある日突然に爆発した」[47]。価格をうどん玉6円、乾麵25円に対し35円に設定したことや、安藤が当時の慣例とは異なる(2-3か月の手形決済が普通だった)現金決済を要求したことから問屋の反応は芳しくなかったが、ある時小売店から問屋への注文が殺到するようになり、問屋から「現金前払いでもいいから」と注文が入るようになったという[48]三菱商事東京食品伊藤忠商事の3社と販売委託契約を結び流通網を整え、同時に大量生産を可能にするべく大阪府高槻市に2万4000平方メートルの敷地を購入して工場を建設した。この頃、製麺機の幅について技術者との検討中に切歯へ右手を差し出した際、薬指が第一関節あたり皮一枚でつながっている状態の怪我を負った。医師が後の責任が負えないので切断するしかないと言うのに対し、自分が責任を持つのでくっつけてくれと依頼し、無事に接合された[49]。相手が専門家だからといって、なんでも鵜呑みにしてはいけないと考える機会となったという[50]

安藤によると「いくら売っても需要に追いつかない」日々が続き、工場用地の購入代金をチキンラーメンの売り上げ1か月分で賄うことができたという[51]。安藤はチキンラーメンがヒットした要因を3つ挙げている。第1はチキンラーメン発売と同じ時期にスーパーマーケットが加工食品を大量販売する流通システムが確立しはじめたこと、第2はテレビコマーシャルが効果を上げたこと、第3は日本の消費者が食事に簡便性を求めるようになっていたことである[52][53]1963年10月、安藤が経営する日清食品[注釈 2](かつての中交総社)は東京証券取引所、および大阪証券取引所の第二部に上場した[54]

なお、チキンラーメンがヒットすると「チキンラーメン」と銘打った類似品が多数出回るようになった。日清食品はチキンラーメンに関する商標特許を申請・登録し、類似品の販売差し止めを求める裁判を起こすなどしてチキンラーメンのブランドを守ることに努めたが、それに対し類似品を販売する業者が「全国チキンラーメン協会」を設立し、「チキンラーメンは普通名詞である」と訴えて商標登録に異議を申し立てるなどチキンラーメンをめぐる法的紛争は数年にわたって続いた。これに対し食糧庁は業界の協調体制を整えるよう勧告を出し、これを受けて日清食品など56社が社団法人日本ラーメン工業協会を設立、安藤は同協会の理事長に就任した[55]。なお日清食品はこの時申請・登録が遅れた経験を生かし、後にカップヌードルを発売した際には発売前に特許出願を行うなどして紛争に備えた[56]。安藤は特許について、「異議申し立てが多いほど実力がある」、「異議申し立てを退けて成立した特許は、常に強力である」と述べている[57]

類似品を含めインスタントラーメンの生産が盛んになるにつれ、麺を質の悪い油で揚げるなど品質に問題のある商品が市場に出回るようになった。安藤は法律によって義務付けられる前に自社製品のすべてに製造年月日の表示を行い、日本ラーメン工業協会においても成分表示や製造基準に関する検討を行い、インスタントラーメンに関する日本農林規格を制定するよう農林省に要請を行うなど、インスタントラーメンの安全、信頼の確保のための仕組み作りに取り組んだ[58]

