冨永 恭次(富永 恭次、とみなが きょうじ、1892年明治25年)1月2日 - 1960年昭和35年)1月14日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

冨永 恭次
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生誕 1892年1月2日
日本の旗 日本 長崎県
死没 1960年1月14日
日本の旗 日本 東京都世田谷区
所属組織 War flag of the Imperial Japanese Army.svg 大日本帝国陸軍
軍歴 1913年 - 1945年
最終階級 陸軍中将
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経歴編集

医師・富永吉太郎の二男として長崎県で生まれる。熊本陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1913年大正2年)5月、陸軍士官学校(25期)を卒業。

同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第23連隊付となる。

陸軍経理学校生徒隊付などを経て、1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業。このときに陸軍大学校で教官を務めていたのが東條英機であったが、富永は佐藤賢了有末精三などと共に、東條が将来陸軍内で栄達すると考えて慕っている。なかでも一番東條にすり寄っていたのは佐藤であって、佐藤は帰郷するたびにお土産を買って届けるなど足繁く東條の家をたずねていた。東條は自分に好意を持っている人物を基本的には受け入れる親分肌なところがあって、富永らは陸軍大学を卒業してからも東條に重用されることとなった[1]。のちに東條は永田鉄山統制派の中心人物となり、陸軍内で皇道派と激しい主導権争いを行ったが、富永は統制派として東條と行動を共にしている。

同年12月、歩兵第23連隊中隊長に就任。

1924年(大正13年)12月には参謀本部付、さらに翌1925年(大正14年)には関東軍司令部付(満州里駐在)へ転属する。

1927年昭和2年)12月には参謀本部員に転属し、1928年(昭和3年)8月、歩兵少佐に昇進。

同年12月、駐ソ連大使館付武官補佐官となり、ジュネーブ海軍軍縮会議全権の随員なども務める。

1932年(昭和7年)8月、歩兵中佐に進級し参謀本部員(第2課)に就任。その後、参謀本部付仰付(欧州駐在)このときに、対ソ連謀略のため、フランスに派遣されて白系ロシア人組織との連絡役をしたこともあった。富永はこの後も、着任した様々な部署で対ソ謀略や工作に関わることとなり、このことがのちにソ連に抑留された際に厳しい対応をされる原因ともなっている[2]

近衛歩兵第2連隊付を経て参謀本部庶務課高級部員(課長代理)となる。

当時の日本軍は組織として防諜に対する意識が希薄であり、特に満州事変以降、諸外国からのスパイ活動がさかんとなっていたのにも関わらず、まともな中央の防諜組織すらない状況だった。また、軍人個人の秘密保護に対する意識も低く、機密書類を軍人が自宅に持ち帰って、家族に見せ、引っ越しするときにそのまま捨てたり、通勤の電車のなかで軍人が動員人数などを口外し、同乗していた一般客に聞かれるなど、軍機保護上で由々しき事態が頻発していた。対ソ謀略に携わって諜報活動にも詳しかった富永は、日本軍の情報管理の不備に危機感を抱いて、1936年(昭和11年)6月に庶務課課長名で「機秘密保持改善に関する件」という意見書を陸軍省副官寺倉正三大佐に提出している。その意見書で富永は、日本軍の組織や軍人個人の情報管理意識の希薄さを問題視して「万難を排し速やかに之れが観念施策を根本的に更新し軍機保護上些かの遺憾なきを期せざる可からず」と全力で軍の情報管理強化策を講じるように提案している。この意見書はのちの1937年に、大本営第2部に、宣伝・謀略・防諜を担当する第8課(通称謀略課)が創設されるきっかけともなった[3]

1936年(昭和11年)8月、歩兵大佐に昇進し参謀本部第2課長となる。

 
近衛歩兵第2連隊長のときの富永

1937年(昭和12年)1月、関東軍司令部付に転じ、関東軍参謀、近衛歩兵第2連隊長を歴任。

関東軍参謀のときに参謀長であった東條の威を借りて権勢を振りかざしていたので、東條の腰巾着的な存在と揶揄されたりもした。1937年3月にはオトポール事件ユダヤ人を救助したハルピン特務機関樋口季一郎少将に対して、独断で退職勧告をするなど、目に余る行為もあったが[4]、東條はナチス・ドイツからの抗議や富永の退職勧告にも関わらず樋口を不問としている[5]

参謀本部作戦部長編集

1939年(昭和14年)3月、陸軍少将に進級し参謀本部第4部長に着任。第4部は戦史の編纂が任務であり、富永が作戦に直接関与することはなかった。同年5月に満州国モンゴル人民共和国の間の国境線をめぐってノモンハン事件が発生したが、関東軍は参謀の辻政信中佐らを中心に独断で事件の拡大を画策しており、直接作戦に携わることのできない富永はその情報を聞いて苦々しい思いをしている。同年6月には関東軍は第二次ノモンハン事件に向けて準備をしていたが、その情報を聞いたモスクワ日本国大使館駐在武官土居昭夫大佐が、関東軍に思い止まらせるため、満州に至るまでの道中のシベリア鉄道で見た、極東に輸送される大量の戦車や兵器類の情報を司令官の植田謙吉大将に知らせたが、計画を止めることはできなかった[6]。土居は、楽観的な関東軍に怒りと危機感を覚えながら帰国したが、東京に向かう飛行機内で富永と同席となったので、土居は「富永さん、植田司令官はノモンハン出動交戦を承認されたのですか」と聞くと、富永は苦々しげに「植田司令官は出動に内心不同意だったが、いやいやながら許可したらしい」と答えている[7]

やがて、ノモンハン事件は富永らの懸念通り日本軍の敗北に終わり、9月には事件の責任追及と事後処理のために大規模な人事異動が行われ、富永は参謀本部第1部長に抜擢された。同時に陸軍次官には阿南惟幾中将、参謀本部次長には沢田茂中将が就任しており、陸軍中枢の人心を一新して事件の事後処理が進められることになった[8]

富永はノモンハン事件の戦訓研究を小池龍二大佐を委員長とする『ノモンハン事件研究委員会』に命じた。同委員会は小池の下に主査小沼治夫少佐を据えて、第1委員会(戦略戦術・編成・資材・通信・経理衛生・ソ連事情等)22名、第2委員会(軍事情報)10名で編成されるといった大規模なもので、完成したものは陸軍三長官に提出されることとなった[9]。委員長小池の強いこだわりによって、現地で関係者から徹底した事情聴取を行うなど、大掛かりな調査が行われ、調査結果を纏めた『ノモンハン事件研究報告』が1940年(昭和15年)1月10日に完成した。研究報告は委員の熱心な調査によって、おざなりなものにはならず「低水準にある我が火力戦能力を速やかに向上する必要あり」「火力戦能力向上については、その要を強調して既に久しくなるが、遂に所望の水準に達さず、今回の事件に逢着することとなった」「今事件を契機に、火力戦に対する正当な認識を持ち、編成・装備・補給・教育・運用・技術各部門の飛躍的進展を促進させなければならない」などと的を射た指摘がなされた[10]。しかし、参謀本部の的を射た指摘にも関わらず、日本とソビエト連邦の工業力水準の問題もあり、日本軍をソ連並みの火力に持っていくのは最初から困難であると陸軍省は分析しており、「装備については形をソ連に似せるが、その能力はその8割と思わねばならぬ、戦力比は10対8なり。残りの2割は精神力で補う外なきも、これはなかなか困難である」と結論付けるなど、せっかくの研究結果も十分に活かされることはなかった[11]

それでも、一式機動四十七粍速射砲の開発などの対戦車装備の充実や、陸軍航空機の防弾設備の強化など一部の教訓が活かされて装備の改善が進んだ[12]。また、ノモンハン事件など、ソ連との国境紛争を頻発させることとなった関東軍独自に制定の「満ソ国境紛争処理要綱」の改善にも着手、新しく関東軍司令官となった梅津美治郎大将が、国境線20㎞に渡って緩衝線を設けて、その緩衝地帯内にはパトロール隊以外の部隊を置かず、日本軍本体は緩衝線より後ろに陣地を構えて防衛線を引くといった防御特化の「国境警備要領」の原案を作成したが、富永はノモンハン事件の戦訓もあって日本軍が防御に回った場合の脆さを指摘し「日本軍に防御なし」とこの案の修正を求め、次長の沢田も「関東軍はノモンハン事件に懲りて恐ソ病に罹っているのではないか」と反問し、修正が加えられた。その後、日ソ中立条約独ソ戦もあって、1944年末まで日本とソ連の間で国境紛争が起こることはなかった[13]

1940年(昭和15年)9月の北部仏印進駐に際して参謀本部の命令により現地に出張し、陸軍部隊の指導と現地居留民の引揚げについての監督を行った。同年8月には、日本の松岡洋右外務大臣とシャルル・アルセーヌ=アンリフランス語版駐日フランス大使との間で、日本軍の仏印への進駐を認めることも含まれた松岡・アンリ協定が締結されており、大本営から仏印監視団長西原一策少将に現地での折衝や調整が一任されていた。従って、本来、陸軍側の指揮しかできない富永の権限は陸海軍代表の西原には及ばないはずであったが[14]、富永は、西原に参謀総長の職印を押印した辞令を提示し「今次交渉期間は富永の命に従って行動し海軍には絶対に内密のこと」と命じたが、この辞令が正当な手続きによって発行されたかは不明であった[15]。富永は現地を統括する南支那方面軍に赴くと、同軍参謀副長であった同じ東條一派の佐藤と謀議し、軍司令官の安藤利吉中将や第5師団師団長中村明人中将を集めて仏印進駐の方針について申し渡しをしているが、その中では松岡・アンリ協定で定められた9月22日午前0時の交渉期限を独断で半日縮めて、21日の午後12時までに交渉が妥結しなかった場合や日本側の提示条件に修正を加えてきたなら、これを拒絶と見なすとし、わざわざ第5師団長の中村を起立させて、出撃準備を行うように指示した。富永は東京を発つ際に昭和天皇から「交渉が期限前に妥結した場合はくれぐれも平和進駐をするよう」との指示があっていたが、この申し渡しの席で富永は、居並ぶ南支那方面軍の高官らに「いかなる場合も平和進駐はあり得ない」と話していたという[16]

