宮崎郁雨

宮崎 郁雨(みやざき いくう、1885年明治18年)4月5日 - 1962年昭和37年)3月29日)は、日本歌人。本名は大四郎(だいしろう)。

石川啄木夫人・節子の妹の夫。啄木の生前から啄木一家を物心両面にわたって支え、啄木の死後も墓碑建立、「啄木を語る会」を発足させるなどの実績がある。

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生涯編集

幼少時編集

1885年4月5日、新潟県北蒲原郡荒川村で宮崎竹四郎の長男として生れる。

1887年(明治20年)頃に宮崎家は没落。父・竹四郎は単身函館に渡り、母と共に母の実家に預けられる。1889年(明治22年)春、父の迎えを受けて宮崎一家は函館に移住。父・竹四郎は函館・相生町において味噌製造業を始めた。

1905年(明治38年)、北海道庁立函館商業学校(現北海道函館商業高等学校)を卒業。卒業後の数か月は海陸物産問屋の近藤商店に勤務したが、同年12月に志願兵として野砲兵第7連隊に入隊する。1906年(明治39年)11月には除隊し函館に戻った。

啄木との出会い編集

除隊後の1906年末に文芸結社「苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)」に参加。明けて1907年1月には苜蓿社から同人誌『紅苜蓿(べにまごやし)』第1号が刊行されるが、この第1号には石川啄木の詩「公孫樹」などの作品も寄稿されている。なお、苜蓿社は1907年5月に啄木を函館に呼び寄せており、これが縁で啄木との交流が始まることになる。啄木を函館日日新聞社に紹介し、遊軍記者として勤めさせているが、在籍期間は8月18-25日の8日間であった。

1908年(明治41年)4月に啄木が上京するにあたって、郁雨は啄木の家族を託され、1909年(明治42年)6月まで函館区(1899年から1922年までの北海道区制に基づく行政単位)栄町の自家の貸家に居住させることになる。また、この年、陸軍砲兵少尉に任じられ、正八位に叙せられている。

1909年10月26日、啄木夫人・節子の妹・堀合ふきと結婚、啄木とは義理の兄弟の関係となる。啄木は1910年(明治43年)に刊行した歌集『一握の砂』で、前文に「函館なる郁雨宮崎大四郎君」として金田一京助とともに名を挙げた。また、同書に収められた以下の3首は郁雨を詠った歌である。

  • 演習のひまにわざわざ 汽車に乗りて 訪ひ来し友とのめる酒かな (326番目)
  • 大川の水の面を見るごとに 郁雨よ 君のなやみを思ふ (327番目)
  • 智慧とその深き慈悲とを もちあぐみ 為すこともなく友は遊べり (328番目)

1911年(明治44年)9月に郁雨が節子に送った無記名の手紙に「君一人の写真を撮って送ってくれ」とあったのを読み、これを妻の不貞と採った啄木は節子に離縁を申し渡すと共に、郁雨と絶交することを告げた(いわゆる『不愉快な事件』)[1]。絶交されたまま、啄木は1912年4月13日に東京で没することになった。

生前、啄木はあちこちに借金をしているが、郁雨は合計150円(2000年代の物価換算で150万円ほど)を貸し付けている。なお、これは数多くの啄木の借金先の中で最多額となる[2]

啄木の死後編集

1913年(大正2年)4月13日の啄木一周忌に函館図書館長の岡田健蔵と啄木追悼会を開き、函館の立待岬に墓碑「石川啄木一族の墓」を建て遺骨を移す。節子未亡人の依頼もあり、啄木の遺品を納め、函館図書館啄木文庫を作った。

1923年(大正12年)、父・竹四郎が没したため、家業の味噌醤油醸造業を継いで従事する。同年、永山力(ながやま ちから)と共著で紅茶倶楽部より『函館戦争と五稜郭』[3]を刊行[4]

