家永三郎
家永 三郎(いえなが さぶろう、1913年9月3日 - 2002年11月29日)は、日本の歴史学者。専門は思想史(日本思想)。学位は文学博士(東京大学)[1]。東京教育大学名誉教授。甥に歴史学者の家永遵嗣がいる。
『平和と民主主義』1965年11月1日号より | |
人物情報 | |
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生誕 |
1913年9月3日 日本・愛知県名古屋市 |
死没 |
2002年11月29日(89歳没) 日本 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京帝国大学 |
配偶者 | 美夜子 |
両親 |
父:家永直太郎 母:居藤千代 |
学問 | |
時代 | 昭和・平成 |
研究分野 | 思想史(日本思想) |
研究機関 |
東京教育大学 中央大学 |
主な指導学生 | 松永昌三 |
学位 | 文学博士 |
主要な作品 |
『新日本史』 『太平洋戦争』など |
影響を受けた人物 |
植木枝盛 美濃部達吉 津田左右吉 田辺元など |
来歴
編集- 1913年(大正2年)愛知県名古屋市生まれ。父親は後に陸軍少将となった家永直太郎[注釈 1]。
- 母親は居藤千代
- 幼少期は陸軍将校だった父親の転勤に伴い大阪や九州で過ごし、父親が予備役入りした後、大正10年に東京に移った。
- 妻の家永美夜子は、社会学者で東北大学名誉教授の新明正道の長女であり、1944年11月に結婚し、1945年8月15日の終戦時は仙台へ疎開していた[3]。
学歴
編集- 1934年 東京高等学校卒業[4]。
- 1937年 東京帝国大学文学部国史学科卒業[5]。
- 1948年6月11日 日本学士院より恩賜賞受賞。研究題目『上代倭絵全史』『上代倭絵年表』[6]。授賞式では宮内府長官・文部大臣より祝辞を受けた[7]
- 1950年 文学博士(東京大学:学位論文[8]。
精研
編集国民精神文化研究所の機関誌『国民精神文化』第九巻第二号によると、1月11日から3月20日までの課程修了者29人の1人。クラスの科目は、「皇国の道」(紀平正美)、「皇国哲理」(佐藤通次)、「国体と政治」(大串兎代夫)、「大東亜教育論」(伏見猛弥)など。なお、文部省発令事項の東京教育大学が作成した正規の年譜からは削除している。国民精神文化研究所の歴史部門責任者の東京高師の長老松本彦次郎に知られ、東京高師へ栄転[9]。
職歴
編集- 1937年 東京帝大文学部史料編纂所嘱託。史料編纂所では大日本史料の校正を担当、上代思想史・芸術史に関する論文を執筆。
- 1941年 史料編纂所退官、旧制新潟高校専任講師。数か月後同教授。
- 1943年 帝国学士院嘱託、美濃部達吉の主宰する「帝室制度史」編纂事務にあたった。
- 1944年 東京高等師範学校教授。
- 1946年 文部省教科書編纂委員嘱託、歴史教科書「くにのあゆみ」執筆。
- 1949年 東京教育大学文学部史学科教授(新制大学制度に伴う大学組織変更に伴う)。
- 1977年 東京教育大学定年退官、中央大学法学部教授に就任。
- 1984年 中央大学定年退職。
学内事務・研究歴
編集東京教育大学では文学部の人事権の「民主化」と教授会の創設に尽力した。
- 教育二法の制定(1954年)などを「歴史教育の逆コース化」であるとして批判し、その反対運動に参加。
- 東大ポポロ事件を巡り、松川事件を取り上げる演劇を監視していた私服警官に暴行を加えた学生に対して大学自治を理由に無罪判決を下した1954年第一審判決を支持。
- 1959年 東京都教組勤務評価反対裁判に証人として出廷、東京教育大学への不法捜査に対しては警察庁に抗議をおこなった。
東京教育大改組移転関係史
編集- 1963年 キャンパスの敷地の狭隘さを理由として三輪知雄学長により提案された東京教育大学の筑波移転計画を巡っては、教育学部、理学部、農学部、体育学部が賛成する一方で、家永をはじめとする文学部は人文科学の研究・教育にとっては史料が豊富にある東京に残ることが必須であると主張し強く反対。
- 1967年 長期にわたる議論を経ても合意に至らず、東京教育大学評議会は筑波における土地取得を開始。
- 1968年 筑波移転に反対する文学部自治会の所属学生が校舎と大学本部のある本館を占拠するなど紛争が激化。自治会学生たちは教授陣はすべて権力側であるとみなし、移転反対派の家永に対しても団交などで激しい罵声を浴びせた。
- 1969年 宮島竜興学長事務取扱(学長代行)が機動隊の入構を許可し学生を排除、家永はこれをクーデターであると批判。
- 1969年9月 文学部が授業を再開しようとしたところ学長は学生のキャンパス入構を拒否、学生による学長に対する提訴により執行停止。
- 1970年 同大学評議会は、文学部の教授・助教授・専任講師の人事権に制限を加え、筑波移転に賛同しない者の採用を停止。元文学部長の星野慎一、前文学部長の入江勇起男、および家永の3人の文学部教授の辞職を文学部教授会に要求したが、文学部教授会はこれを拒否した。家永は筑波移転問題を「反動文教政策」の一環であると述べており、教授陣による自治的な大学の運営体制から学長を中心とした中央集権的な運営に移管させること、政府および財界が大学への介入をもくろんでいたことが原因であると主張している。
- 1973年 筑波大学設置法が制定、筑波移転が正式決定。家永は筑波大学について「きわめて非民主的な、従来の国立大学とは全く異質」な大学であると述べている[3]。筑波移転と改組に伴い文学部の学生募集が停止、家永の定年退官である1977年には同学部定員がほぼゼロとなっていた。