その間、西原とフランス軍の現地司令官アンリ・マルタンフランス語版との間で進駐についての協議が進められていたが、9月17日富永は西原とフランス軍司令部を訪問しマルタンと面談、仏印に進駐する兵力を当初予定の5,000人程度から1個師団の25,000人に増やし、進駐する飛行場も3カ所から5カ所に増やすとする富永の越権行為による独断での提示を行った[17]。マルタンは富永の条件提示に難色を示し、その場では結論を出せずに一旦持ち帰り18日に回答してきたが、その内容は飛行場の進駐5カ所など一部は受諾したものの、25,000人の進駐は断固拒否など、富永の条件とは大きな相違があったが、西原は富永に判断を仰ぐこと無く、陸軍中央に協定内容を打診、参謀本部はマルタンの回答を承諾し、9月22日に 西原・マルタン協定が締結されたが、富永の計画によって兵力増強され仏印進駐の準備をしていた第5師団の進撃開始6時間前の協定締結であった[18]

富永は自分が提示した条件通りの協定締結とならなかったことに憤慨し、西原と参謀本部にかみつくような電文を打電しているが、同時に進撃直前の第5師団に対して進撃中止の指示を行うことはなかった。一方で、現地軍である南支那方面軍も、富永からの申し渡しによって、既に準備が進んでいる第5師団の進撃開始を止めようという意志はなく、参謀本部から「陸路進駐中止」との電文が入ったが、正式な大本営陸軍部命令(大陸命)ではないとして、積極的な進撃中止の動きをとらず、第5師団師団長中村も西原からの「協定成立」の通報を無視し9月23日の未明に進撃を開始した[19]。師団主力はドンダン要塞の攻略を開始したが、フランス軍も激しく抵抗したため激戦となった。第5師団の無断越境の報告を受けた参謀本部の沢田茂参謀次長は深夜3時に慌てて進撃停止の大陸命を出したが、既に激戦が開始されており、現地軍の局地的交戦の自由は付与せざるを得ず[20]、第5師団はこの“局地”を拡大解釈しさらに進撃を行った。23日の11時にはドンダン要塞司令官のクールーペー中佐と士官のジロー少佐以下多数が戦死し、残った兵士は投降してドンダン要塞は日本軍に攻略された[21]。第5師団の順調な進撃を聞いた南支那方面軍は、第5師団を止めるどころか「中村兵団の行動に深甚なる敬意を表す」などと称賛する電文を打電し、「方面軍としては1度交戦した以上は、背進となるような命令は絶対に避け、フランス軍に一撃を加えねばならないと思っていた」と停戦命令を出すことをしなかった。この後、第5師団はメヌラ少将率いる要衝ランソンも占領した[22]

富永自身がこの武力進駐を直接指揮したわけではないが、西原とマルタンが協定を結んで平穏に進めることもできた進駐に不満を抱き、武力進駐を煽るような行動をとったため、南支那方面軍や第5師団の独断越境をまねくこととなってしまった。こののち、海路からも武力進駐を進めたい現地の陸軍と、事件不拡大方針の海軍の意見が相違して対立することとなった[23]。富永は9月25日には東京に帰り、報告のために参謀次長室を訪れたが、そこには次長の沢田と神田正種総務部長が待ち構えており、沢田が「第一部長を辞めてもらう。君の仕事は僕がやる」と富永の更迭を言い渡した。この処分に富永は参謀飾緒を引きちぎって怒りを露わにしたという[24]。富永らによってせっかく平和裏に進めていた仏印進駐を武力進駐にされてしまった西原は、陸海軍次官と次長宛てに『統帥乱レテ信ヲ中外ニ失ウ』の電文を発している[25]。参謀本部第1部長更迭後は一旦東部軍司令部付の閑職に回された。

1940年12月に陸軍公主嶺学校の戦車教導隊を分離独立させて開校した公主嶺陸軍戦車学校長に就任。

ノモンハン事件でのソ連軍戦車部隊による敗北や、ナチスドイツ機甲師団を存分に活用した電撃戦を目の当たりにした日本軍は、機甲兵力の強化とそのための戦車士官の育成をはかることとしたが、演習には手狭となっていた千葉陸軍戦車学校では教育に限界があったため、広大な演習地を確保できる満州に新たな戦車学校を設立することとし、その初代校長として陸軍中央とのパイプが強い富永が就任したものであった[26]。本学はのちにより広大な演習地が確保できる四平市に移転し四平陸軍戦車学校となったが、富永の尽力もあって教育環境は非常に充実しており、内地では訓練用として戦車兵50名に1輛の戦車しかなかったが、本学では4名あたりに1輛の当時の日本陸軍の主力戦車である九七式中戦車が準備されていた。また、学校の敷地は100万坪以上あり、その中にペーチカで完全暖房された赤煉瓦作りの2階建ての校舎があった[27]。四平陸軍戦車学校は日本の戦車士官教育の中心的存在となり、富永の後任の校長星野利元少将、名倉栞少将は新設された戦車師団の師団長となっている。名倉の下で教官を務め、校長代理ともなった池田末男大佐は、占守島の戦い戦車第11連隊を率いて奮戦し「戦車隊の神様」などとも呼ばれた。また、学徒動員で陸軍予備士官となった作家の司馬遼太郎、作家の石濱恒夫、劇作家の山田隆之、作曲家の吉田矢健治も本学の卒業生である[28]

陸軍省人事局長・陸軍次官編集

 
陸軍中将に昇進した頃の富永

1941年(昭和16年)4月、陸軍大臣であった東條が、陸軍中央に自分の腹心を集め、富永を陸軍省人事局長として中央に復帰させた。富永は陸軍省兵務局長に任命された田中隆吉と共に東條を支えて、人事権を駆使して陸軍省を東條人脈で埋めていった[29]。同年11月、陸軍中将に昇進。12月8日に太平洋戦争開戦。

1942年(昭和17年)1月今村均中将率いる第16軍オランダ領東インドに進撃し(蘭印作戦)、わずか2ヶ月でオランダ領東インドは日本軍が占領したが、占領後の統治について司令官の今村は、他の占領地とは異なり、インドネシア独立運動の指導者、スカルノハッタら政治犯を解放して支援したり、現地民を官吏として採用したり、入植していたオランダ人に対しても敵対しない限りは生活の自由を与えるなど寛容な軍政を行った。シンガポール華僑粛清事件など力による統治で日本軍の威重を誇示するといった占領地の統治方針が評価されるなか、今村の姿勢は陸軍中央では弱腰という批判もあり、状況調査のため富永は軍務局長の武藤章少将と一緒にジャワ島を訪れて今村と面談した。武藤は今村に「シンガポール同様、強圧政策の必要」を説いたが、今村は日本軍の「占領地統治要綱」に定めてある「公正な威徳で民衆を悦服させ、軍需資源施設の破壊復旧する」という規定に則っていると反論し、激しい議論が交わされた。武藤との議論が平行線となった今村は富永に「昨年、大臣の名を以て全陸軍に布告された『戦陣訓』は、ご承知のように私が主宰して起案したものです。それに反するものに屈することは、私の良心の堪えられるところではありません」「ここに同席の富永人事局長は、大臣に上申の上、改正された『占領地統治要綱』を指令される前に、私の免職を計らっていただきます。結論は一つです。新要綱の発令を見るまでは、私のジャワ軍政方針は決して変えません」と富永に自分の更迭を要求した。今村は「戦陣訓」に定められた「服するは撃たず、従うは慈しむの徳に欠くるあらば、未だ以て全しとは言い難し」「皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし」という条項を絶対に遵守するという強い意志を示したものであった。その後、オランダ領東インド各地を視察した武藤は「今村軍の軍政方針は、中央の意図に反している。もっと強圧主義でやるべきだ」と意見を変えなかったが、今村に更迭を要求された富永は今村を更迭することはしなかった。その後も寛容な軍政で今村は成果をあげたため、東條は富永らの調査結果を踏まえて、1942年10月に「ジャワ軍政には、改変を加うる要なし。現在の方針にて進むを可とす」と打電して今村の方針を正式に承認している。強圧的な軍政をするように求めていた武藤は、そののち近衛師団長となってスマトラ島に着任したが、そこで今村の寛容な軍政による成果を目の当たりにして、今村の方針の正しさを認識しかつての非礼を詫びている[30]

富永が人事局長のとき、参謀本部総務部長であった額田坦少将に対して人事についての指導を行い、額田は大いに啓蒙を受けたと述べている。とくに額田が強く記憶していたのは、ガダルカナル島の戦いにおける辻中佐の扱いを富永と額田が協議したときのことで、辻はノモンハン事件で種々の問題をおこしたときと同様に、ガダルカナル島でも参謀本部作戦課作戦班長であるにも関わらず、大本営派遣参謀として自ら前線に赴き重傷を負って、参謀総長に報告を終えるやその場で昏倒したなどという話が伝えられていた。富永と額田には辻の問題ある言動の情報が入ってきており、「優秀かつ敢為ではあるが、作戦課の勤務は適当ではなかろう」という意見で一致し、体調回復後は参謀本部作戦課に戻っていた辻を更迭して陸軍大学校教官に異動させている。のちに額田は日本陸軍最後の人事局長となった[31]