カップヌードルを開発編集

1966年、視察のために訪れたアメリカ合衆国で新商品開発のヒントを掴んだ。あるスーパーマーケットへチキンラーメンを持ちこんだところ、麺を入れるどんぶりがなく、相手は紙コップの中にチキンラーメンを割ったものを入れ、湯をかけてフォークで食べた。それを見て欧米人には箸とどんぶりでインスタントラーメンを食べる習慣がないことを改めて認識し、カップに入れてフォークで食べられるインスタントラーメン、カップヌードルの開発に着手した[59][60][61]。カップの素材として、断熱性が高く、経済性に優れたポリスチレンに着目。食品容器にふさわしい品質に精製し、当時厚さ2cmほどに加工されるのが一般的であったところを2.1mmまで薄くした。完成した容器について、「画期的な技術革新」であったと述べている[62]。開発において最も苦労したのは、カップの中に入れる厚さが約6cmの麺の固まりをいかに均一に揚げるかということだった。固まりのまま揚げると中まで油熱が通らないため、バラバラにした麺を揚げると油熱の通った順に浮き上がってくること利用し、バラバラにした麺を枠型の中に入れて揚げ、先に浮き上がった麺が後から揚がった麺に押し上げられてカップと同じ形状に固まる仕組みを編み出し、均一に揚がった厚さ6cmの麺の固まりを作り出すことに成功した[63]。麺の固まりが壊れるのを防ぐため、固まりの直径はカップの底部より大きくし、容器の中で宙づりの状態にして固定された。固まりを容器と水平にして固定することに苦労したが、容器の中に麺を入れるのではなく麺の固まりの上から容器をかぶせる方法を考案した。この方法は実用新案登録された[64]

安藤は容器が包装材料、調理器具、食器の3役をこなす画期的な商品が完成したのではないかという感触を得たが、マスコミや問屋からの評判は冴えず、スーパーマーケットなど正規のルートで販売することができなかった[65]。そこで給湯設備付きの自動販売機を設置したところ、売れ行きがよく、徐々に取り扱う問屋が現れるようになった[66]。カップヌードルの需要が爆発的に高まるきっかけとなったのは、1972年に起こったあさま山荘事件で、山荘を包囲する機動隊員がカップヌードルを食べる姿が繰り返しテレビで放映されたことにより大きな話題を集め、生産が追いつかなくなるほどの売れ行きを見せるようになった[67]。カップヌードルは日清食品にとってチキンラーメン以来のヒット商品となり、1972年に同社は東京証券取引所大阪証券取引所、および名古屋証券取引所の第一部に上場した[68]

カップライスの失敗編集

1974年7月、日清食品は「カップライス」を発売した。この商品は食糧庁長官から「お湯をかけてすぐに食べられる米の加工食品」の開発を持ちかけられたことがきっかけとなって完成したものであった[69][70]。カップライスを試食した政治家や食糧庁職員の評判はすこぶる高く、マスコミは「奇跡の食品」、「米作農業の救世主」と報道した。「長い経営者人生の中で、これほど褒めそやされたことはなかった」と述懐している[71][70]が、価格が「カップライス1個で袋入りのインスタントラーメンが10個買える」といわれるほど高く設定された(原因は米が小麦粉よりもはるかに高価なことにあった)ことがネックとなって消費者に敬遠され、早期撤退を余儀なくされた[72]。安藤は日清食品の資本金の約2倍、年間の利益に相当する30億円を投じてカップライス生産用の設備を整備していた[73][74]が「30億円を捨てても仕方がない」と覚悟を決めたという[75]。この時の経験について安藤は、「落とし穴は、賛辞の中にある」と述べている[74]

社長の座を息子へ、会長就任編集

1981年(昭和56年)、社長の座を長男の安藤宏寿に譲り、自らは会長に退くが、その2年後の1983年(昭和58年)、宏寿が経営方針の相違から社長を退任したため、百福が会長兼任で再び社長に復帰した[76]1985年(昭和60年)6月に次男の宏基が社長に就任し(宏基は現在日清食品ホールディングスCEO)、再び会長専任となった[77]

社長退任後、安藤はかねてから関心を寄せていた「日本人は何を食べてきたのか」というテーマを探求すべく、4年間にわたり日本各地を巡って郷土料理を食べる旅に出た[78]。続いて「いつ、誰が、どこで、ラーメンを生みだしたのか」という疑問から中国中央アジアイタリアなどを巡る旅に出た[79]1987年(昭和62年)、食文化の探究のために「麺ロード調査団」を結成して料理研究家奥村彪生とともに上海南京揚州広州厦門福州成都北京西安蘭州ウルムチトルファンなど中国全土を巡って300種類を超える麺を食べた[80][81]。さらに文化人類学者石毛直道シルクロードを通じて世界各地に伝搬した麺の歴史を研究させて麺の系譜図を完成させた[80]。調査の結論として安藤は、「ラーメンは中国を起源とし、シルクロードを通ってイスラム世界に伝わり、さらにイタリアへ伝わった」と見解を示している[79]