高校日本史教科書関係史
編集- 1955年 自身が執筆した高校歴史教科書「新日本史」の再訂版の検定合格条件を巡り文部省と対立。
- 1957年 第三版が検定不合格となり文部省に抗議書を提出した[3]。
- 1963年 「新日本史」第五版が一旦検定不合格、翌1964年に条件付きで合格。この際に300余りの修正意見が付された。教科用図書検定制度に対する反対意見を強める。
- 1965年 教科書検定違憲訴訟を提起[10]。
- 1967年 「新日本史」が再び不合格となると検定不合格の取り消しを求める訴訟を提起。
その他
編集研究業績
編集日本思想史研究
編集当初の専攻は日本古代思想史であり、特に仏教思想史研究で成果をあげたが、次第に研究領域を広げ、後半生では反権力的姿勢を強め、その立場からの社会的発言をおこなったほか、植木枝盛・美濃部達吉・津田左右吉・田辺元など、同様の傾向を持った近代思想家に対する共感を込めた研究や第二次世界大戦に関する反省からの思想史的アプローチを試みた論著を多く発表した。中でも『太平洋戦争』は広く読まれ、大きな影響力を持ったが[誰によって?]、「朝鮮戦争」(アメリカの侵略による)と記す[注釈 2][13]。
反権力的自由主義者
編集家永の活動は表現の自由を求める運動として海外において評価され[14]、2001年に、日本の国会議員・大学教授83名のほか、中国、韓国、アメリカ、カナダ、EUの14名の閣僚・国会議員、ノーム・チョムスキーやハーバート・ビックス、ブルース・カミングス、ジョン・W・ダワー、イマニュエル・ウォーラステイン、鄭在貞等144名の学者によって、ノーベル平和賞候補者に推薦されるも、2002年に家永が死亡し実現しなかった。
家永三郎文庫
編集家永の蔵書の大部分(約12,000点)は、遺族の希望に基づいて松永昌三らが整理し、天津市にある南開大学の日本研究所に寄贈された[15]。また、家永が『植木枝盛研究』(岩波書店)等の執筆に際して蒐集した明治期の出版物を中心とする文献資料は、町田市立自由民権資料館に寄贈され[16]、それぞれ「家永三郎文庫」と命名されている。
評価
編集この節は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。 (2018年12月) |
家永は、当初から反権力的志向だというわけではなく、青年期に陸軍士官学校教官を志望し受験するも、胃腸に慢性的な持病があったため身体検査で落とされるという経歴を持っている。また戦後も、昭和天皇に進講したり、学習院高等科の学生だった皇太子明仁(後の明仁上皇)に歴史を講ずるなど皇室との係わりを持っていた。
家永は日本国憲法下で『教育勅語成立の思想史的考察』(史学雑誌第56巻第12号1-19頁1947年12月、「日本思想史の諸問題」P119-146斎藤書店1948)という論文を発表しているが、この中で明治天皇と教育勅語を高く評価している[注釈 3]。また、『新日本史』(1947冨山房)にも明治天皇に対する尊崇の文章を記述しており、戦後も数年間は穏健かつ保守的な史観に依拠する立場をとっていた。それは、敗戦直後のてのひらを返したような言論界・思想界の豹変ぶりや、歴史学界における史的唯物論の風靡に、違和感をいだき反発の姿勢を示したことによる[17]。
家永の思想が反権力的なものに変化したのは、逆コースと呼ばれる1950年代の社会状況に対する反発が背景にあり、そのころに憲法と大学自治に対する認識の変化があったといわれている[18]。特に1960年に刊行した『植木枝盛研究』以降は、人権理念を自らの思想の中核に据えて、国家権力と対峙するような問題に取り組むようになっていった。
松永昌三は、朝日新聞に寄稿した追悼文で以下のように述べている。[19]
先生は理念の人であった。歴史学者ではあったが、哲学者・思索者であり、求道者の趣さえ感じられた。先生は理念と行動をできるだけ整合させようとされ、そこに乖離が生じると、理念に現実の行動を合わせようと努力された。先生はもともととくに進歩的だったわけではない。中学校卒業の頃までは、皇国史観的な考えを受け入れておられたようだ。先生が古代史を分担執筆された戦後初の文部省歴史教科書『くにのあゆみ』(46年)も、当時、一部の研究者からは「反民主主義的」と批判を受けている。あるいは、その転機は40年代後半から50年代にかけてではなかったか。きっかけは憲法と大学自治に対する認識の変化だったように思われる。50年代以降、先生は憲法理念について盛んに論じるようになる。自身は「発布されてすぐには憲法の本当の意義がわからなかったから」と話されていたが、思うところがあったのだろう。『植木枝盛研究』(60年)以降は、人権理念を自らの思想の中核に据え、国家権力と切り結ぶような問題に取り組むようになっていった。そんな先生が、教科書訴訟に踏み切られたのは、戦前・戦中の自身の経験を省みて、言論の自由、表現の自由の重要性を痛感されたからだと思う。あの訴訟は、自己の理念に忠実であろうとした先生の一個の「思想的作品」であったように私には思われる。
家永は、『戦争責任』で日本の戦争責任を鋭く衝いている。それ以外に、アメリカとソ連の戦争責任にも触れているが中国に関しては以下のように記している[20]。