1943年(昭和18年)3月、東條英機陸軍大臣のもと、陸軍次官となり人事局長事務取扱を兼任する。

陸軍次官と人事局長を兼任した富永は東條のために暗躍した。特に、東條がトラック島空襲など、戦局の悪化に歯止めがかからないことから、強力な戦争指導のため、陸軍大臣と陸軍参謀総長を兼任し、軍の統帥と軍政両方の指揮をとることを決意したときには、まず杉山元参謀総長に勇退をせまったのが富永であった。1944年(昭和19年)2月19日午後、富永は参謀総長室に入るなり杉山に「戦局が苛烈の度をくわえてきたので、東條大臣としてはこの際、統帥と政務を緊密にし、かつ事を簡易迅速に運ぶために参謀長を陸軍大臣の自分が兼任したいと言われている」と切り出すと[32]、普段は万事鷹揚と言われていた温和な杉山が不快感をあらわにして、「全く同意はできない。由来統帥と軍政とはあくまで分離した上で双方切磋琢磨してゆくのが常道であって、これは明治の建軍以来わが皇軍の伝統である」と富永を諄諄と説いて反対している。それでも富永は諦めずに何度も杉山の元を訪れ、「いま1度ご再考を願えますまいか」「役目がら大臣の意志を伝えているに過ぎぬ私に対してのみ、そのようにきつく言われても困る。この上は三長官会議を開いて直接大臣と話し合っていただきたい」と杉山を三長官会議に出席させ、直接東條と議論させることに成功している[33]

三長官会議には富永も司会として出席し、会議の趣旨説明を行うなど会議の進行を取り仕切っている。会議の席では東條と杉山が激しく議論を交わした。杉山はスターリングラードの戦いで敗北したナチス・ドイツを例に挙げて、「近くではドイツの失敗がよき見本である。スターリングラードなど飛ばして早くコーカサスへ出て油田地帯を占領しようという統帥部の意見をアドルフ・ヒトラー総統はとりあげることをしなかった。スターリングラードにこだわって30余万という厖大な兵力をみすみす自滅させる結果に終わっている」と権力の集中による判断の誤りを危惧する意見を述べると、東條は、「ヒトラー総統は一兵卒出身。一緒にされては困る。私は帝国陸軍大学卒業の軍事の専門家であり、かつ陸軍大将である。首相を拝命し以来政務も遅滞無きよう遂行してきたつもりであるが、その間、一陸軍大将として十分軍部のことは考慮してきたつもりである。そういう点は心配ない」と反論している[34]。この後も激論が交わされたが、東條は事前に手を回して昭和天皇や木戸幸一内大臣の了承も取り付けており、結局杉山が折れて、東條は行政権の責任者である首相、陸軍軍政の長である陸軍大臣軍令の長である参謀総長の三職を兼任し、空前の権力を手にすることになった[35]。しかし、この強引な東條のやり方が反感を増幅させ、東条内閣倒閣運動を活発化させて、のちに富永の運命も変えていくこととなる。

東條の右腕として辣腕を振るう以外にも、部下からの献策を積極的に取り上げて様々な施策を進めている。のちに宮城事件の首謀者の一人となり、阿南惟幾陸軍大臣の自決にも立ち会った陸軍省軍事課井田正孝少佐は、陸軍と海軍が対立して戦争遂行に支障をきたしていることを問題視し、「陸海軍一体化」すべきとの持論を持っていた。本来であれば直の上官である課長等に上申すべきであるところを、井田は富永の自宅を訪問し、直接の上官を飛び越して陸軍次官の富永に「陸海軍一体化」の持論を上申している。井田は富永を怖い人物と思い込んでおり、恐る恐る「両軍の一体化は東條閣下から陛下に申し上げ、実現に努力すべき」「陸海軍は陛下の軍隊であり、陛下が反対なさるわけはない。もし東條閣下にそれができないというのなら、辞職すべきである」と進言した。富永は井田の思い切った進言に怒ることもなく「お前の言う通りだ、来週の大本営の幹部会合で一席ぶて」と井田の案を採用している。井田は富永の指示通り大本営の幹部を目の前にして持論を説明し、その後に富永が「井田少佐の意見に全く同感だから諸君も努力するように」と「陸海軍一体化」を具体的に検討するよう指示している[36]。「陸海軍一体化」は東條内閣のもとでは実現までは至らず、のちの鈴木貫太郎内閣組閣時に、陸軍が阿南を陸軍大臣に出す条件として首相の鈴木貫太郎に提示され、鈴木も実現に向けて努力するよう約束したが、結局、米内光政海軍大臣など海軍の反対にあって終戦までに実現に至らなかった[37]

井田の献策は続き、1944年初頭、戦況の悪化によって東京へのアメリカ軍爆撃機による空襲も現実味を帯びてきたことから、大本営を八王子市方面に移転させるべきといった建言書を書いて、再び富永に直接持って行った。富永は再度の越権行為に怒ることもなく、建言書を手に、八王子は東京中枢に近く手ごろな山も多いので地下施設なども作りやすいとの井田の補足説明を大きく頷きながら聞いたのちに「考えておこう」と検討を約束している[38]。富永は井田の案を時間をかけて綿密に検討し、1944年5月に井田を陸軍次官室に呼ぶと「君の案を検討してみたが、八王子ではどうもせまい、日本全体という見地でみると、信州あたりが適当と思う」と言って井田に最適地の探索を命じた。富永はこれを極秘の特命としたので、こののち井田は富永からの直接の指示で行動することとなり、土木建築に詳しい技術士官2人だけに協力を要請して候補地を探し回り、長野県埴科郡松代町の松代盆地が最適地という結論に至って富永に報告している[39]。のちに松代大本営として大規模な工事が開始されて、本土決戦に向けて舞鶴山地下壕には昭和天皇宮内省の移転も計画されたが、実現する前に終戦となった[40]

1944年(昭和19年)7月9日、サイパンの戦いの敗北で、今まで押さえつけられていた反東條の動きが活発化した。富永は同じ東條の腹心であった陸軍省軍務局長の佐藤と共に、反東條の重臣岡田啓介近衛文麿らに「東條を倒せば敗戦につながり、そうすれば敗戦の責任はあげてあなたがたにある」などと恫喝し倒閣工作を止めるよう釘を刺したが、この動きは全くの逆効果であり、重臣らの反東條の感情を煽ることになってしまった[41]。東條は内閣改造で乗り切ろうとしたが、東條の腹心であったはずの無任所国務大臣の岸信介の造反もあって暗礁にのりあげる。富永は佐藤らと東條のもとに集まると、「国賊どもを逮捕しろ」と重臣たちや岸を批判し、クーデターの案まで飛び出したが、もはや東條らに復活の目がないのは明らかであり、東條は7月18日に辞意を表明して東條内閣は総辞職、富永は後ろ盾を失うこととなった[42]

東條を追い出した後任の陸軍大臣杉山や梅津美治郎参謀総長は、後ろ盾を失った富永に東條派閥の後始末をやらせている。富永の前任の陸軍次官で、その後軍事参議官兵器行政本部長として東條を支えていた木村兵太郎を陸軍中央から外地に出すように求められた富永は、木村を出すのならばせめて方面軍司令官のポストと考えて、インパール作戦の失敗で責任論が浮上していたビルマ方面軍司令官河辺正三中将を更迭してその後任に木村を据えるという人事を杉山らに進言し了承を得た。しかし、河辺を更迭するのであれば、河辺を引きずってインパール作戦を推進した第15軍司令官牟田口廉也陸軍中将にも責任をとらせるのが当然と考えた富永は、牟田口の軍司令官罷免も同時に進言して了承を得ている[43]。富永の発案による河辺と牟田口更迭のあとも、ビルマ方面軍と第15軍の人事一新がはかられ、特に第15軍の主要幕僚で残ったのは後方参謀の高橋巌少佐ただひとりという徹底した人事処分となった[44]。同じ東條派であった木村を更迭した富永であったが、この直後には自らも陸軍中央を去ることとなった。

第4航空軍司令官編集

 
南方軍、第14方面軍、第4航空軍の司令官と参謀、前列左から2番目が富永

後ろ盾の東條が失脚して以来、陸軍次官と人事局長という権力を振りかざして陸軍省の反東條派の幕僚からは目の敵にされていた富永は、その去就が注目の的となっていたが[45]、自ら更迭した木村や牟田口と同日の1944年8月30日付で第4航空軍司令官に親補された。まったくの畑違いの航空軍司令官という人事は周囲を驚かせた。この人事が、陸軍大臣杉山から昭和天皇に内奏された際、昭和天皇は「富永は航空の事がわかっているのか」と下問されたが、杉山は「富永は参謀本部第一部長をやったことがあり、航空の編成などについてはよく知っています」と奉答している[46]

杉山は参謀総長解任時の富永の暗躍で受けた屈辱を忘れておらず、東條を失脚させたあとは富永の追放を目論んでおり、この人事は杉山の復讐という意味合いも強く[47]、富永自身も陸軍中央部から追い出されたと感じていたが、しかし、この人事は、単に東條色を薄めるというだけではなく[48]、陸軍中央が富永に期待して行った人事という一面もあり、参謀総長となった梅津美治郎大将は富永に下記を要望している[49]