1996年、食品業界におけるベンチャーを奨励するために基金を設立し、基金をもとに「食創会(新しい食品の創造開発を奨める会)」が設立された。食創会は日本経済新聞社の後援の下、食品研究・開発者を対象とした安藤百福賞を主催している[82]

1999年、安藤がチキンラーメンを開発した大阪府池田市にインスタントラーメン発明記念館が建設された。記念館の中には安藤が開発研究を行った小屋が再現された。(この小屋には「研究や発明は立派な設備がなくてもできる」という思いが込められているとのことである[83]。)2001年には日本経済新聞『私の履歴書』において自伝を執筆。安藤は「自らの人生の浮き沈みを世の中に語って、果たして何の意味があるのか」という思いから日経新聞からの要請を断り続けていたが、「何か人に言えない具合の悪いことでもあるのか」と担当者に言われたことに反発し、執筆を決意した[84]

2002年頃から宇宙食ラーメン「スペース・ラム」の開発に取り組んだ。スペース・ラムには無重力空間でもスープが飛び散らないよう粘度を高め、スペースシャトル内で給湯可能な70の湯で調理ができるようにするなどの工夫が施された[85]。スペース・ラムは2005年7月にアメリカ合衆国が打ち上げたスペースシャトルディスカバリー」に搭載され、宇宙飛行士野口聡一によって食された[86][87][88]

晩年編集

同じく2002年、「自らが元気なうちに経営を引き継がせたい」という理由から6月29日で代表取締役会長を退任し、「創業者会長」に就任した[11]。退任に際し安藤は、「安藤スポーツ・食文化振興財団の理事長として、スポーツ、自然体験、食育の振興などを通じ、明日をになう子供たちの健全な心身の育成に力を注ぎたい。」と抱負を述べている[11]。安藤スポーツ・食文化振興財団は1983年、当時社会問題となっていた少年の非行問題への対策として子供の心を健全に育てるためのスポーツ振興を目的に安藤が創設した「日清スポーツ振興財団」を前身としている[89]

2006年タイム誌アジア版11月13日号のアジア版60周年記念特集「60年間のアジアの英雄」において、アジアの英雄の一人に選ばれた[90][91]

2007年(平成19年)1月5日、急性心筋梗塞のため大阪府池田市の市立池田病院で死去。享年98(満96歳没)。3日前には幹部社員とゴルフをし、18ホールを回ったという。亡くなる前日には仕事始めで立ったまま約30分の訓辞を行い、昼休みには社員と入りのチキンラーメンを食べたという[92]。96歳まで生涯現役で、波乱万丈の実業家人生を終えた。長寿・健康の秘訣を聞かれると必ず「週2回のゴルフと毎日お昼に欠かさず食べるチキンラーメン」と答えるのが口癖だった。生前に残した言葉の中から、「食足世平[注釈 3]」「食創為世」「美健賢食」「食為聖職」の4つが日清食品グループの創業者精神として継承されている。

同年1月9日付の米紙ニューヨーク・タイムズは社説でその死を悼み[93]、「ミスターヌードルに感謝」という見出しを掲げ、即席麺開発の業績により「安藤氏は人類の進歩の殿堂に不滅の地位を占めた」と絶賛した。同社説は「即席めんの発明は戦後日本の生んだ独創的な発明品、シビックウォークマンハローキティのように、日本から世界的に普及した製品と同じく会社組織のチームで開発された奇跡だと思っていたがそうではなかった。安藤百福というたった一人の力で開発されたものなのである」と驚きを表現した[94]。さらに社説は「人に魚を釣る方法を教えればその人は一生食べていけるが、人に即席めんを与えればもう何も教える必要はない」と結んでいる。