抗日戦争の中で行ったゲリラ攻撃に戦時国際法に違反するものがあったとしても、圧倒的に優勢な装備を有する日本軍の侵略に対し、正規軍のみによる、あるいは戦時国際法の定める条件に形式的に適合した方法にしたがった防衛のみを要求するのは、期待可能性を無視したものというべく、正当防衛として違法性を阻却するものと考えるべきではなかろうか。個々の具体的行為について見れば、害敵手段としての相当性を逸脱した例もあったようであるが、日本軍が中国全土でくり広げた残虐行為の連続を考えるときに、その種の例外が若干あるとしても、それを拾い出して中国の責任を問題とすること自体公正を失するというべきであろう。
そしてこれに続けて通州事件も最終的に日本軍の責任であり、中国については全体的に日本の侵略の被害者として位置づけるのが相当であり、日本に対する戦争責任を問う余地は皆無に近いとすべきであると結論付けている。
平川祐弘は、家永を戦後という時代の御用学者として「日本の悪い面をこれでもかこれでもかと列挙した挙句、中国人民解放軍の良い面をこれでもかこれでもか」という歴史書を書いた人間だとし、歴史に対する感性がないから吉田清治が病的虚言症だということも見抜けなかったと批判している[21]。
稲垣武は、1993年に検定申請した教科書『日本史B』において、朝鮮戦争に関する記述に「1950年(昭和25年)朝鮮民主主義人民共和国軍が統一を目指して南進し」とし、共産主義側の侵略を糊塗する「南進」という表現を用いていることを批判している[22]。
秦郁彦は、家永は悪玉の悪行は見つけしだいに書くが、善玉の悪行は目をつぶるくせがある(この場合の悪玉は日本政府、日本軍、アメリカ、南ベトナム、資本主義であり、善玉は中国、ソ連、北ベトナム、社会主義)[23]として、具体例として、家永教科書の先生用の『指導資料』に、「ベトナム人民の総決起により、ベトナム全土は解放され(中略)前後して、カンボジア、ラオスも解放され(中略)続いては南北ベトナムは統一され」と記しているが、中越戦争もボートピープルも知らん顔で、教科書の方ではさすがにベトナムのカンボジア侵攻を「ベトナムとカンボジアとの関係をめぐり新しいインドシナでの紛争が発生したことは(中略)微妙な問題を生み出し」と記しているが、文部省から「微妙」ではなく「深刻」ではないかと注意され「複雑」に落ち着いたことを家永は著書で「ベトナムのみを一方的に非難する現政府のきわめて露骨な政治的意図が丸出し」と記している事を挙げている[24]。
保阪正康は、「戦争は悪である」という前提は、本来、歴史的事実を検証した上で確認すべき教訓であるが、教訓のみを提示し、それに合わせて歴史的事実を確認していくと検証能力が著しく殺がれることになる、そして口当たりのいい要領のいい人物が正義の士として受け止められるようになる、その典型例が家永であると指摘している[25]。
日本にもあったではないか。『皇国史観の徒』だった歴史学者、家永三郎氏が、いつしか左翼に転向したばかりか、国を相手取った歴史教科書裁判の原告ヒーローになった面妖なる事実が。
高山正之は、家永を以下のように評している(引用の際に、原文の改行を省略している)[27]。
東京市立一中、後の都立九段高校の卒業だから我が大先輩になるが、この人はとても悪い人だった。戦前は「ペンをもって皇国の盾とならん」とか巻頭の辞に書いていたのに、その皇国が一敗地にまみれると、この歴史学者はころりと転向した。GHQが日本は侵略国家だといえば「ハイ仰せの通りです」。南京で日本軍は大虐殺をやったと言えば「お説の通り」と検証もしないで歴史書を書き換えた。激変した世をうまく泳ぐためなら彼はどんな嘘でも厭わなかった。そこでやめていれば単なる変節漢で済んだが、彼はその身過ぎのため嘘をぬけぬけと教科書に載せようとした。それが東京五輪の直前で、そのころはまだまともだった文部省が、この嘘まみれのうえに誤字脱字だらけの教科書を不合格とした。彼はそれが不満で国を訴え、あの不毛の教科書裁判が三十余年も続いた。家永先輩は史実など糞くらえ、時流に乗れればそれでいいという曲学阿世の見本だった。
長尾龍一は、家永のように尽きぬ情熱をもって延々と旧日本を糾弾し続けるのは薬の続けすぎという印象を持たぬ訳でもないと評している[28]。
豊田有恒は1994年初版発行の自著で、韓国国内においてもっとも人気があり、良心的とみなされている歴史学者が家永であることを紹介している。憎むべき倭奴の検閲によって、迫害されているため、という理由が挙げられている[29]。実際に、韓国の中央日報では家永を「侵略の歴史を美化する国家権力に対抗した日本の良心」と紹介している。[30]
リチャード・マイニアは、同年代の井上清・遠山茂樹・丸山眞男・家永を評し、井上と遠山をマルキスト、丸山と家永はマルキストではないが影響はあったと規定している[31]。
林房雄から山田宗睦が1965年に刊行した『危険な思想家』に「熱情をかたむけたこの告発に声援を送る[32]」という「応援団長を買って出ている[32]」推薦文を寄せたことを批判されており[33]、竹内洋によると吉本隆明から山田や家永らは自分たちのネットワークを壊し孤立させようとしている学者を告発しているにすぎないと批判されている[34][注釈 4]。
沖縄戦集団自決の記述
編集『太平洋戦争』岩波書店1968年初版
沖縄の慶良間列島渡嘉敷島守備隊の赤松隊長は、米軍の上陸にそなえるため、島民に食糧を部隊に供出して自殺せよと命じ、柔順な島民329名は恩納河原でカミソリ・斧・鎌などを使い集団自殺をとげた。米軍に占領された伊江島の住民が投降勧告にくるとこれを殺し、島民の防衛隊員で命令違反という理由で殺されたものも何人かいた。