  1. 今までの悪戦苦闘によって戦力・士気ともに低下し再編成中の第4航空軍を、富永の統率力によって士気高揚させて戦力強化をはかってほしい
  2. 皇国の運命を決する捷号作戦完遂のためには、単に現地の部隊指揮だけでは足らず、今までは不十分であった陸軍中央との調整や地上部隊との連携は不可欠であり、富永にはその推進力となってほしい
  3. 陸海軍との緊密な連携のためには、中央の要職に永年勤務しており、豊富な経験と見識を持つ富永は適材適所である。

昭和天皇にも疑問を呈されたような人事であったが、杉山は臆すること無く「名人事」と自画自賛していたという[50]。 航空には素人の富永を補佐するため、参謀長には航空畑で航空本部総務部長であった寺田済一少将が任じられた。1944年9月8日マニラに着任した富永は、「与えられた戦力で満足して戦闘し、兵力の増強を要請しない。幕僚統帥を絶対にやらぬ。徳義の統帥を行う。迅速に決断、即時実行」という方針で作戦をおこなうこととし、部下へは「信、真、情」の三点に要約した着任の訓示を行った[51]。杉山らの思惑通り、ニューギニアなどでの悪戦で軍記が乱れ、士気も低下していた第4航空軍は、富永の強力な統率力と強烈な個性によって士気の高揚が見られた[52]。しかし、82,905人にも及ぶ大所帯の第4航空軍で、航空は素人の富永が「幕僚統帥を絶対にやらぬ」として、幕僚に適切な権限委譲を行わず、何でも司令官である富永が決めようという方針は、のちに大きな混乱を招くことになった[53]

また、富永は具体的な作戦方針として

  1. 船舶の国家的重要性に鑑み、船団の対潜警戒、マニラ湾の防空重視
  2. 地上兵団との協力を重視
  3. 航空兵力の運用は好機一挙集中使用に徹し、逐次使用の消耗を厳に戒める

などを挙げていた[54]

1944年10月12日から開始された台湾沖航空戦で、富永の指揮下となった第4航空軍は、初のアメリカ海軍機動部隊への攻撃を経験した。10月13日と14日の出撃はアメリカ海軍機動部隊を発見できずに終わったが、15日にはアメリカ軍艦載機64機がフィリピンの日本軍飛行場に来襲し、迎撃した第4航空軍の戦闘機と激しい空戦を戦った。そののち、富永はアメリカ軍機動部隊への反撃を命じ、陸海軍混成で、アメリカ軍機動部隊への索敵攻撃を実施、第4航空軍も多数の戦闘機と爆撃機を出撃させ、空母1隻撃沈、2隻炎上、敵大型機20機撃墜の戦果を報告した[55]。一方、第4航空軍も出撃した28機が未帰還となり、17機が地上で撃破されるという大損害を被った[56]。台湾沖航空戦では、大本営が「轟撃沈空母6隻、空母の算大なるもの4隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻、巡洋艦または駆逐艦1隻、不詳1隻」などと戦果報告をおこなっていたが、富永ら第4航空軍ではアメリカ軍機動部隊は退避することなくかえって南下し、積極的な航空作戦を展開していることから鑑みても、戦果報告は過大であると判断していた[57]

レイテの戦い編集

 
レイテ島を目指して侵攻する連合軍の大艦隊

1944年10月17日にレイテ島に連合軍大艦隊接近との偵察機からの報告があった。台湾沖航空戦で大損害を被ったアメリカ軍艦隊が接近する台風を避けて避難しているに過ぎないとの楽観論を述べる参謀もいたが、富永は大本営の戦果報道は過大であると疑っていたこともあってこれを一蹴、これが連合軍により本格的な上陸作戦と看破し、即座に指揮下の精鋭第2飛行師団に、日本陸軍が航空要塞として整備してきたレイテ島西のネグロス島に進出し、迎撃準備するように命じた[58]。実際にこの大艦隊は富永の判断通り、レイテ島上陸を目指してダグラス・マッカーサー大将が直卒する大艦隊であったが、迎撃を命じられた第2飛行師団は、航空畑一筋で歩んできた師団長山瀬昌雄中将が、15日のアメリカ軍機動部隊の空襲で重傷を負い、急遽、騎兵畑で、富永と同様に航空は素人の木下勇中将が後任の師団長となっており、手際の悪さから準備に数日を要してしまい、折角の富永の好判断を活かすことができず[59]、第4航空軍は手持ちのわずか50機で、ダバオ誤報事件で大損害を被っていた海軍第一航空艦隊の30機と共に連合軍の大艦隊を迎え撃つことになり、連合軍に易々とレイテ島上陸を許してしまった[60]。このとき、第一航空艦隊司令長官の大西瀧治郎中将は、少数の手持ち機で戦果を挙げるために神風特別攻撃隊を編成している[61]

捷一号作戦が発令され、連合艦隊が総力を挙げてレイテ湾を目指していた10月23日夕刻にようやく第4航空軍は200機の作戦機をネグロス島付近に集結させた。富永は着任時に立てた方針通り、戦力の逐次投入の愚は犯さず、戦力を集中して陸軍未曾有の一大航空攻勢を10月24日と25日の2日間に渡って行った。富永は「2日目までに100隻撃沈を目標とする。このため1機1船必殺必沈に徹す」という作戦計画を掲げ、攻撃目標を「敵輸送艦を目標とし、敵の後続遮断を狙いとする」と命じたが[62]、しかし現実は、作戦機の稼働率が非常に低く、なかには1個戦隊24機の中で、稼働機は1機という戦隊もあった[63]。そのため、出撃航空隊間の連携もうまくいかず、陸軍が研究と訓練を重ねてきた[64]、期待の跳飛爆撃部隊飛行第3戦隊の「九九式双発軽爆撃機」22機が出撃したが[65]、護衛戦闘機隊と連携ができず、上陸支援のアメリカ軍護衛空母群から出撃した「F4Fワイルドキャット」隊の迎撃により[66]、途中で引き返した4機を除いて18機全機が撃墜され、戦隊長の木村修一中佐も戦死するなど、戦果も挙がらないまま損失だけが増えていく形となった[67]

結局、3日間に渡る航空大攻勢で第4航空軍は、述べ474機を出撃させて未帰還80機、炎上36機、大中破28機、合計144機という甚大な損害を被りながら、挙げた戦果は、駆逐艦などの小型艦11隻、輸送艦2隻、上陸用舟艇2隻撃沈と37隻撃破、敵機撃墜破70機と目標を大幅に下回ることとなり富永を失望させた。しかし、この戦果も作戦機の過大報告によるものであり[68]、アメリカ軍の公式記録によれば、この3日間に通常航空攻撃で沈没した艦船は、海軍の艦上爆撃機彗星が沈めた軽空母プリンストンの1隻のみであった[69]

連合軍はレイテ島に上陸するや、確保したばかりのタクロバン飛行場第5空軍を進出させて、強力な航空支援体制を確立しようとしていた[70]。富永は、連合軍が強力な航空支援体制を構築する前に、飛行場を叩くべく、タクロバン飛行場攻撃を命じた。飛行場攻撃を命じられた第16飛行団がタクロバン飛行場を偵察すると、昨日まではなかったアメリカ軍戦闘機がずらっと並んでいるのを発見した。攻撃の好機と考えた第16飛行団長進藤常右衛門大佐は、新鋭戦闘機四式戦闘機「疾風」で編成された飛行第52戦隊の11機にタ弾を搭載させて出撃を命じた。攻撃は成功して疾風は4機を失ったが、地上のアメリカ軍機約100機を撃破し[71]、攻撃成功の報告を聞いた富永は満面の笑みで第52戦隊に「よくやった。偵察機が撮ってきた戦果の写真はいずれそちらに送る」と称賛の電話をかけている[72]

富永は人心掌握術として、特に搭乗員を大げさに称賛したり、会食に誘ったり、肩を抱いたり握手したりとさかんにスキンシップをおこなった[73]。このことを煙たがる者もいたが、最高司令官からの称賛を素直に喜ぶ者も多く、搭乗員の中では富永の印象は悪いものではなく人望もあったという[74]。富永が将兵からの人望が厚かった一因としては、戦場での勇敢さもあげられている。敵機による空襲のさいには自ら高射砲陣地に乗り込んで、陣頭指揮をとったりしていたが[75][76]、激しい空襲のなかで、折り敷く(膝をつく)姿勢をとることはあっても、伏せることはまったくなかったという。そして、空襲が終わるとすぐに自動車に飛び乗って、被害状況を直接視察していた。空戦や高射砲射撃によって敵機を撃墜したなどの活躍を自ら目にしたり、聞きつけたりすると、富永自ら将兵を呼んで特進を申し渡したりすることもあった。10月末に多号作戦で、飛行第200戦隊(通称「皇戦隊」)の吉良勝秋曹長は、僚機の7機の四式戦闘機「疾風」と共に輸送船団を護衛していたが、途中で酸素ボンベが破裂してしまったため高度を下げると、そこで船団を攻撃に来た「P-38」10数機と鉢合わせになり、吉良機は単機で10数機の「P-38」から船団を護ることとなった。しかし、経験豊富な吉良は、「P-38」が高空では優速で手強いが、低空では旋回性能が劣るために戦いやすいことを熟知しており、低空の空戦に持ち込んで2機を返り討ちにして、見事に船団を護りきった。富永は輸送船団に乗船していた部隊からこの報告を聞くや、すぐに吉良を司令部に呼んで自ら吉良と面談し「船団前で、敵10数機と単機よく戦い、2機を撃墜、友軍の士気を高めること大であった。吉良、よくやった。只今より准尉に進級させる」と熱く語りかけると、すぐさま青鉛筆で「赫々たる武勲を賞し、特に准尉に進級せしむ」という特進状を書いた。富永から直接称賛された吉良は非常に栄誉と感じたという[77]。このように、富永は将兵から慕われており、搭乗員のなかには富永と握手をしただけで感涙にむせぶ者もいた[78]