2月27日大阪市京セラドーム大阪にて社葬が行われた。葬儀委員長は生前から安藤と親交があった中曽根康弘首相が務め、小泉純一郎元首相、福田康夫元首相夫妻などのほか、政官学界、実業界から親交の深かった6500名が参列し別れを惜しんだ。戒名は「清寿院仁誉百福楽邦居士」。没後、正四位に叙された[95]

死後編集

2008年(平成20年)4月8日、世界各国の即席麺メーカーが参加する「第6回世界ラーメンサミット」が大阪で行われるのを記念して、インスタントラーメン発明記念館(現・安藤百福発明記念館 大阪池田)の正面広場に安藤の銅像が建てられた。同日、仁子夫人、中曽根康弘元首相らが参加して[要出典]除幕式が行われた。銅像はカップヌードルの容器をかたどった台座の上に立ち、右手にはチキンラーメンが掲げられた。[96][97][98]安藤の功績を称える碑文は中曽根元首相の手によるもので、「安藤百福翁は勤勉力行、不屈不撓の人である。1910(明治43)年に生を受け、幼くして両親を無くし、自立独立の道を歩む。敗戦後、無一文の苦境から立ち上がり、困難を克服して世界初の即席めん「チキンラーメン」を開発、次いで世界初のカップ麺「カップヌードル」を発明、日本の食生活に一大革命を起こす。百福翁の蒔いた一粒の種が国境を越えて世界に伝播し、ついに総需要九百億食を超える世界食となる(後略)」が記されている[99]

安藤の創業した日清食品は2008年平成20年)10月1日付で持株会社制に移行し、「日清食品ホールディングス」に商号変更され、同時に事業会社として「日清食品(株)」が新たに設立されている。また同年、日清食品グループが創立50周年を迎えたの機に、次の50年(創立100周年となる2058年)に向けて、企業プロジェクト「百福士ひゃくふくしプロジェクト」を始めた。これは、社会福祉活動に熱心だった百福の遺志を継ぎ、今後50年に合計100の社会貢献活動を行っていくものである。

2015年3月5日には彼の生誕105周年を記念したGoogle Doodleが日本やアメリカ合衆国、南米の数カ国、オーストラリアなどの複数の国向けに表示された[100]

生誕100年編集

2010年(平成22年)は安藤百福の生誕100年にあたり、記念商品[注釈 4]が発売された[101][102][103][104]ほか、テレビの特別番組(『インスタントラーメン発明物語 安藤百福伝』[注釈 5]、『こだわり人物伝「安藤百福~遅咲きのラーメン王」』[注釈 6]が放映されたほか、記念イベント[注釈 7][注釈 8]も開催された。なお、同年3月17日には百福の妻仁子が92歳で生涯を閉じている[109]。2011年(平成23年)9月17日神奈川県横浜市中区みなとみらい21地区で安藤百福発明記念館(カップヌードルミュージアム、現・安藤百福発明記念館 横浜)が開館した。同年、子どもたちの自然体験活動の奨励に熱心だった安藤の思いを引き継ぎ、安藤百福記念 自然体験活動指導者養成センター(愛称「安藤百福センター」)が長野県小諸市に誕生している。

家族・親族編集

  • 祖父 - 呉武
  • 父 - 呉獅玉(別名は呉阿獅)
  • 母 - 呉千緑
  • 妻 - 呉黄綉梅(台湾時代の第1夫人)
  • 妻 - 呉金鶯(台湾時代の第2夫人、百福と共に来日したが後に台湾に帰国し再婚)
    • 呉宏男・故人
    • 呉武徳・故人
    • 呉美和
  • 妻 - 安藤仁子[110](安藤重信の三女。安藤家は福島県二本松神社の神職一族で、当地では名家。百福は1948年に大阪に移住してのち仁子と結婚して1966年に日本国籍を取得した[111]。仁子は2010年に92歳で亡くなった[112])

栄典編集

主な著作編集

特集された番組編集

演じた俳優編集

脚注編集

[ヘルプ]

