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宋 虎聲(ソン・ホソン、송호성、1889年? - 1959年3月24日)は、日本統治時代の朝鮮独立運動家で、大韓民国の軍人。本名は宋虎。字は東山[1]。中国では、韓青、宋弘萬、宋弘福、宋憲、韓憲など複数の偽名を利用した[1][2]。小学校を出ただけで大陸に渡り、独立軍、中国軍、光復軍等に所属しながら転戦していた。中国地方軍閥の少将、光復軍参将(少将)。しかし中国における活動はあまり知られていない。

宋虎聲
Song Ho seong.jpg
各種表記
ハングル 송호성
発音: ソン・ホソン
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目次

人物編集

1889年9月19日、咸鏡南道咸州郡松興里に生まれる[1]。1913年6月の時点で普成理工専科学校に在学[1]。後に中国に渡り、大韓独立軍団に参加[1]。1921年、山西省に退避し、閻錫山に投降[1]。その後、宋壽昌に名を変え中国籍を取得し、保定陸軍軍官学校に入学[1]。1922年、河南の邯鄲軍官講習所に入所[1]

黄埔軍官学校軍官班で国民政府軍の正式な軍事教育を受けた後、第88師副師長、中央戦時工作幹部訓練団韓国青年班主任教官、七分校教官、第34集団軍第1騎兵師副師長を歴任した[1]

1942年3月1日、光復軍の羅月煥が暗殺されると、後任として第5支隊長に就任し、暗殺事件解明後は第34集団軍に復職した[3]

光復軍では総司令部総練処長、第1支隊長(1945年5月1日付[4])、総司令部高級参謀を歴任した。

日本の降伏とともに帰国し、柳東悦の勧めで朝鮮警備士官学校を受験する。このとき白紙答案を提出して不合格となるが、柳東悦の計らいで二期生として入校、20日ほど在校し、1946年10月17日付で任少佐(軍番156番)、金白一に代わり第3連隊長(2代目)に補される[5]

金九の部下で光復軍出身であり、年齢も高かったことから累進し[2]、1946年12月13日より南朝鮮国防警備隊総司令官(2代目)となり、1948年11月20日まで勤めた。1947年5月から10月の間は陸士校長も兼務した。光復軍出身者が首脳となり中国系、とくに光復軍出身者が登用されて軍内に不明朗な空気を醸し、派閥意識を助長させた。そのため建軍の最重要期に総司令官を務めたが、学識、軍事知識、統率の才に欠け、派閥人事に終始して建軍の基礎を誤らせたと評された[5]

1948年10月19日、麗水・順天事件が勃発すると李範奭国防部長官から「私の責任じゃない。君が責任を負うべきだ。すぐ行きなさい」と叱咤されて出馬を決めた。事情を知らない者は総司令官が出馬すれば全般戦況の変化に対応しづらいという意見を述べたが、宋が責任上という理由で固執した[6]。幸い北朝鮮にも思いがけない反乱であったので局地紛争すら起こらなかった。反乱軍討伐戦闘司令部は光州の第5旅団司令部に置かれ、宋も颯爽と乗り込んだが、特に幕僚部を編成することがなかったので、自然に白善燁情報局長が参謀長、金點坤情報課長らが作戦、情報、兵站等を手分けして補佐することになった[7]。しかも宋は指揮や統率の才に欠けていたので、反乱鎮圧は白善燁、金點坤らの双肩にかかった。

10月24日、麗水奪還の陣頭に立ったが、あらかじめ敵情を偵察していなかったらしく頑強な抵抗を受け、攻撃は進展しなかった。しかも宋は搭乗していた装甲車の機関銃が不意に射撃を始め、その発射音で鼓膜が破れたので後送された。こうして麗水の第1次攻撃は失敗し、反乱軍は気勢を上げることになった。

1949年3月、護国軍朝鮮語版司令官。5月、第5師団長。7月、第2師団長兼太白山脈地区戦闘司令官。

1950年2月、参謀学校修了。6月10日、青年防衛隊顧問団長。

6月25日、朝鮮戦争が勃発し、翌26日、軍事経験者会議に召集されるが、特に発言をすることはなかった。

青年防衛隊は何の機能も持たない青年の集まりに過ぎず、従う部下にも戦況を知らせてくれる者はなく、自宅で時間の経過を待つほかになかった[8]。27日午後に青年防衛隊顧問の張興大佐が宋の自宅を訪れ、避難を勧めたが、宋は動く気配が無かった。諦めた張は一人で漢江を渡った。