1925年(大正14年)、社団法人函館慈恵院監事に選任される。以降、1931年に理事、1933年に常任理事を歴任することになる。1933年には味噌醤油醸造業を廃業し、栄町に味噌小売店を開業する。翌1934年(昭和9年)3月21日の函館大火で栄町の味噌小売店を類焼し、新川町に書籍と保険と味噌醤油の小売店を開業するが、5年ほどで廃業する。

1927年(昭和2年)6月、弘文社より『啄木書翰集』(石川啄木著)[5]を編集、刊行。

1940年(昭和15年)、支那事変における功により勲六等瑞宝章を授与される。

1945年(昭和20年)、自身の還暦を記念して歌集『自画像 : 郁雨歌抄』[6]を刊行する。

1946年(昭和21年)、恩賜財団同胞援護会北海道支部幹事を委嘱される。また、社会福祉法人函館厚生院相談役に推薦され、市立函館図書館の嘱託となる。

1948年(昭和23年)、函館引揚援護局総務部渉外課に勤務し、1950年(昭和25年)には『函館引揚援護局史』[7]を編纂する。

1956年(昭和31年)、函館の郷土雑誌「海峡」に啄木関係の記事の執筆を始める。

1958年(昭和33年)、函館市文化賞を受賞。函館図書館に「啄木を語る会」を発足させ、毎回出席し講演する。

1960年(昭和35年)9月、函館市湯の川の役宅で脳溢血となり入院、退院は翌年となったが、同年11月には東峰書院より『函館の砂 : 啄木の歌と私と』[8]が刊行されている。

1961年(昭和36年)、啄木50回忌記念として森屋より『函館と啄木』[9]阿部たつを田畑幸三郎との共編で刊行する。同年8月2日、脳溢血が再発し一時重篤になる。この後も一進一退をくり返し、1962年3月29日午前0時10分に生涯を閉じた。享年78(満76歳没)。

 
宮崎郁雨と砂山影二の歌碑(立待岬)

宮崎家の墓は、函館の立待岬の「啄木一族の墓」に寄り添うよう建てられている。

死後編集

1963年(昭和38年)4月、阿部たつを編集によって『郁雨歌集』[10]が東峰出版より刊行された。

1968年(昭和43年)には、函館図書裡会が立待岬の「啄木一族の墓」の隣に歌碑を建立した。歌は『郁雨歌集』から採られている。

演じた人物編集

参考文献編集

  • 『ステップアップ』vol.172 (2003年7月)
    以下の外部サイトに、出典として挙げられている。
  • 『啄木と郁雨 友の恋歌 矢ぐるまの花』 山下多恵子、未知谷、2010年9月、 ISBN 978-4896423112
    国際啄木学会理事でもある山下多恵子が新潟日報に連載した論稿。

脚注編集

  1. ^ むかしの日本公演:『啄木祭にちなんで』川並秀雄 p.19に「『不愉快な事件』について」として、三浦光子(啄木の実妹)による『兄啄木の思い出』(1964年、理論社刊)が抜粋掲載されている。
  2. ^ 北海道新聞:啄木の風景 <8> 借金編 素顔の啄木像 ―石川啄木研究者・桜井健治さんに聞く
  3. ^ NCID BA50304645
  4. ^ 本名の宮崎大四郎の名義
  5. ^ NCID BA39578669
  6. ^ NCID BA5495348X
  7. ^ NCID BN02386709
  8. ^ NCID BN10851247
  9. ^ NCID BA43308307
  10. ^ NCID BA40915449

関連文献編集

  • 『なみだは重きものにしあるかな―啄木と郁雨』 ISBN 978-4903156118 2010年12月 桜出版 遊座昭吾
    郁雨が函館日日新聞に連載した「歌集『一握の砂』を讀む」と、連載を受けて啄木が函館日日新聞に寄せた「郁雨に與ふ」を一冊にまとめた書籍。『一握の砂』発行から100年を期しての刊行。