また、富永は、第4航空軍司令拝命時に陸軍中央から期待されていたとおり、地上軍との連携を重視していた。そのため、第2飛行師団飛行第75戦隊の九九式双軽爆撃機の一部を通常作戦から外して、レイテ島オルモック付近に展開する地上部隊に対する補給物資の空輸に使用していた。富永はオルモック山中を彷徨っている地上軍の士気を鼓舞するためにも、物資の空輸と友軍陣地上空での空中投下は絶対に必要とこの空輸作戦に強い拘りを持っていた。そのため、この任務についた第75戦隊には気を使っており、戦隊長の土井勤少佐が作戦の上申に出頭したときには、上機嫌で迎えて、戦隊の搭乗員への贈り物として清酒1ダースを贈り、その後自ら詳細な作戦図を土井に示して、物資の投下点などを説明したという[79]。この空輸作戦は第4航空軍直轄として行ったため、九九式双軽爆撃機は第2飛行師団の指揮下を離れ、師団の攻撃力が低下しており、師団長の木下は、一時的にでも九九式双軽爆撃機を師団の指揮下に戻して戦闘任務につかせたいと富永に上申し続けたが、富永は苦境にある地上部隊のことを慮り、空地協同の同義を重視して、木下の上申を却下した[80]。しかし、1944年11月24日から再度第4航空軍残存兵力をもって第二次総攻撃を行うこととなったので、富永は、10数機による空輸を完了させたのち、九九式双軽爆撃機の師団復帰を認めた。しかし、功を焦る木下は、富永の命令を守らず、空輸任務をおこなうことなく九九式双軽爆撃機をタクロバン飛行場攻撃に投入し、1機が未帰還となった。このことを、現地のバコロド基地に進出していた参謀長の寺田から聞いた富永は激怒し、命令違反を犯したとして即座に木下の師団長としての職務を停止し、参謀長の寺田にそのまま師団の指揮をとるよう命じた。富永は木下を前線のネグロス島からマニラに呼びつけると、申し開きを聞くこと無く憲兵に拘束させて、「貴様は解任だ」と言い放ったという[81]。本来、天皇による親補職である師団長は、軍司令官といえども職務の停止や解任を行うことができなかったが、この騒ぎを聞きつけた南方軍は、これ以上の混乱を避けるために、富永の意向通り、木下の更迭と寺田の師団長就任を命じた。寺田の後任の参謀長には隈部正美少将が補任された[82]。この人事は、元は木下の命令違反と富永の地上部隊への配慮が発端ではあるが、感情に走って、戦況を顧みない現地での処断は私刑に等しいものであり、この後も富永の感情のブレーキが効かない采配が続くことになっていく[83]

陸軍特別攻撃隊編集

 
マニラに招かれた万朶隊隊員、酒を注いでいるのが富永、酒を注がれているのが空襲で負傷し頭に包帯を巻いてる石渡俊行軍曹

陸軍が激しい航空消耗戦を戦っている頃、海軍は関行男大尉率いる初の神風特別攻撃隊が大戦果を挙げたため、第一航空艦隊の大西は特攻には否定的であった第二航空艦隊司令長官福留繁中将を説き伏せて、特攻にのめり込んでいた[84]。海軍が連日、特攻による大戦果を発表し、NHKや新聞各社は、連日新聞紙上やラジオ放送などで、大本営発表の華々しい戦果報道や特攻隊員の遺言の録音放送など一大特攻キャンペーンを繰り広げた[85]。国民はその過大戦果に熱狂し、新聞・雑誌は売り上げを伸ばすために争うように特攻の「大戦果」や「美談」を取り上げ続けた[86]。華々しい活躍をしていると報じられる海軍に対して、陸軍の戦果報道は見劣りしており、参謀本部参謀の田中耕二少佐は、「海軍の航空隊の戦果は、誠に華々しいものであります。母艦をたくさん沈めているのに、陸軍航空は何もしてないじゃないか。しょっちゅう叱られますので、私はまったく、参謀本部に来てから2年間、毎日針のの上におる思いがしているわけであります」と当時を振り返っている[87]

陸軍による航空特攻の検討は海軍より早く、陸軍初の航空特別攻撃隊万朶隊富嶽隊の編成命令も1944年10月初めに行われているが、爆撃機を特攻専用機に改修したり、編成が海軍のように現地航空隊ではなく、日本内地の鉾田教導飛行師団浜松教導飛行師団で行われていたので、前線に到着するまでに時間がかかり、海軍の特攻に遅れをとることとなった。10月末に両隊がフィリピンに到着すると聞いた富永は喜んで、11月1日にはネグロス島で富嶽隊を迎えて、型どおりの訓示もそこそこに、富永自ら富嶽隊の隊員と冷酒を酌み交わして歓待した[88]。しかし、連日海軍の特攻による華々しい戦果が伝えられる中、富永はなぜか、万朶隊と富嶽隊になかなか出撃を命じることはなく、周囲の第4航空軍幕僚らがやきもきしているなかで、富嶽隊隊長の西尾常三郎少佐と万朶隊隊長の岩本益臣大尉は連日黙々と隊員と訓練に挺身していた[89][90]。当時のフィリピンでは神風特別攻撃隊の成功により、“神風特攻ブーム”が巻き起こっており、第4航空軍の幕僚たちの間では海軍にしてやられたという空気が流れていたが[91]、富永はそれに安易に流されることはなく攻撃の機会をうかがっており、まだ特攻攻撃の機は熟していないという判断によって[92]、引き続き、制空権確保のためのタクロバン飛行場攻撃などの通常作戦を継続させて、なかでも歴戦の飛行第75戦隊の九九式双軽爆撃機隊は、地上で150機の敵機を爆砕炎上させたという大戦果を報告している[93]

富永は、隊長の岩本の下で連日猛訓練を続ける万朶隊の労をねぎらおうと「ネグロス島から帰ってくるので申告(到着の挨拶)をするように」と命じた。申告というのは建前で、まずは万朶隊の岩本ら士官を呼んで宴席を設けて、酒を酌み交わそうという意図で出された命令であった[94]。連合軍の空襲が激化するなか、万朶隊の身を案じた第4航空軍司令部は「飛行機は危ないから車で来るように」と指示していたが[95]、11月6日、隊長の岩本は司令部の忠告を聞くことも無く、将校4名を乗せると九九式双発軽爆撃機を操縦して、兵舎のあるリパからマニラの第4航空軍司令部に向かった[96]。岩本機は離陸後まもなくF6Fヘルキャットに見つかって撃墜され、岩本以下万朶隊全航空士官が戦死してしまった[97]。岩本らが指示を破って航空機で戦死したという報告を聞いた第4航空軍司令部は「あれほど自動車でこいと指示しておいたのに」と全員落胆したという[98]。富永は岩本機を撃墜したF6Fヘルキャットの母艦を叩くため、出撃の機会をうかがっていた富嶽隊に出撃を命じた。翌11月7日の未明に富嶽隊の5機は岩本らの仇を討つため出撃したが、敵艦隊を発見できず全機が引き返した。しかし、一番遅れて帰ってきた山本達夫中尉率いる3番機が、先に帰還した4機のカムフラージュが巧みすぎて帰還していたことに気がつかずに、再度東南方に向かって出撃してそのまま帰ってこなかった[99]

陸軍初めての特攻出撃は失敗に終わったが、富永は富嶽隊を責めることはなく、山本機を失ない意気消沈している富嶽隊と、同じく隊長岩本らを失って意気消沈している万朶隊の両隊を激励するため、11月10日に両隊全隊員をマニラでの宴会に招いた[100]。マニラでは富永以下第4航空軍の司令部幕僚全員が歓待し、その席で富永は自ら隊員のひとりひとりに酒を酌して回りながら「とにかく注意してもらいたいのは、早まって犬死にをしてくれるな」「目標が見つかるまでは何度でも引き返してかまわない」「それまでは身体を大事にしてもらいたい」と声をかけた。体当たりをせずに爆弾を投下して帰還しようと密かに考えていた万朶隊佐々木友次伍長は、富永の「何度でも引き返してかまわない」という言葉に心をひかれた。富永はさらに「最後の1機には、この富永が乗って体当たりする決心である。安んじて大任を果たしていただきたい」という言葉をかけたが、それを聞いた佐々木は「これほど温情と勇気がある軍司令官なら、自分の決死の計画も理解してもらえる」と生還するという決意を強くした[101]。富永は最後に「御国の柱たらんと生れ来て君らの姿今ぞ輝く」という詩を隊員に贈り[102]、隊員はマニラ市内の偕行社ホテルに部屋を用意されて翌日に基地に帰った[103]