座間味島の梅沢隊長は、老人こどもは村の忠魂碑の前で自決せよと命令し、生存した島民にも芋や野菜をつむことを禁じ、そむいたものは絶食か銃殺かということになり、このため30名が生命を失った。
改訂版では、渡嘉敷島の箇所のみ修正されたが、訴訟で原告から批判された。
『太平洋戦争』岩波書店1986年2版
沖縄の慶良問列島渡嘉敷島に陣地を置いた海上挺身隊の隊長赤松嘉次は、米軍に収容された女性や少年らの沖縄県民が投降勧告に来ると、これを処刑し、また島民の戦争協力者等を命令違反と称して殺した。島民329名が恩納河原でカミソリ・斧・鎌などを使い凄惨な集団自殺をとげたのも、軍隊が至近地に駐屯していたことと無関係とは考えられない。
この裁判は原告の全面敗訴で決着しており、現在も本書は、この記述のまま出版が続けられている。
『日本占領秘史』をめぐる論争
編集秦郁彦の講演をまとめた『日本占領秘史』下巻(1977朝日新聞社P102-103)に「戦争中に心ならずも…とその方々はおっしゃるのですが…軍部に迎合したり戦争を礼讃するような論文などを発表した人たちが、今度はアメリカ民主主義の礼讃者あるいは平和主義者に早変わりする。清水幾太郎とか家永三郎とかいう人たちはこの変節組です」という記載があったため、家永が厳重に抗議した。
1977年12月、佐伯真光の立会いの元で秦は家永と交渉した。秦は表現の修正は応じるとしたが、家永は納得せず、1.問題部分の全面削除、2.再版に陳謝の意味で断り書きを入れる、3.初版についての措置を別に要求、4.応じなければ名誉毀損で告訴するとした。
秦は『変節』の一例をあげた。
『新日本史』(1947冨山房)
「今後九重の奥より出でて大いに国家の経営に力を尽し給ふ御決意を示されると共に…天皇の御活動に驚くことのない様御諭しなされた」
「開襟シャツスタイルの連合軍最高司令官マッカーサーの横に背の低いモーニング姿の日本人が並んで立つ写真が新聞紙に掲載されたのを見た国民は…」
「(明治天皇は)開戦が決定せられるや、大奥入御の後も、御悲しみのためしばらく御言葉がなく、御目には御涙をたたえさせられていたと伝えられる」
「無益なる戦争を中止して国民を戦火より救おうと決意遊ばされた天皇陛下の聖断により…降伏が通告された」
『昭和の戦後史』(1976):天皇とマッカーサーの第1回会談
家永は、「皇室への見方が徐々に変わったが、知識面で戦前の後遺症があり、当時は知的水準が低かった。節操が変わったのではない。」と反論した。会談は物別れに終わり、結局本書は絶版となり、1978年元日の読売・産経で報道された。秦によると、この際に家永が、自分は我慢してもいいが、教科書裁判の支援勢力が黙ってはいないだろう、と述べた[35]。
佐伯は、読売(1978年1月5日)に「戦前から戦後にかけて、家永氏の思想は180度の転換をとげている」との投書をのせ、家永は同紙(同年1月10日)に「文献をゆがめて引用」と反論の投書をのせた。
その後、朝日ジャーナル(1978年1月20日)は家永の反論記事をのせたが、秦の投稿は掲載しなかったため、秦は産経(同年1月22日)で家永批判を続けた。
家永は、マスコミ市民(1978年4月)で再び反論し、「新日本史」は「終戦直後に早変わりしておらず、軍部に迎合も戦争礼賛もしていない」と著した。
この『変節論争』は、秦の批判は「昭和史を縦走する」(1984)と「現代史の争点」(1998)にまとめられ、家永の反論は「憲法・裁判・人権」(1997名著刊行会)にまとめられた。
本書は、問題の箇所を改訂せずに1986年に早川書房より文庫化された。巻末の解説で金原左門は、秦は適切さが欠けており、家永は変節組の代表ではないと著した。
秦は、1987年、家永第3次訴訟の国側証人として東京地裁で証言したときに、天皇観の極端な振幅を示した「新日本史」(1947)の例をあげ、「こういう振幅の多い方は、次代の青少年を教育する教科書執筆者には適当でない」と述べた。
秦は、『太平洋戦争』(岩波書店、1968年)を「歴史研究者の立場から言って、いわゆる学術研究書とは言いにくいと考えている。」と証言し、その理由として、引用文献の不適切さ、感情過多の記述を挙げている[36]。例として、非公開で審理され、誰が発行したか不明なハバロフスク軍事裁判の供述書が主体で、『文藝春秋』や『日本』といった雑誌の変名記事、関係のない成智英雄「平沢貞通は真犯人ではない」という論文の引用、あとがきに「日本有志の協力による米航空母艦乗組員四名脱走の快ニュースに接した日/家永三郎しるす」「沖縄県を平和の回復とともにアメリカに売り渡したのは、何という残酷な行為であったろう」という記述、しかも英語版ではそれを削除していることを挙げている[37]。その他著書に、池田・ロバートソン会談における、日教組系のキャンペーンに乗った意図的な誤引用(「軍国主義意識を培養する」)を提示している[38]。
1990年になり、家永は「私と天皇制・天皇」を書き留めたが、内容は死後に初めて公表された。
『一歴史学者の歩み』(2003岩波現代文庫版)
……「新日本史」(1947)は皇室に関し敬語を用い、天皇中心史観とでもいうべき見方(ただし天皇不親政を日本君主制の伝統とする点で、戦前の天皇親政を「国体の本義」とする正統的皇国史観と同じではないが)が随所に散見する。(中略)
このような天皇崇敬の意識は、十五年戦争の終結について昭和天皇の「聖断」を特筆することにもなっている。
