富川 盛奎(とみかわ せいけい、1832年11月28日道光12年10月7日) - 1890年明治23年)7月)は、琉球王国の政治家・歌人、最後の三司官の一人。唐名は毛鳳来

富川盛奎

毛氏富川殿内家の男として首里儀保村(現・那覇市首里儀保町)に生まれる。1872年、検使(監査役)を任命し、宮古八重山に渡航し、在地の法制を監査した。翌年、首里に帰る。

1875年に三司官に就任、1879年までの4年間その任にあった。琉球処分では沖縄県庁の顧問となり、明治政府に協力した。1882年、日清間の分島増約案先島清国へ割譲)に反対して、王大業(国場親雲上)とともに清国へ脱出、琉球王国の復旧を陳情した。しかし果せず、帰郷を拒否、清国で客死した。

関連項目 編集

先代
宜湾朝保
琉球の法司(丑日番)
1875年 - 1879年
次代
王統廃止