 
出撃する万朶隊隊員と握手をする富永

万朶隊の出撃は、快晴の空が広がる11月12日となった。午前4時に富永は隊員ひとりひとりと握手をかわすと「諸子は比類なき忠節心と勇気とを持つ陛下の兵士である。諸子は万朶隊の隊員であり、神国日本の精神と正義をまさに発揮しようとしているのである」「一命は鴻毛より軽く、諸子が託されている敵艦撃沈の任務は富士山より重い」との訓示を行った[104]。万朶隊は故障で引き返した1機を除き3機がレイテ湾に突入、護衛機戦闘機から「残る3機はP-38に迎撃されつつも輸送船に体当たりした」[105]「もうもうたる黒煙を吹き沈没寸前の大型艦2隻と炎上中の小型船1隻を確認」という戦果報告がなされ[106]、第4航空軍はこの攻撃で戦艦1隻、輸送艦1を撃沈したと戦果判定し、南方軍司令官寺内寿一大将より戦死した4名への感状が授与がされることとなった[107]。さらに、富永は護衛した戦闘機隊にも気を配り、万朶隊と一緒に敵艦に突入した渡辺史郎伍長を含めた11名の戦闘機搭乗員に、富永自ら賞詞を授けている[108]

続いて富嶽隊も出撃し、以後続々と特攻隊を出撃させた。特攻隊出撃前の訓示では「諸君はすでにである。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」と訓示していた[109]。参謀長の隈部によれば、レイテ作戦時の富永はすでに戦局が容易ではないことを予察しており、最後には搭乗員出身の松前高級参謀が操縦する特攻機でレイテに突入することを決意していたという[110]。参謀や司令部幕僚らには、殴りつけたり厳しい態度で接して疎まれていた富永であったが、現場の特攻隊員はよく可愛がっており、酒宴や会食の席を設けて、冗談を交えた声かけをし、特攻機の出撃時には頻繁に見送りに来て、目元に慈父のような温かみを滲ませながら、ひとりひとりと固い握手をかわし[111]、特攻機が離陸していくときには、軍刀を振り回しながら「がんばれ、がんばれ」と大声を張り上げていた[112]。これは、富永と同じくフィリピンで特攻を指揮した海軍の大西とは対照的で、大西は特攻隊員の心構えの厳粛化をはかるためとして、特攻隊員を招いての宴会は厳禁とし、特別扱いもしないように指示するなど一線を引いていた[113]。陸軍の特攻隊員は、自分たちに目をかけてくれている富永をよく慕い厚い信頼を寄せて[114]、出撃前には直接富永宛てに、有り金全部を国防献金として託した者も多かった[115]

特に、特攻を命じられながら、敵艦を通常攻撃し何度も帰還を繰り返していた佐々木友次伍長を気にかけており、佐々木が特攻出撃から帰投するたびに「おお、佐々木、よく帰ってきたな」「よくやった。これぞという目標をとらえるまでは、何度でも帰ってこい。はやまったりあせってはいかん」と親しげに声かけをし、「昼飯を一緒に食べようと思ったら、他に予定があるそうだ。せっかくだから、お土産を進呈しよう」と上機嫌で缶詰を手渡して佐々木を感激させているなど[116]、特攻出撃を命じられながら何度も帰ってくる佐々木を富永の裁量で許していた[117]。取材する報道班員に対しても「新聞記者諸君、佐々木は幽霊じゃからのう。そのつもりで話を聞いてくれ」などと笑顔で冗談を言っており、今まで富永に温情のある扱いを受けていると考えていた佐々木は、その冗談を自分に対する好意であったと感じていたという[118]。一方で、同じ陸軍航空隊の搭乗員のなかでは、佐々木に対して冷めた見方もあって、飛行第75戦隊の戦隊長土井勤少佐は、佐々木が帰還を繰り返しているという噂を耳にしたときに、死を賭して戦っている自分らに対して、佐々木のような自ら進んで死ぬという覚悟ができていない人間には、無理に死ねと言うことは困難であると感じたという[119]

陸軍搭乗員の精鋭を選抜し、機体もわざわざ特攻専用機に改修しながら、万朶隊と富嶽隊の挙げた戦果は陸軍中央と富永ら第4航空軍を失望させた。参謀本部参謀の田中は「明快な(戦果の)報告が電報されてこないんですね。それでこれはどうしちゃったんだろうというようなですね、せっかく改装をして、特別選り抜きの搭乗員をあてがって、何か寂しいような感じを持ちましたですね」と回想している[120]。陸軍中央は海軍が万朶隊と富嶽隊のような爆撃機ではなく、小回りの利く零式艦上戦闘機や艦上爆撃機彗星などの小型機による特攻で成果を挙げていることを知り、明野教導飛行師団一式戦闘機「隼」などの小型機を乗機とする特攻隊を編成し[121]、「八紘隊」と名付けてフィリピンに投入した。その後に八紘隊は、富永が自ら、様々な故事から、隊ごとに一宇隊靖国隊護国隊鉄心隊石腸隊と命名している[122]。後に八紘隊は、明野教導飛行師団・常陸教導飛行師団・下志津教導飛行師団・鉾田教導飛行師団などにより合計12隊まで編成され、富永は丹心隊、勤皇隊、一誠隊、殉義隊、皇魂隊、進襲隊まで命名した[123]。八紘隊各隊は「十神鷲十機よく十艦船を屠る」と称されたほど[124]、「特攻で艦船の撃沈は無理」などとして特攻に反対していた陸軍の一部[125]の懸念を払拭し、確実に戦果を挙げるようになった[126]

富永は大雨の日もずぶ濡れになることも厭わず特攻機を見送り続けた。やがて、特攻機を送り続ける心理的な負担は富永の精神を蝕んでいき、神経衰弱症の発症も疑われるようになり、不眠症にも苦しめられるようになったが[127]、それでも富永は連日出撃していく特攻隊員と目に涙を浮かべながら一人一人と握手し送り出していった。第4航空軍主計課の高橋秀治伍長は、富永が特攻隊員一人一人と握手をしながら、「しっかり頼みますぞ」「お前たちだけは出さんわい、わしの息子も、あとからかならずやるからな」と全員に向かって激励しているのを目撃している[128]。富永は第3船舶輸送司令官稲田正純中将などに「息子が特攻隊に加わっていることで、いささか申し訳できる気持ちである」と話していた[129]。富永の長男富永靖陸軍少尉は、慶應義塾大学卒業後に特別操縦見習士官1期生となり、フィリピンの戦いの際は加古川航空隊で訓練中であったが、のちに特攻に志願し、第58振武隊員として、沖縄戦最中の1945年5月25日、富永から貰った日章旗を携えて四式戦闘機「疾風」で出撃し戦死している[130]

空挺特攻作戦編集

 
出撃する薫空挺隊員を激励する富永

第4航空軍は、艦船に対する特攻のほかに、台湾高砂族出身者、いわゆる高砂義勇兵や、高千穂空挺部隊(挺進第3・第4連隊)を輸送機により、敵飛行場に降下させる空挺特攻作戦も行った[131]多号作戦がレイテ島から出撃する連合軍機によって妨害されており、富永は爆撃機や戦闘機による飛行場攻撃を繰り返していたが、連合軍機は弱体化するどころか強化される一方であり、航空機による飛行場攻撃に限界を感じて、空挺特攻作戦と地上軍の連携により飛行場を徹底的に叩く作戦を立案した。第14方面軍司令官山下奉文大将は、苦戦中のレイテ島で大規模な攻勢には消極的であったが、地上部隊の補給路を確立するためと熱く説く富永に対して地上軍が応えないわけにもいかず、また、レイテ島の飛行場の破壊は、フィリピンの防衛に有意義だとも考えて、富永の作戦を承認した[132]

攻撃目標はレイテ島内の飛行場群と決まり、まずは11月26日にブラウエン方面の飛行場の破壊工作に、ジャングルでの遊撃戦専門の特殊部隊として訓練されていた高砂義勇兵を主力とする薫空挺隊が投入されることとなり、隊長の中重夫中尉以下40名が飛行第208戦隊の零式輸送機4機に分乗して出撃した。輸送機が連合軍飛行場に強行着陸し、空挺特攻隊員が飛行場の破壊工作を行う計画であったが、1機も連合軍の飛行場に到達することはできず、4機のうち1機は故障で日本軍勢力下のバレンシア飛行場に不時着し、空挺隊員は第26師団に合流、残り3機の消息は不明で最初の空挺特攻作戦は失敗に終わった[133]

2回目の作戦はより大規模となり、ブラウエン北飛行場に204名、ブラウエン南飛行場に72名、サンパブロ飛行場に36名、ドラッグ飛行場に104名、タクロバン飛行場に44名の合計450名の空挺隊員を空挺降下させるか、輸送機が飛行場まで空挺隊員を輸送し胴体着陸して、降下した空挺特攻隊員が飛行場を制圧して地上航空機を撃破し、のちに地上部隊が進撃してきて、空挺特攻隊が制圧した飛行場を占領する計画であった[134]。第4航空軍による空挺作戦が「テ号作戦」、それに呼応する第14方面軍の地上作戦が「和号作戦」と名付けられた[135]。富永は「テ号作戦」に残存戦力の全力投入を決め、一式戦闘機「隼」30機に護衛された一〇〇式輸送機30機、九七式重爆撃機17機、その他の機体も含めると100機もの大編隊がレイテ島の各飛行場に向けて出撃した[136]。そして、輸送機に搭乗している空挺隊員は一〇〇式機関短銃を装備しているなど、日本軍としてはかなりの重装備の精鋭部隊であった[137]