鹿野政直は、この解説で、「戦前期に成長した一人の知識人にとって、「天皇制イデオロギーの呪縛」からみずからを解放してゆくことが、いかに困難であったかが示されるとともに、幾重の段階をへて(中略)昭和天皇への批判に至った経過」が記されていると述べている。秦郁彦は、平泉澄の自伝『悲劇縦走』によると、1934年に東条英機が来訪して平泉史観で国史教育をやりたい、ついては門下の人を教官に迎えたい、と懇請した。以後陸海軍の国史教官は平泉門下が独占するようになるが、家永が卒業前後に陸軍士官学校教官を志望、教授の公募に応じたが、成績は良かったが身体検査で落とされたことを『一歴史学者の歩み』は触れていないことを問題視している[39]。これに関して家永は、自伝で「(平泉澄)先生の極端な日本主義には到底ついて行くことができなかった」「正気の沙汰と思われないような学風」と評していたが、内海秀夫は、家永が陸士を受験、成績は良かったが、健康上の理由で落とされたと証言している[40]。家永は1977年に発表したエッセーでは、「実にいい就職口だ」と陸士を受験したが、はねられたと明かして、1988年9月、第三次訴訟で、「先生の恩師でもある平泉先生も、この陸士にはよく講義に行かれておりましたでしょうか。」「平泉先生の直門の内海先生とか西内先生とかいう方がいらしたかどうかも御存知ないですか。」「平泉先生が教授になっていないと思って受験したと言うんですか。」「どういう授業をするかということはおのずから承知の上で、教授の試験を受けたんでしょう。」と国側弁護士に問われ、「それは存じません。」「知りません。」「いい就職口だと思って受験したというだけです。」と答えている。国史学科後輩の時野谷滋は、学生数が20数人、皇国史観の重鎮で知られた主任教授の平泉澄教授が陸士の国体教育に絶大な影響力を持ち、弟子を次々に送り込んでいた実情を知らないはずがない、と述べている[40]。
731部隊と従軍慰安婦
編集第三次家永訴訟で国側証人の秦郁彦は、1983年の教科書検定の時点では731部隊に関しては信用に堪え得る学術研究論文や著書が発表されていないと、同部隊に関する記述の全面削除を検定合格の条件とした文部省を支持した[41]。しかるに最高裁大野判決では、検定当時すでに731部隊に関して多数の文献・資料が公刊され、同部隊の存在等を否定する学説はみあたらず、文部省は裁量権の範囲を逸脱したとした。
家永は『戦争責任』(岩波書店1985,pp104-107)で吉田清治の『私の戦争犯罪―朝鮮人強制連行』(三一書房、1983)の記事を4頁にわたり転載し、済州島での従軍慰安婦の強制連行の記事を掲載した。また『太平洋戦争2版』(岩波書店1986,pp198)でもやはり吉田の著書を引用して著した。秦は1992年現地調査を行い、吉田の記事が事実無根と報告した(吉田清治の項参照)。家永の「慰安婦」に関する部分がすべて吉田の『創作』の引用に過ぎないことは、日垣隆が指摘している[42]。
『上代仏教思想史研究』序文について
編集『上代仏教思想史研究』は(1)1942年初版(畝傍書房)、(2)1948年再版(目黒書房)、(3)1950年三版(目黒書房)、(4)1966年四版(法蔵館)の4種の版が存在する。秦は産経新聞(78/1/22)で本著に関し家永批判を著した。「『上代仏教思想史研究』は(1)の序文に『この意義深き時に当たり学界の一兵卒として学問報国の戦列に参加することの出来た吾人は誠に願っても無き幸せ者…以て君国に報じたい』とある。しかるに(2)ではこの箇所が削除改変され、(3)(4)では復活した」
これに対し家永はこう反論した。
『誹謗に抗して』マスコミ市民(1978/4)、「憲法・裁判・人権」(1997名著刊行会)pp152-170より抜粋
官憲の網にひっかからないようにくふうして表現した苦心の文章にほかならない。(中略)
あいにく私の手許に48年版がなく、削った記憶もないが、削られているとすれば、占領軍の検閲でひっかかるのを避けるためであったにちがいない。恥かしいと思ったからでないことだけは確実で、その2年後の50年版に初版どおり復原してあるのがその証拠である。
文章の全体は文脈は今日そのまま私の信念として少しも変わっておらず、恥かしい文章であるとは全然考えていない。
だからこの一節は1950年版にも1966年版にも、そのまま活字として載せてあるのである。秦氏によると、1948年版には削られているという。
これに対して佐伯真光は「『上代仏教思想史研究』の象嵌」[43]を著し、(1) - (4)各版を詳細に比較し、家永の旧著を引用した。
『歴史の危機に面して』(1954東京大学出版会)pp236-239
自分の書いたものが活字になる、というのは、うれしいようで、一面恐しいことでもある。一度活字になったら最後、どんな恥しいまちがいがあつても、抹殺する方法がないからである。
再版と三版との間にこんな複雑な閑係があることは、おそらく書誌学者も御存知ないことと思うから、参考のために書いて置く。
ある大先輩は、一生に何千という論文を雑誌に発表したが、ほとんど単行本らしい単行本を作らなかった。雑誌に発表した論文なら、すぐまた前のを訂正した論文が出せるけれど、単行本にまちがったことを書くと、世を誤る責任が重い、というのが理由だったそうである。その学者的良心のきびしさには敬服するが、ちと単行本の読者を見くびり過ぎてはいないだろうか。私なぞは反対に、読者からまちがいを教えてもらおうという虫のよい考えで、本を出している。
まちがいを抹殺する方法はないが、訂正する方法はないではないのである。日本の出版界は改版ごとに組みかえを許してくれるほどの余裕はないようだが、象嵌訂正くらいならできる。