注釈編集

  1. ^ ただし安藤によると、実際に重労働をさせられることはなかったという。
  2. ^ 2008年10月1日付で持株会社制移行に伴い「日清食品ホールディングス」に称号変更した。同時に事業会社として「日清食品(株)」が新たに設立されている。
  3. ^ この言葉に基づき、災害時にはインスタントラーメンの提供などの支援活動を行ってきた(第9弾 “チキンラーメン&カップヌードル保存缶”プロジェクト - 日清食品ホールディングス)。
  4. ^ チキンラーメン、カップヌードルの各記念パッケージ(チキンラーメンは発売開始当時(1958年)の35円、カップヌードルは同(1971年)100円の特別価格が設定された)、特別企画商品「百福長寿麺」(鶏だし塩ラーメン、鴨だしそばの2種。麺の長さはカップ麺史上最長の100cm)。
  5. ^ 毎日放送制作、2010年(平成22年)3月5日放送(TBSJNN28局ネット)。チキンラーメン誕生にまつわる秘話や、百福の生涯をたどる再現ドラマなどで構成された[105][106]
  6. ^ NHK教育テレビ知る楽・水曜 こだわり人物伝』において2010年(平成22年)5月5日から5月26日にかけて4週連続の特集。
  7. ^ 2010年3月27日より、東京都江東区豊洲アーバンドック ららぽーと豊洲において、百福生誕100年の記念イベント「インスタントラーメン発明物語〜安藤百福 生誕百年 記念展〜」を開催した[107]
  8. ^ 安藤の出身地である大阪府池田市のインスタントラーメン発明記念館(現・安藤百福発明記念館 大阪池田)では、2010年3月27日から5月10日まで、特別展示「インスタントラーメンを科学しよう!」を開催した[108]