「陸本は撤収しました。我々も行きましょう。急いで下さい」
「あわててどこに行こうと言うのかね」
「共産軍が攻め入ってくるのです。政府と行を共にしなければならないでしょう!」
「あいつらは私を捨ててみんな逃げてしまった。……李範奭にしてやられ、蔡秉徳に先を越された私に、行くところがあるのかね? 私は一人で残るよ。お前は行きなさい!」 — 張興と宋虎聲の会話、1950年6月27日[8]

ソウル陥落にあたっては、陸軍本部と行動を共にすることなく家に留まっていた。しかし人民軍が議政府まで来たという知らせを聞くと、妻と子を残して南に行こうとするが、漢江人道橋爆破事件により漢江を渡れなかった[2]。その後は金奎植の家に隠れて過ごしたが、仁川上陸作戦後の9月27日、ソウルの桂洞(ケドン)で北朝鮮軍に拉致され、10月2日に平壌に到着した[† 1]。その後、転向して北朝鮮軍に協力する。自発的なものか強要されたかは不明であるが、軍の元高官で反逆した者は、戦争中では宋虎聲のみである[† 2][8]。このため大韓民国国家報勲処による独立有功者としての推薦は行われていない[2]。韓国では長らく、ソウル陥落後の消息を掴めずにいたので、前線指揮部顧問として洛東江戦線に赴き、のちに韓国兵の捕虜で編成した部隊の師団長になったという噂があった[5]

1954年ごろ、北朝鮮にて国際スパイと反革命分子容疑で逮捕された。1958年、平安南道陽徳郡に流刑となり、翌1959年3月24日に脳出血で死亡した[2]

2003年、他の越北者とともに平壌の墓地に埋葬された[9]

脚注編集

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  1. ^ 朴明林、森善宣. 戦争と平和:朝鮮半島1950. 社会評論社. pp. p. 192.. では人民軍に自首し7月4日にソウルの放送を通じて「私は、人民軍隊が人民の利益を徹底して擁護する軍隊だということと、人民政権は朝鮮人民のための政権だということをはっきりと知るようになった」「自分を手本に、銃口を返して人民の仇敵である米帝と売国奴の李承晩傀儡徒党を打倒せよ」と言ったという。
  2. ^ 朝鮮戦争後に崔徳新崔泓熙越北している。

出典編集

  1. ^ a b c d e f g h i 胡 2016, p. 514.
  2. ^ a b c d e 週刊東亜 (2005年9月20日). “北に行った将軍の父、台湾のスパイになった息子” (朝鮮語). 2014年2月22日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2014年2月6日閲覧。
  3. ^ 胡 2016, p. 515.
  4. ^ 『앞길』 제42기(1945년 6월 1일)” (韓国語). 国史編纂委員会. 2017年6月21日閲覧。
  5. ^ a b c 朝鮮戦争/韓国編 上巻 (再版 ed.). pp. p. 446.. 
  6. ^ 朝鮮戦争/韓国編 上巻 (再版 ed.). pp. p. 281.. 
  7. ^ 朝鮮戦争/韓国編 上巻 (再版 ed.). pp. p. 283.. 
  8. ^ a b c 朝鮮戦争/韓国編 中巻 (再版 ed.). pp. p. 473.. 
  9. ^ 東亜日報 (2005年6月27日). “北朝鮮、拉致・越北62人の平壌墓地を公開” (日本語). 2014年2月2日閲覧。

参考文献編集

  • 佐々木春隆 (1977). 朝鮮戦争 上・中巻. 原書房. 
  • 韓詩俊 (1993). 韓國光復軍研究. 一潮閣. ISBN 8-9337-0078-1. NCID BA36932080. 
  • 胡宗南 (2016). 胡宗南先生文存. 台灣商務. 
  • 週刊東亜 (2005年9月20日). “北に行った将軍の父、台湾のスパイになった息子” (朝鮮語). 2014年2月22日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2014年2月6日閲覧。
  • 東亜日報 (2005年6月27日). “北朝鮮、拉致・越北62人の平壌墓地を公開” (日本語). 2014年2月2日閲覧。

関連項目編集

軍職
先代:
李亨根
(代理)
  南朝鮮国防警備隊総司令官
第3代:1946年12月23日 - 1948年11月20日
次代:
-