もっとも、私は象嵌訂正でにがい経験を味わった。「上代仏教思想史研究」という本を、目黒書店で再版するというので、象嵌訂正をした。その次に重版を出すとき、再度の象嵌訂正をしたが、本が出て見て驚いたことには、二度目の訂正はちゃんと出ているかわりに、最初の訂正がまたいつのまにか初刷通りにもどっている。最初の象嵌訂正で紙型を改めたとき、古い紙型が廃棄されずに残っていて、それが二度目の重刷のときに誤って使用されてしまったのである。
つまり(2)で訂正したはずだが、(1)の紙型が残っていたため、(3)を出版する時に誤って使ってしまった訳である。
それでは(4)でどうして(1)の内容が掲載されたかという疑問が生じる。昭和30年代後半から家永を変節者として攻撃する声が高まった。『津田左右吉の思想的研究』(1972岩波書店)で、家永は津田の文章が戦前と戦後とでどう改訂されたか詳細な調査をしたが、家永自身も将来他の研究者により調査されると感じていた。自身の首尾一貫性を主張するために、(2)の存在を抹殺する必要があったが、結果的に変節を証明したと、佐伯は結んでいる。大倉山論集での批判に、家永はまったく反論していない。
『津田左右吉の思想史的研究』への評価
編集『津田左右吉の思想史的研究』(岩波書店1972)序文ⅱ - ⅲ たまたま、一九六五年以来、私は教科書裁判という前例のない裁判の原告としてはげしい攻防戦の渦中に立つ身となったが、その争いの中で、争点の一つとなっている検定不合格箇所が、戦前の津田の研究成果に立脚して書かれたものでありながら、これを不合格とした文部省は、その不合格処分を正当化する証拠として戦後の津田の著作を法廷に提出するという、奇怪なできことに遭遇した。
このように津田の学説に立脚した叙述の検定不合格処分の取消しを求めるこの訴訟は、津田学説が皇室の尊厳を冒涜したと称して行なわれた戦争中の刑事裁判のいわば復讐戦ともいうべき性格を帯びていたが、被告文部大臣は、戦後の津田の論文の一部を乙第二一号証・乙第五二号証として提出し、原告の主張に対する抗弁のために用いた。
訴訟当事者として理論的にゆるぎのない裏づけをするためにも、私は、戦前の津田と戦後の津田とを統一的に再認識することにより、文部省に右のような手口で利用されることとなった客観的根拠をきびしく洗い出してみなければならないと考え、津田左右吉の総合的な研究を、一日も早く完成する必要を、改めて強く感ずるにいたったのである。
P596 - 597 教科書訴訟は二つの訴訟の総称であるが、ここでは便宜第二次訴訟のほうだけによって述べると、昭和四十二年三月二十九日、教科書検定権者である文部大臣は家永三郎著作高等学校用教科書原稿の一説「『古事記』も『日本書紀』も『神代』の物語から始まっている。『神代』の物語はもちろんのこと、神武天皇以後の最初の天皇数代の間の記事に至るまで、すべて皇室が日本を統一してのちに、皇室が日本を統治するいわれを正当化するために構想された物語であるが」とある部分を不合格処分に付したので、著者はその取消しを求める訴訟を東京地方裁判所に起し、この叙述は、津田左右吉の学説によったものであって「学界の殆んど異論のない最大公約数的命題」であり、著者の学問的見解に基く記述の当否を公権力により審査する検定処分は憲法に違反する、と主張した。
本書に対する学術評価を列挙すると、ひろたまさき[44]は「本書は教科書裁判闘争によって産み落とされた成果であるとともに、その裁判のための学問的な武器としてもつくられた」と評価した。兵頭高夫[45]は「家永氏が津田の『思想史的変貌』あるいは『転向』と呼ぶものが必ずしも十分に根拠のあるものではないことが理解できよう」と述べ、西義之[46]と田中卓[47]も家永の論理の弱点を指摘した。(木村時夫(1973))も「家永氏の今度の書物は、津田の学問的業績を日本の思想史上に位置づける学問研究ではない」と批判した。
高校日本史教科書執筆と教科書裁判
編集家永は、戦後間もなく編纂された歴史教科書『くにのあゆみ』の執筆者の1人であったが、その後長く高校日本史教科書『新日本史』(三省堂発行)の執筆を手がけた。通常、歴史教科書は、専門分野を異にする複数の著者によって執筆されるが、『新日本史』は、全体の照応、前後の照応や教科書著述の一貫性を貫くため、家永の単独著作で発行された。
背景として、1955年8月13日に日本民主党が発行した『うれうべき教科書の問題』があった。この小冊子では教科書の偏向(教員組合をほめたてるもの、急進的な労働運動をあおるもの、ソ連中共を礼賛するもの、マルクス・レーニン主義の平和教科書の四つに分類して具体的記述が列挙されていた)が批判されている[48]が、教科書執筆者有志が9月に入り、「小冊子の書き方は故意に一部を抜き出し、煽動的な文章を勝手に付け加えて記述の意味を捻じ曲げ、これに政治的な中傷を加えるというやり方に終始している」と抗議を行った。執筆者のうち長洲一二や日高六郎は経過を発表した上で執筆を辞退したが、家永のみが執筆を続けたのである[49]。山住は、この小冊子で取り上げられたような記述の内容を引用して例示し、「偏向という事実は存在しない」と主張することはしていない。この記述形式は波多野澄雄の著書にも見られる[50]。教科書誤報事件も参照されたい(韓国では「『侵略を進出に書き換えた』と報じられたが、では書き換えたという教科書の現物を見せてほしい」と言われても現物がなかった、という出来事が起こっている。書き換えという事実がないので現物が存在しようがないのである)。また、家永自身も『うれうべき教科書の問題』について自著で触れているが、やはり記述の引用は行っていない[51]。[独自研究?]