12月6日に「テ号作戦」は決行され、各飛行場への空挺降下や強行着陸がはかられた。激しい対空砲火で次々と輸送機が撃墜され、うち、ドラッグとタクロバンに突入した14機は全機未帰還となっている。偵察機による報告では両飛行場への突入は成功したとのことであったが[138]、アメリカ軍の記録では、タクロバンでは2機の日本軍輸送機が強行着陸をはかったが、1機が撃墜され、もう1機は着陸直前に地上に激突した[139]。地上に激突した日本軍輸送機(一〇〇式重爆撃機)に搭乗していた8名の空挺隊員と3名の搭乗員は全員戦死したが、輸送機激突で生じた火災が滑走路上のアメリカ軍機に引火し、6機が爆発炎上し5機が損傷した[140]。ドラッグ近辺では第8軍司令官のロバート・アイケルバーガー中将が、小雨のなかポンチョを着て野外で上映されている映画を見ていたときに、敵味方不明の輸送機がその上空を旋回し出した。アイケルバーガーらが訝しがって空を見上げていると、その後に飛んできたアメリカ軍戦闘機に追い払われ、その機が敵機であったことをアイケルバーガーらは初めて認識し肝を冷やしたが、このように富永立案の奇襲は成功し、レイテ島攻略部隊の連合軍最高指揮官があわや戦死という状況にまで至らさせていた[141]。ドラッグ飛行場では第11空挺師団英語版の師団長ジョセフ・スウィング英語版少将が下着姿でくつろいでいたが、そこに1機の日本軍輸送機が強行着陸したちまち激戦が始まった。日本軍の空挺兵は混乱を増長させるため、ベルをならしたり笛や口笛を吹いたりと大きい音を出したが、アメリカ軍は戦闘員の他に庶務係や炊事兵まで戦闘に参加して、多くの死傷者を出しながらも降下してきた日本軍空挺部隊を殲滅した[142]

次いで、ブラウエン北飛行場、ブラウエン南飛行場、サンパブロ飛行場に合計26機の輸送機が突入したが、降下に成功したのはブラウエン北飛行場とサンパブロ飛行場であった。突入した輸送機のうち20機は生還できたが、全機が激しい対空砲火で多数被弾していた[143]。ブラウエン北飛行場付近に降下した第3挺進連隊白井連隊長率いる60名の部隊が飛行場に突入すると、駐留していたアメリカ軍兵士は混乱して武器を置いたまま逃走したので、空挺部隊は指揮所を占領して、飛行場設備を破壊し[144]、アメリカ軍の兵器多数を鹵獲した[145]。サンパブロ飛行場にはパイロットを含めて34名のアメリカ兵がいたが、飛行場の裏手の森林地帯に降下した空挺隊員は、手持ちの小火器で激しく抵抗してきたアメリカ兵を巧みな戦闘で圧倒、アメリカ兵は戦死者を残して飛行場から退却したが、生き残っていたのはわずか12名であった[146]。日本軍はアメリカ軍の抵抗を制して両飛行場を占領し、飛行場設備と、C-45 エクスペディター1機、L-5 センチネル5機、その他14機の航空機を地上で撃破した[147]。戦果はただちに富永に無電で報告された。自らが主導した作戦は成功したが、各基地に最低100機の航空機があると見積もっていたので、予想外の少ない戦果に富永は不満を抱いている[148]。実は、ブラウエンの飛行場群は平年より多いレイテ島の雨で泥濘となり、使用しにくかったため、実質放棄されて、比較的地盤が安定している海岸付近に新しい飛行場の建設が進んでおり、連合軍は、ブラウエン方面には殆ど作戦機を置いていなかった。日本軍はこのことに気がつかず、実効の少ない作戦を強行した形となった[149]。それでも空挺部隊は戦車を伴って逆襲してきたアメリカ軍第11空挺師団と激しく戦い、数日間に渡って両飛行場を確保するという目覚ましい戦績を残すが、第14方面軍の「和号作戦」はこの直後に開始された連合軍によるオルモック湾への上陸作戦で中止を余儀なくされ、富永が熱意をもって開始した攻勢は、一定の成果はあったものの失敗に終わった[150]。この空挺作戦で九死に一生を得たアイケルバーガーは戦後も長い間、このときの体験を鮮明に記憶しており、「作戦は軍事的重要性は持たなかったが、しかし、よりよい幸運に恵まれていたら、あの攻撃は軍事的重要性を持ったかもしれなかった」と富永の作戦を評している[151]

フィリピン航空決戦の破綻編集

 
特攻機を見送る第4航空軍司令部幕僚、軍刀を振りかざしているのが富永

富永が「テ号作戦」を進めていた頃、連合軍の輸送艦隊が、「和号作戦」遂行中の日本軍の背後となるレイテ島西岸オルモックに迫っていた。オルモックは多号作戦による、日本軍の補給物資や増援部隊を揚陸する拠点ともなっており、オルモックの失陥は、レイテ島での作戦行動の崩壊に直結した[152]。レイテの詳細な戦況の情報を把握していない南方軍は、一定の成果を挙げていた「テ号作戦」の続行を指示してきたが[153]、富永はそれを一蹴してオルモックに迫っている連合軍艦隊に集中攻撃を加えた。「テ号作戦」で戦力を喪失していた第4航空軍は、残り少なくなった手持ちの特攻機と、陸軍対艦攻撃の専門部隊として、北海道で跳飛爆撃の猛訓練を積んできた第5飛行団の一〇〇式重爆撃機を出撃させた。この跳飛爆撃部隊は、猛訓練を積んで意気揚々とフィリピンにはせ参じていたが、他の跳飛爆撃部隊と同様に戦果を挙げること無く損失だけが増えて、当初56機あった一〇〇式重爆撃機が十数機に激減していた[154]。跳飛爆撃隊は、これまでと同様に戦果を挙げること無く2機を失ったが[155]、特攻機の一部は突入に成功し、「艦船1隻、輸送船5隻、舟艇20以上を撃沈」という多大な戦果報告を行った。しかし、実際に撃沈されたのは駆逐艦マハン、高速輸送艦(輸送駆逐艦)ワード、 中型揚陸艦LSM-318の3隻に過ぎなかった。第4航空軍は、海軍に遅れて特攻を開始したせいもあって、海軍に張り合って常に過大な戦果報告を行っていた[156]。特攻により上陸支援艦隊が多少の損害を受けたものの上陸作戦には支障はなく、オルモック湾内のデポジト付近の海岸に上陸したアメリカ陸軍第77歩兵師団はオルモック市街に向けて前進を開始した。背後に上陸され虚を突かれた形となった日本軍であったが、体勢を立て直すと激しく抵抗し、第77歩兵師団は上陸後の25日間で死傷者2,226名を出すなど苦戦を強いられた[157]。連合軍は大きな損害を被りながらもオルモックを確保したが、この上陸作戦によってレイテの戦いは終局に向かっていくこととなった。

レイテの戦いの大勢が決した頃には、連合軍はレイテ島を基地として、フィリピン各島の攻略を開始したが、第4航空軍はこれまでの富永による積極的な航空作戦で消耗しきっており、限られた戦力での戦闘を余儀なくされていた。12月13日には、偵察機が約80隻の連合軍艦隊を発見、これはミンドロ島の攻略部隊であったが、第4航空軍はこの艦隊が陸軍航空隊の飛行場群があるネグロス島への侵攻と判断し[158]、富永は、手元に残っていた一宇隊(一式戦「隼」)など5機を出撃させた。もはや、尽きかけた特攻機を構わずに投入し続ける富永の作戦指導は狂乱に近いものになってきたが、出撃した特攻機は少ないながらも上陸支援艦隊の旗艦で、マッカーサーの旗艦でもあった軽巡洋艦「ナッシュビル」に突入した。しかし、この日はマッカーサーは乗艦しておらず、大殊勲とはならなかったが、ナッシュビルには攻略部隊を率いていたアーサー・D・ストラブル少将が座乗しており、ストラブル自身は無事であったが、攻略部隊の多くの指揮官や幕僚を含む325名の大量の死傷者を生じて艦は大破し、ミンドロ島上陸作戦に少なからず影響を与えた[159]

ミンドロ島攻略部隊をネグロス島への侵攻と誤認していた富永は、さらにストラブルの艦隊に攻撃を行うこととし、これまでの跳飛爆撃任務の失敗で壊滅状態となっていた第5飛行団残存の100式重爆撃機9機に、戦果が望めない跳飛爆撃ではなく特攻出撃を命じた[160]。参謀長の隈部らが鈍重な重爆を白昼に出撃させると敵戦闘機の餌食になるだけだと反対意見を述べたが、日々の心労で不眠症となっていた富永は、感情の移り変わりが激しくなっており、部下の忠告を聞くような状態ではなくなっていた[161]。富永の命令を受けた第5飛行団団長小川小二郎少将は、重爆の特性を理解しない航空用法に反発し、攻撃隊長に「弾を落として帰ってこい」と体当りをせずに、今まで訓練してきた跳飛爆撃で攻撃し帰還するように指示したが、隊員らは初めから生還は考えておらず、遺品を整理し下着を取り替えて出撃した[162]。出撃時間は護衛戦闘機の関係で早朝7時とされたが、攻撃の成功率を向上させるためにもせめて夜間の出撃にさせて欲しいとする小川の上申を、第4飛行師団の参謀が「出撃時刻は第4航空軍が決めたもので、護衛戦闘機の手配もあって変更は難しい」と拒否された[163]。重爆特攻の9機は「菊水隊」と命名され、13機の一式戦闘機「隼」の護衛付きで出撃したが、敵艦隊に達する前にアメリカ軍艦載機の迎撃を受けて「敵戦闘機に襲わる!」との悲痛な打電を最後に全滅した[164]。撃墜された100式重爆撃機から海上に投げ出されたサイトウジュウロウ軍曹(氏名の漢字不明)1名がアメリカ軍に救助されて捕虜となっている[165]。この「菊水隊」の特攻出撃は、作戦指導に冷静さを欠いていたこの時期の富永の暴挙であったと非難されることも多い[166]

