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人物編集

1887年(明治20年)1月12日[1]熊本県下益城郡丹生宮村(現・熊本市南区城南町丹生宮)生まれ[2]。本名逸夫、号に峻峰。熊本農業学校早稲田大学政治経済学部卒業。九州新聞(現・熊本日日新聞)に入社し、記者として活躍するが、同社のストライキ事件に巻き込まれて退社する[1]。九州立憲新聞を経営した後、博多毎日新聞の編集長となる。

1916年(大正5年)に結核を発病するが、この頃より句作をはじめ、『ホトトギス』などに投句する[1]。熊本出身の女流俳人・斉藤破魔子(のちの中村汀女)に句作指導を行った[3]

1926年(大正15年)没。1929年(昭和4年)、吉岡禅寺洞により、「寸七翁句集」が編纂された。師匠である高浜虚子は「かくの如く佳作の多い一家の集は、きわめて稀に見るところである」と句集の序文で称賛している[4]。「血を吐けば現も夢も冴え返る」の句を残し生涯を閉じた。

出典編集

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  1. ^ a b c 日外アソシエーツ『熊本県人物・人材情報リスト2007』、465頁
  2. ^ 松本雅明編著 『城南町史』 城南町史編纂会、1965年、657頁
  3. ^ 熊本県高等学校教育研究会国語部会編 『くまもと文学紀行』 熊本県高等学校教育研究会、2005年、215頁
  4. ^ 熊本日日新聞社編纂『熊本県大百科事典』熊本日日新聞社、1982年、798頁

参考文献編集

  • 井上智重 『異風者伝』 熊本日日新聞社、2012年、297-302頁

外部リンク編集