自身の執筆した日本史教科書における南京大虐殺、731部隊、沖縄戦などについての記述を認めず、検定基準を不当に解釈して理由をこじつけた文部省に対して、検定制度は違憲であるとして三次の裁判を起こし、教科書検定を巡る問題を世間に広く知らしめた。家永は「この訴訟は……究極において人類の破滅を阻止するための人類史的課題を背負っている」と言い切っている[52]。訴訟における最大の争点であった「教科書検定は憲法違反である」とする家永側主張は、最高裁で「一般図書としての発行を何ら妨げるものではなく、発表禁止目的や発表前の審査などの特質がないから、検閲にあたらない」として、家永側の主張の大部分が退けられ、家永側の実質的敗訴が確定した。一方で、個別の検定内容については一部が不当とされ、家永側の主張が容れられた。
教科書の発行、自由発行・自由採択であるべきだ、とする持論を教科書裁判提訴の頃より一貫して明らかにしており、80年代半ばの『新編日本史』を巡る議論が盛んだった時期は、記者の取材に「立場は違うが、検定で落とせとは口が裂けても言えない」と語り検定を否定し続けた[53]。
著書
編集著作集
編集- 家永三郎集全16巻 岩波書店、1997-1999年[54]
- (1)思想史論
- (2)仏教思想史論
- (3)道徳思想史論
- (4)近代思想史論
- (5)思想家論1
- (6)思想家論2
- (7)思想家論3
- (8)裁判批判 教科書検定論
- (9)法史論
- (10)学問の自由 大学自治論
- (11)芸術思想史論
- (12)評論1 十五年戦争
- (13)評論2 裁判問題
- (14)評論3 歴史教育・教科書裁判
- (15)評論4 大学問題・時評
- (16)自伝
全集にすると50巻にもなるため、高価すぎて売れないと岩波書店は判断し、代表作のみの出版とした。文庫・新書で版を重ねた「太平洋戦争」「戦争責任」「日本文化史」は最初から除外し、家永の了解を得て16巻にまとめた[55]。その結果、恩賜賞の対象となった『上代倭絵全史』『上代倭絵年表』、『植木枝盛研究』や『津田左右吉の思想史的研究』は収載されなかった。16巻の著作目録は、すべてタイトルが掲載されている。16巻の『一歴史学者の歩み』は2003年に文庫本化された。
単著
編集- 『日本思想史に於ける否定の理論の発達』(弘文堂、1935年)
- 『日本思想史に於ける宗教的自然観の展開』(斎藤書店、1942年)
- 『上代倭絵全史』(高桐書院、1946年)学士院恩賜賞受賞
- 『上代仏教思想史』(畝傍書房、1947年)
- 『新日本史』(冨山房、1947年)
- 『日本思想史の諸問題』(斎藤書店、1948年)
- 『新しい日本の歴史』(毎日新聞社、1950年)
- 『新国史概説』(富士書店、1950年)
- 『中世仏教思想史研究』(法藏館、1952年)
- 『新日本史』(三省堂、1952年 - 1994年)
- 『上宮聖徳法王帝説の研究』(三省堂、1953年)
- 『外来文化摂取史論:近代西洋文化摂取の思想的考察』(岩崎書店、1953年)
- 『歴史の危機に面して』(東京大学出版会、1954年)
- 『革命思想の先駆者:植木枝盛の人と思想』(岩波書店、1955年)
- 『日本の近代史学』(日本評論新社、1957年)
- 『植木枝盛研究』(岩波書店 1960年8月)ISBN 4000001590
- 『近代日本の思想家』(有信堂、1962年)
- 『大学の自由の歴史』(塙書房、1962年)
- 『司法権独立の歴史的考察』(日本評論新社、1962年)
- 『美濃部達吉の思想史的研究』(岩波書店、1964年)
- 『権力悪とのたたかい 正木ひろしの思想活動』(弘文堂、1964年)
- 『教科書検定:教育をゆがめる教育行政』(日本評論社、1965年)
- 『新講日本史』(三省堂、1967年7月)
- 『近代日本の争点』(毎日新聞社、1967年)
- 『日本近代憲法思想史研究』(岩波書店、1967年)
- 『太平洋戦争』(岩波書店、1968年)
- 『教育裁判と抵抗の思想』(三省堂、1969年)
- 『津田左右吉の思想史的研究』(岩波書店、1972年)
- 『田辺元の思想史的研究:戦争と哲学者』(法政大学出版局、1974年)
- 『検定不合格日本史』(三一書房、1974年)
- 『日本人の洋服観の変遷』(ドメス出版、1976年)
- 『東京教育大学文学部:栄光と受難の三十年』(現代史出版会/徳間書店、1978年2月)
- 『歴史と責任』(中央大学出版部、1979年)
- 『猿楽能の思想史的考察』(法政大学出版局、1980年4月)
- 『親鸞を語る』(三省堂、1980年6月)
- 『戦争と教育をめぐって』(法政大学出版局、1981年4月)
- 『「密室」検定の記録』(教科書検定訴訟を支援する全国連絡会、1983年1月)
- 『刀差す身の情なさ―家永三郎論文創作集』 (中央大学出版部、1985年)
- 『戦争責任』(岩波書店、1985年7月)ISBN 4-00-001167-7
- 『太平洋戦争 第2版』(岩波書店、1986年11月)ISBN 4-00-004536-9
- 『日本思想史学の方法』(名著刊行会、1993年3月)
- 『真城子』(民衆社、1996年)ISBN 4-8383-0519-2
- 『一歴史学者の歩み』(岩波書店、2003年5月16日)ISBN 4006030797
編著
編集論文
編集- 「戦後日本の裁判例に現われた法思想の動向」『法哲学年報(1969)』(1970年)
関連項目
編集脚注
編集注釈
編集- ^ この父親について、『朝日新聞』は家永三郎が死去した際の追悼記事(2002年12月2日付。高橋庄太郎記者による署名記事)で「陸軍将官」と表記していたが、4日付けの訂正記事では「陸軍軍人」の誤りであったとしている。この追悼記事では「父親に先立たれた家永が、貧しい生活の中で学問に打ち込んだ」と書かれていたが、直太郎が死んだのは家永が35歳のときであり、史料編纂所に勤務して2年が経過していた。また、陸軍少将の恩給は直太郎が死ぬまで月額240円前後が支給されていた。このエピソードを紹介した秦郁彦は、「貧しい」とは言いかねるのではないかと指摘し、この「訂正」記事を「イメージ作りのための曲筆ではないか」と見ている[2]。
- ^ 『太平洋戦争』第2版では「朝鮮戦争開始、在日米軍基地、攻撃の拠点となる」との記載[12]
- ^ 教育勅語は1948年に国会本会議で排除・失効決議がされたが、1946年10月からGHQの意向によって公教育における教育勅語の奉読が禁止され始めていた。
- ^ 『展望』1965年10月号 吉本隆明「わたしたちが山田宗睦の著書や、この著書におおげさな推薦の辞をよせている市民民主主義者や進歩主義者の心情から理解できるのは、じぶんたちがゆるく結んでいる連帯の人的なつながりや党派的なつながりが崩壊するのではないか、孤立しつつあるのではないかという深い危機感をかれらが抱きはじめているということだけである。そして、かれらの党派を崩壊させるような言葉をマスコミのなかでふりまいているようにみえる文学者、政治学者、経済学者を告発しよういうわけだ。」
出典
編集- ^ 博士論文.