出典編集

  1. ^ 官報 昭和41年3月1日
  2. ^ 官報 昭和41年3月1日
  3. ^ 安藤 2008, p. 21.
  4. ^ a b c ミスターヌードル安藤百福(1910-2007)日清食品社史と伝記にみる日本の実業家、神奈川県立図書館、p244
  5. ^ 私の履歴書復刻版 商売への興味―祖父の仕事見て学ぶ メリヤス販売創業し独立 日清食品創業者 安藤百福(2) 日経BP社、2014/3/27
  6. ^ 首任東石郡守之孫訪朴子分局中華日報、2016-01-04
  7. ^ 安藤 2008, pp. 22-23.
  8. ^ 安藤 2008, pp. 23-25.
  9. ^ 私の履歴書復刻版 尽きぬ事業欲――日本一の「丸松」と組む 戦局悪化、蚕糸事業は中止 日清食品創業者 安藤百福(3)日経BP社、2014/3/31
  10. ^ 安藤 2008, p. 25.
  11. ^ a b c 代表取締役および役員の異動に関するお知らせ” (日本語). 日清食品. 2009年12月20日閲覧。
  12. ^ インスタントラーメン発明記念館についての一考察(塩田昌弘) 大手前大学論集16巻55-74頁 2016年3月31日
  13. ^ 安藤 2008, pp. 30-32.
  14. ^ 安藤 2008, p. 32.
  15. ^ 安藤 2008, pp. 32-34.
  16. ^ 安藤 2013, p. 24.
  17. ^ 安藤 2008, p. 41.
  18. ^ 安藤 2008, pp. 41-42.
  19. ^ 安藤 2008, pp. 44-46.
  20. ^ a b 私の履歴書復刻版 製塩業――「鉄板に海水」の自己流 名古屋に交通学校も設立 日清食品創業者 安藤百福(8) 日経BP社、2014/4/17
  21. ^ 安藤 2008, p. 48.
  22. ^ 私の履歴書復刻版 即席めん人生―屋台の行列が道示す 苦労にめげず48歳の出発 日清食品創業者 安藤百福(1) 日経BP社、2014/3/24
  23. ^ 私の履歴書復刻版 梁山泊――“青年隊”と愉快な日々 酔い語りあう生活に陰り 日清食品創業者 安藤百福(9) 日経BP社、2014/4/21
  24. ^ 時代を切り開いた世界の10人 第6巻 安藤百福 レジェンド・ストーリー(学研プラス)
  25. ^ 第1部 第8回 駒方校舎と中華交通学院|第1部:遠い記憶を追って|名城大学物語 名城大学
  26. ^ 安藤 2008, pp. 52-54.
  27. ^ 安藤 2008, p. 54.
  28. ^ 安藤 2008, pp. 54-56.
  29. ^ 安藤 2008, p. 56.
  30. ^ 安藤 2008, pp. 56-59.
  31. ^ 安藤 2008, p. 59.
  32. ^ 安藤 2006, p. 18.
  33. ^ 安藤 2008, p. 61-62.
  34. ^ 鈴田編著 2004, pp. 58-59.
  35. ^ a b チキンラーメン資料室1” (日本語). 日清チキンラーメン チキラー島. 日清食品. 2009年12月20日閲覧。
  36. ^ 安藤 2008, p. 61.
  37. ^ 安藤 2008, p. 62.
  38. ^ 安藤 2008, pp. 63-64.
  39. ^ 安藤 2008, pp. 66-67.
  40. ^ 鈴田編著 2004, p. 5.
  41. ^ 鈴田編著 2004, p. 21.
  42. ^ 安藤 2008, pp. 64-66.
  43. ^ 安藤 2008, pp. 85-86.
  44. ^ 安藤 2008, p. 66.
  45. ^ 安藤 2008, p. 67.
  46. ^ 安藤 2008, p. 68.
  47. ^ 安藤 2008, p. 76.
  48. ^ 安藤 2008, pp. 73-76.
  49. ^ 私の履歴書復刻版 追い風――時代を味方に大繁盛 工場囲む問屋のトラック 日清食品創業者 安藤百福(17)日経BP社、2014/5/22
  50. ^ 日清食品株式会社 創業者 安藤 百福 3/3 ベンチャー通信9号(2003年12月号)から抜粋
  51. ^ 安藤 2008, pp. 77-81.
  52. ^ 安藤 2008, p. 83.
  53. ^ 鈴田編著 2004, p. 23.
  54. ^ 鈴田編著 2004, p. 110.
  55. ^ 安藤 2008, pp. 84-86.
  56. ^ 安藤 2008, p. 110.
  57. ^ 安藤 2008, p. 111.
  58. ^ 安藤 2008, pp. 88-90.
  59. ^ 安藤 2008, pp. 90-92.
  60. ^ 安藤 2008, p. 96.
  61. ^ 鈴田編著 2004, pp. 76-77.
  62. ^ 安藤 2008, pp. 97-98.
  63. ^ 安藤 2008, pp. 98-99.
  64. ^ 安藤 2008, pp. 101-102.
  65. ^ 安藤 2008, pp. 103-105.
  66. ^ 安藤 2008, pp. 106-109.
  67. ^ 安藤 2008, pp. 109-110.
  68. ^ 安藤 2008, pp. 110-112.
  69. ^ 安藤 2008, p. 112.
  70. ^ a b 鈴田編著 2004, p. 50.
