宍戸元続

戦国時代から江戸時代前期の武将。毛利家の家臣。安芸宍戸家14代。安芸五龍城主。宍戸元秀の嫡男。従五位下、備前守。長州藩

宍戸 元続(ししど もとつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将毛利家の家臣。安芸宍戸家第14代当主。安芸五龍城主。宍戸元秀の嫡男、宍戸隆家の孫。広匡就俊元高の父。主君の毛利輝元は父方では従伯父、母方では従兄に当たる。

 
宍戸元続
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄6年(1563年
死没 寛永8年7月25日1631年8月22日
改名 宍戸元孝→宍戸元続(元次)
別名 通称:弥三郎→九郎左衛門尉
戒名 巌叟道嶸
墓所 阿弥陀寺山口県防府市
官位 従五位下備前守
主君 毛利輝元秀就
長州藩
氏族 宍戸氏
父母 父:宍戸元秀、母:内藤興盛の娘
兄弟 元続内藤元盛元真粟屋孝春
景好元可、女(三沢為虎室)、
古満姫小早川秀秋室)
正室:伝織田信長娘(実内藤元種女、毛利輝元養女、前羽柴秀勝正室)
継室:口羽通良の娘
広匡就俊元高
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生涯 編集

永禄6年(1563年)、毛利氏家臣・宍戸元秀の子として生まれる。

天正6年(1578年)の上月城の戦いにおいて宍戸軍を率いて初陣を果たした。

天正20年(1592年2月5日に祖父の宍戸隆家が死去したため、廃嫡された父・元秀に代わって家督を相続。文禄4年(1595年)には豊臣秀吉により豊臣姓を下賜された。

慶長2年(1597年)から始まる慶長の役では毛利軍として朝鮮に渡海。同年9月の稷山の戦いで毛利軍の先鋒を務め、蔚山城の築城に携わった。同年末から翌年初めにかけて起こった蔚山城の戦いでは加藤清正らと共に食料不足の中での籠城戦を戦い抜き、毛利秀元吉川広家らの来援を得て軍に勝利した。

慶長5年(1600年)、石田三成率いる西軍陣営と徳川家康率いる東軍陣営の対立が激化し、ついには家康の会津征伐を契機に合戦となる。元続は主君の毛利輝元が西軍の総大将に祭り上げられることに不安を覚え、吉川広家・福原広俊益田元祥熊谷元直らと談合、反対するも聞き入れられず、止む無く西軍として軍勢を率いることとなる。元続は毛利氏支配下の備中国内において最大の知行高を持っており、備中国哲多郡内で最大の所領を持つ石蟹孫兵衛としばしば贈答のやりとりを行っている等、備中国とのつながりがあったことから備中国や備後国の軍勢を率い、石蟹孫兵衛、赤木忠重赤木元重冷泉元珍和智元盛杉原与七郎等が元続の組に加わった。関ヶ原前哨戦の伊勢安濃津城の戦いにおいて、広家・秀元らと共に勇戦し、東軍の分部光嘉一騎討ちを行い双方負傷するも安濃津城を開城させることに成功する。

しかし肝心の関ヶ原の戦いでは不戦敗となり、輝元は周防長門2か国に減封、元続も父祖伝来の地である五龍城を去り、に移住することとなった。後に一門家老の筆頭となり、周防国佐波郡右田[1]に11,000石を与えられる。

大坂の陣では輝元・秀元らと相談の上で、弟の内藤元盛に「佐野道可」の変名を名乗らせて密かに大坂城に送り込んだ。戦後にこれが発覚すると、その処理に奔走した。元和元年(1615年)に嫡男の広匡に家督を譲って隠居し、寛永8年(1631年7月25日に死去。享年69。元続の遺体は宍戸氏の給地である周防国佐波郡下徳地[2]の龍福山宗円寺にて荼毘に付され、周防国佐波郡牟礼[3]阿弥陀寺に葬られた。

寛永2年(1625年)に孫の宍戸就尚毛利元倶と右田と熊毛郡三丘を交換し、宍戸家は一門三丘宍戸家として続いた。

脚注 編集

参考文献 編集

  • 脇正典「萩藩成立期における両川体制について」(藤野保先生還暦記念会編『近世日本の政治と外交』)雄山閣、1993年。
  • 『三百藩家臣人名事典 第六巻』新人物往来社、1989年。
  • 白峰旬「「伊勢国津城合戦頸注文」及び「尾張国野間内海合戦頸注文」に関する考察(その3)-津城合戦(慶長5年8月)における毛利家の軍事力編成についての検討-」(『史学論叢』第48号、2018年

関連項目 編集

先代
宍戸隆家
安芸宍戸氏歴代当主
1592年 - 1615年
次代
宍戸広匡