- ^ 秦郁彦 『現代史の対決』 文春文庫 [は-7-7] ISBN 416745307X、208-209p
- ^ a b c d 「人間の記録 35巻 家永三郎」(日本図書センター 1997年)
- ^ 東京高等学校編『東京高等学校一覧 第17(昭和17年4月-18年3月)』東京高等学校、1942年、p.166
- ^ 『東京帝国大学卒業生氏名録』東京帝国大学、1939年、p.341
- ^ 恩賜賞・日本学士院賞・日本学士院エジンバラ公賞授賞一覧 第31回 (昭和16年) ~ 第40回 (昭和25年)(日本学士院) - ウェイバックマシン(2017年8月24日アーカイブ分)
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- ^ 家永三郎『主として文献に拠る上代倭絵の文化史的研究』 東京大学〈文学博士 報告番号不明〉、1950年。 NAID 500000491132。
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- ^ 本間てる子『秋田の母ちゃん統一協会とわたりあう』かもがわ出版、2003年。ISBN 4876997691 p103
- ^ 家永三郎 『太平洋戦争』第2版(岩波書店、第1刷1986年、確認は第20刷2000年発行)p446 巻末の「牽引をかねた略年表」
- ^ 家永三郎 『太平洋戦争』(岩波書店、1968年)巻末牽引
- ^ Jonathan Watts(2002) Saburo Ienaga: One man's campaign against Japanese censorship. The Guardian, 3 December 2002 (ジョナサン・ワッツ(2002)家永三郎:ある男の日本の検閲制度への反対運動 2002年12月3日付ガーディアン紙)
- ^ 日本歴史学会編纂『日本歴史』2015年1月号、吉川弘文館
- ^ 町田市立自由民権資料館(編)「「家永三郎文庫」史料目録(書籍・雑誌)」『自由民権:町田市立自由民権資料館紀要』第18号、2005年、46-73頁、ISSN 0913-8951。
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- ^ “「教科書裁判は「思想的作品」 歴史学者・家永三郎さんを悼む」”. 朝日新聞夕刊. (2002年12月10日). 2002-12-10
- ^ 家永三郎 『戦争責任』 岩波現代文庫 S50 ISBN 4006030509、344-345p。この他、同書406pでは「中国の抑留は、受刑者の内面的反省を導き出した生産的なもの」という記述もある。
- ^ 平川祐弘 『日本人に生まれて、まあよかった』 新潮新書 569 ISBN 978-4106105692、89p
- ^ 稲垣武 『「悪魔祓い」の戦後史 進歩的文化人の言論と責任』 文春文庫 ISBN 4167365049、500p
- ^ 秦郁彦『現代史の争点』 文藝春秋 ISBN 978-4163540603、116p
- ^ 秦郁彦『現代史の争点』 文藝春秋 ISBN 978-4163540603、127p
- ^ 文藝春秋編 『「従軍慰安婦」 朝日新聞vs.文藝春秋』 文春新書 997 ISBN 978-4166609970、135-136p。当該部分の執筆は保阪正康。
- ^ 室谷克実 『新・悪韓論 「ウリジナル」発生のメカニズム 渦中の首相も染まった史実無視の対日史観』 夕刊フジ 2015.04.23
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- ^ 豊田有恒 『いい加減にしろ韓国 日本を嫉妬し、蔑む真の理由』 ノン・ブック 347 ISBN 4396103476、182p
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- ^ a b 林房雄 『大東亜戦争肯定論』 番町書房、1970年、606p
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- ^ 竹内洋『革新幻想の戦後史』中央公論新社、2011年10月。ISBN 978-4-12-004300-0。p326
- ^ 秦郁彦『現代史の争点』 文藝春秋 ISBN 978-4163540603、112p
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- ^ 秦郁彦『現代史の争点』 文藝春秋 ISBN 978-4163540603、118p
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- ^ 1993/03/18 読売新聞朝刊[2]
- ^ 家永三郎集(岩波書店) - ウェイバックマシン(2007年9月26日アーカイブ分)
- ^ 日本古書通信64(7)pp6-8 (1999.7)
参考文献
編集- 木村時夫「津田左右吉博士小論-家永三郎氏の所説によせて-」『早稻田人文自然科學研究』第10巻、早稲田大学社会科学部学会、1973年2月、23-52頁、ISSN 0286-1275、NAID 120000793218。
- 兵頭高夫「家永三郎著「津田左右吉の思想史的研究」」『比較文學研究』第24号、すずさわ書店、1973年、162-168頁、ISSN 0437455X、NAID 40004693442、CRID 1523951029687123072。
外部リンク
編集- (批判と反省)家永三郎「「関特演」の違法性」 - ウェイバックマシン(2010年1月1日アーカイブ分)
- 『家永三郎』 - コトバンク