  71. ^ 安藤 2008, pp. 114-115.
  72. ^ 安藤 2008, pp. 116-118.
  73. ^ 安藤 2008, p. 115.
  74. ^ a b 鈴田編著 2004, p. 51.
  75. ^ 安藤 2008, p. 116.
  76. ^ 「カップヌードルをぶっつぶせ! 〜創業者を激怒させた二代目社長のマーケティング流儀〜」(安藤宏基著、中央公論新社)81頁
  77. ^ 安藤 2013, p. 102.
  78. ^ 安藤 2008, pp. 123-124.
  79. ^ a b 安藤 2008, pp. 125-126.
  80. ^ a b 会長就任――ラーメンの源 探る旅 中国全土、300種類食べ歩く”. NIKKEI STYLE (2014年6月26日). 2017年12月12日閲覧。
  81. ^ 私の履歴書 経済人」第36巻(日本経済新聞出版社
  82. ^ 安藤 2008, pp. 130-133.
  83. ^ 安藤 2008, pp. 133-135.
  84. ^ 安藤 2008, pp. 7-8.
  85. ^ 安藤 2006, pp. 286-287.
  86. ^ 2006年10月5日のお客様” (日本語). ようこそ未来館へ. 日本科学未来館. 2009年12月20日閲覧。
  87. ^ 宇宙食ラーメン「スペースラム」、日清食品が公開” (日本語). エネックス (2005年7月27日). 2009年12月20日閲覧。
  88. ^ 「宇宙食ラーメン」の開発” (日本語). 世界ラーメン協会. 2009年12月20日閲覧。
  89. ^ 安藤百福 (日清食品株式会社 代表取締役会長)食文化振興のため 私財10億円を寄付” (日本語). ニュースリリース. 日清食品 (2002年5月21日). 2018年4月3日閲覧。
  90. ^ 黒沢氏ら日本から13人 / タイム誌「アジアの英雄」” (日本語). 四国新聞社 (2006年11月9日). 2018年4月3日閲覧。
  91. ^ 「タイム」誌発表!「アジアの英雄」に王、黒澤ら日本から13人!!” (日本語). テレビ朝日 (2006年11月9日). 2018年4月3日閲覧。
  92. ^ 安藤百福さん 死去前日、社員とチキンラーメン雑煮 ("Mr. Ando ate Chikin Ramen with colleagues the day before he past away.")”. The Sankei Shimbun Web-site. 2007年1月10日閲覧。
  93. ^ Momofuku Ando, 96, Dies; Invented Instant Ramen”. New York Times. 2008年6月5日閲覧。
  94. ^ Mr. Noodle”. New York Times. 2008年6月5日閲覧。
  95. ^ 安藤 2013, p. 127-131.
  96. ^ “asahi.com:(青鉛筆)カップラーメンの上に銅像 発明50年を記念 大阪・池田”. 朝日新聞. (2008年4月14日). http://www.asahi.com/edu/nie/kiji/kiji/TKY200804140136.html 2018年9月13日閲覧。 
  97. ^ “「第6回 世界ラーメンサミット大阪」開催 (2008年4月8日〜9日)” (プレスリリース), 日清食品グループ, (2008年3月31日), https://www.nissin.com/jp/news/1302 2018年9月13日閲覧。 
  98. ^ インスタントラーメン発明記念館へ行こう!”. OSAKA-INFO. 大阪観光局. 2018年9月13日閲覧。
  99. ^ 安藤 2013, p. 132.
  100. ^ 安藤百福生誕 105 周年 Google Doodle アーカイブ
  101. ^ -インスタントラーメンの父 安藤百福 生誕百年- 記念商品の発売について - 日清食品株式会社、2010年1月12日
  102. ^ 「即席めんの父」生誕100年 チキンラーメンを「35円」に - J-CASTニュース、2010年1月13日
  103. ^ 日清食品が安藤百福生誕100周年記念配当 - IBTimes、2010年1月13日
  104. ^ インスタント麺誕生100周年「百福長寿麺」 Archived 2015年7月1日, at the Wayback Machine. - 日刊スポーツ、2010年1月13日
  105. ^ 徳光和夫、百福さんの精神伝える…「インスタントラーメン発明物語」 - おおさか報知、2010年2月24日
  106. ^ 原田龍二がチキンラーメンの父ドラマ化で主演 - おおさか報知、2010年2月17日
  107. ^ 日清食品HDのニュースリリース - 2010年1月12日
  108. ^ 日清食品HDのニュースリリース - 2010年3月3日
  109. ^ 安藤仁子さん死去(安藤宏基日清食品ホールディングス社長の母) - 時事ドットコム、2010年3月19日
  110. ^ 『尤物09月號/2015第67期: 汽車旅館度春宵─俐諭』p67尤物USEXY, 2015/09/01
  111. ^ 「安藤 百福」の家系思い出アルバム
  112. ^ 安藤宏基日清食品ホールディングス社長の母・仁子さんが死去日本経済新聞、2010/3/19

参考文献編集

関連項目編集

外部リンク編集