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画像提供依頼:義元左文字の画像提供をお願いします。2015年9月

宗三左文字(そうさんさもんじ)は、南北朝時代に作刀された日本刀。持ち主の変遷から「三好左文字」「義元左文字」と称されることもあり、「義元左文字」の名で重要文化財に指定されている[1]。「そうざさもんじ」と読むのは誤り[2]

元々は二尺六寸の長さを持つ太刀であり、戦国時代、畿内を支配していた三好氏三好政長(三好宗三)から甲斐守護武田信虎に贈られた刀であるが、無銘であり、刀匠の名は明らかとなっていない。その後、武田信虎から当時抗争を繰り広げていた駿河今川義元に渡り、義元は、この刀を自分の愛刀として大切にしたと伝わる。

永禄3年(1560年)、義元はこの刀を携えて三河遠江へ向けて軍を起こすが、桶狭間の戦いにおいて義元は討死し、義元をこの戦いで敗死させた尾張織田信長が戦利品としてこの刀を接収した。信長はこの刀を短く磨り上げて、茎表裏に「織田尾張守信長」「永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀」と金象嵌銘を入れ、自分の愛刀とし、信長が本能寺の変で横死するまで信長の手元にあった[1]

本能寺の変の後は、松尾大社の神官の手を経て、信長の家臣であった豊臣秀吉の手に渡った[1]。のちに天下を統一した太閤秀吉の死去後は、その子の豊臣秀頼に伝わり、さらに、江戸幕府を開府した征夷大将軍徳川家康の手に渡った。家康は大坂の陣で、この刀を佩いていたとされる[3]。これ以降、徳川将軍家の重宝として代々受け継がれていくこととなった[1]

明暦3年(1657年)、明暦の大火にて被害に遭ったが、再刃された。

明治維新後、明治天皇が織田信長に建勲(たけいさお)の神号を贈り、京都市北区船岡山建勲神社が創建されると、明治2年(1869年)に徳川家から信長所縁のこの刀が「義元左文字」として、同神社に寄進された[1]

以上が宗三左文字の伝来に関する通説だが、馬部隆弘はこの通説について、いくつかの疑いを指摘している。馬部の伝来に関する疑問点は以下の通り。

  • 宗三左文字は管領細川晴元の被官・三好政長が甲斐守護の武田信虎に贈ったとされるが、政長が信虎と交渉する意味が見いだせず、贈答のやり取りをしていた可能性が低い[4]。したがって武田氏から今川氏に贈られたとする伝来自体も疑わしい[5]
  • 織田氏から豊臣氏への伝来過程で、本能寺の変で失われたはずの宗三左文字が、再び出現し豊臣氏に伝わった経過が不分明[6]
  • また織田信長が桶狭間の合戦で入手した際、「織田尾張守信長」と嵌銘させたとされることも、桶狭間の合戦が行われた永禄3年当時、信長の名乗りが「上総介」であった事実と整合しない[5]


現在、建勲神社所有として重要文化財に指定されている。

参考文献編集

脚注編集

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  1. ^ a b c d e 刀 義元左文字”. 文化遺産データベース. 2015年10月16日閲覧。
  2. ^ 馬部孝弘 「名物刀剣「義元(宗三)左文字」の虚」『大阪大谷大学紀要』53 大阪大谷大学、2019年2月、8頁。
  3. ^ 徳川実紀』「東照宮御実紀附録 巻二十三」
  4. ^ 馬部、2019年、10頁。
  5. ^ a b 馬部、2019年、11頁。
  6. ^ 馬部、2019年、11-12頁。

関連項目編集