連合軍のルソン島上陸が迫っていると考えた第14方面軍司令官山下奉文大将は、マニラは多くの民間人が居住しており、防衛戦には適さないため、オープン・シティとすべく、富永に撤退を散々促していた。しかし、富永は「レイテで決戦をやるというから特攻隊を出した。決戦というからには、国家の興亡がかかっているから体当りをやらせた。それなのに今度はルソンで持久戦をやるという。これでは今まで何のために特攻隊を犠牲にしたのかわからなくなる。富永が部下に顔向け出来んことになる。富永はマニラを動かんぞ。マニラで死んで、特攻隊にお詫びするんだ」と主張してマニラ放棄を拒否した[167]。富永のほかに、マニラ駐留の第31特別根拠地隊(司令官:岩淵三次海軍少将)やレイテ沖海戦などでの沈没艦の生存者で編成された海軍陸戦隊マニラ海軍防衛隊」(マ海防)もマニラ放棄を拒否した。未だマニラ市内にいる軍民のなかには、危機的状況にある戦局をあまり理解できない者も多く、そのような者たちはマニラでの文化的生活を謳歌しており、わざわざマニラを棄てて山中に籠もる必要性を理解していなかったという。マニラでの快適な生活を棄てたくない者たちは「多くの特攻隊をマニラより出発させた。そんなマニラを放棄してルソン防御の意義はない」と精神的理由を重視してマニラ死守を主張する富永に便乗し、結果的にマニラ死守という富永の方針には多くの共鳴者が出ることとなった[168]

山下は、富永と陸軍幼年学校からの同期で個人的にも親しかった第14方面軍参謀長武藤を説得に差し向けたが、撤退を促す武藤に対して富永が「航空隊が山に入ってなにをするのだ? 」と不満を明かしたところ、武藤も理解を示して「燃料も航空機もない山中に航空司令部が固着しても意味はない。司令部に来て山下閣下と相談し、台湾に下がって作戦の自由を得た方がよい」と第4航空軍を台湾に移動させて戦力の再編成を勧めるような提案をしたが、富永が山下に相談に行くことはなかった[169]。この頃富永は体調不良として病床に伏せることが多くなっており[170]、富永は心身の消耗を理由に大本営や南方軍に対して司令官の辞任を2度も申請していたが、決戦の最中に司令官を交代することはできないとして拒否されている[171]。富永と武藤が最後に会ったのが、年が明けた1945年1月4日となったが、武藤が富永を訪ねると富永は病気で寝込んでおり、武藤の訪問を大変喜び涙ぐみながら手を握ってきた。武藤は多くの特攻隊員を見送った富永が精神的にも肉体的にも疲労困憊して限界に達していると考えた。武藤は第14方面軍の司令部はバギオに転移するので、富永も体調が許す限り速やかに北方に移動するように勧めると、富永は素直に武藤の勧めを聞いていたという。富永と武藤は再会の機会があるかもわからないことを認識したうえで別れたが、実際にこの後2人が再会することはなかった[172]

富永の積極果敢な航空作戦によって、第4航空軍の航空機は底を尽きつつあって機体のない搭乗員があふれる状況となっていた。富永は貴重な搭乗員を地上で無駄に失うことを避けるために、誰よりも先に搭乗員を日本に送り返そうと考えて、輸送機で一旦台湾に撤退させて、台湾から日本に向かわせることとした。しかし、すでに制空権は連合軍のものであり、搭乗員撤退用の輸送機は連合軍戦闘機の目を盗んで未明に出発せざるを得ず、十分に搭乗員を台湾に送ることはできなかった。のちに海軍も同様な搭乗員撤退作戦を開始し、少なくはない搭乗員とともに、一部の報道班員の記者たちもルソン島に連合軍が侵攻してくる前に撤退に成功している[173]

フィリピンの戦いで富永が主導した特攻は、海軍の戦果ともあわせると100隻以上の連合軍艦船を撃沈破しており、連合軍を恐怖に陥れ[174]、連合軍南西太平洋方面軍のメルボルン海軍部は、「ジャップの自殺機による攻撃が、かなりの成果を挙げているという情報は、敵にとって大きな価値があるという事実から考えて、太平洋海域司令官は担当海域におけるそのような攻撃について、公然と議論することを禁止し、かつ第7艦隊司令官は同艦隊にその旨伝達した」と指揮下の全艦艇に対して徹底した報道管制を引いたが、この検閲は太平洋戦争中でもっとも厳重な検閲となっている[175]。南西太平洋方面軍司令官のマッカーサーは自身が関係したいわゆる「バターン死の行進」について、陸軍中央から報道管制を引かれて忸怩たる思いを抱いており、報道管制には否定的であったが[176]、特攻に対しては「カミカゼが本格的に姿を現した。この恐るべき出現は、連合軍の海軍指揮官たちをかなりの不安に陥れ、連合国海軍の艦艇が至るところで撃破された。空母群はカミカゼの脅威に対抗して、搭載機を自らを守る為に使わねばならなくなったので、レイテの地上部隊を掩護する事には手が回らなくなってしまった」と評するなどかなり警戒していたので[177]、特攻が及ぼす大きな影響を鑑みて報道管制を命じている。しかし、多大な損害を被りながらも、連合軍は着実に進撃を続けており、特攻は結局のところは遅滞戦術のひとつに過ぎないことも明らかになっていた[178]。旗艦の「ナッシュビル」は特攻で離脱させられたので、軽巡洋艦「ボイシ」に乗り換えたマッカーサーは、いよいよ念願のルソン島上陸に着手することとした。1945年1月4日に800隻の上陸艦隊と支援艦隊を率い、1941年に本間雅晴中将が上陸してきたリンガエン湾を目指して進撃を開始したが、そのマッカーサーの艦隊に立ちはだかったのが特攻機であった[179]

 
陸軍特別攻撃隊一誠隊の隊員に鉢巻を手渡す富永、一誠隊は護衛空母オマニー・ベイを撃沈した

1945年1月4日、この日出撃する一誠隊全員に富永は自ら鉢巻を手渡して、隊員一人一人と熱く握手を交わした[180]。出撃した一誠隊隊長津留洋中尉は、護衛空母「オマニー・ベイ」に発見されることなく1,200m以内の位置まで達すると急降下を開始、まったく対空砲火を受けることも無くそのまま飛行甲板の右舷側側に激突した。火のついた航空燃料が飛行甲板上に並べられた艦載機に降り注いで大火災を発生させ、機体と搭載爆弾は飛行甲板を貫通して格納庫で爆発した。その後に「総員戦闘配置につけ」のブザーが鳴ったが既に手遅れで、艦載機と弾薬が次々と誘爆をおこし、特攻機が突入したわずか23分後には戦死者93名を残して「総員退艦」が命じられた[181]。1機で護衛空母1隻を葬った殊勲の津留は1回目の出撃で不時着して生還しており、それから毎日戦闘指揮所にやってきては、所属する第30戦闘飛行集団の副官金川守雄中尉に「いい目標が出たら、いつでも出ますよ」と出撃を嘆願しに来たという。出撃日も「きょうは、やりますよ」と怯むことなく出撃したので、津留の殊勲の報告を受けた金川は「とうとう彼もやりおった」と目頭が熱くなるのを覚えて、津留の覚悟を知っていた団長の青木武三少将も喜んでいたという。「オマニー・ベイ」は陸軍が沈めた唯一の空母となった[182]

しかし、連合軍は特攻が有効と日本軍に悟られないため、いくら損害を出しても進むことを命じられていた[183]。1月5日に偵察機から、22隻の空母に護衛された600隻の大船団が100kmに渡って北上中という報告を聞いた富永は、連合軍がリンガエン湾上陸を意図しているのは明らかであると判断、第30戦闘飛行集団などの残存兵力で全力を挙げての特攻を命じ[184]、自らは今まで主張してきたマニラでの玉砕を撤回し、「山下大将の名誉を傷つけぬ」と述べて、1月7日にエチアゲへの撤退を決めた。富永がマニラ放棄を決めたのは、想定以上に陣地の構築が進んでいなかったことや、第14方面軍参謀長の武藤や、第3船舶輸送司令官稲田らから、台湾に撤退して体勢を立て直せという提案があったことも大きな要因となった。撤退に際しては、全力特攻を命じつつも、四式戦闘機「疾風」4機を護衛に差し出せという命令も出している[185]。富永と一緒に声高にマニラ死守を主張してきた岩淵率いる海軍部隊は、富永に梯子を外された形となり、さらに意固地となって、バギオの第14方面軍司令部に「マニラを死守せんとす。所見あらば承りたし」という強硬な電文を打電し、引き続きマニラに立てこもり、マニラの戦いで壊滅した[186]

エチアゲに撤退した富永は、第4航空軍に残存兵力を結集し、ルソン島上陸作戦のため、リンガエン湾に侵入してきた連合軍艦隊への全力特攻を命じた。1月5日から1月10日までの全力特攻で、海軍の特攻機を含めた戦果は、駆逐艦1隻、弾薬を満載した輸送船1隻撃沈、戦艦4隻、巡洋艦5隻、護衛空母1隻、駆逐艦5隻撃破と特攻開始してからの最大の戦果となった[187]。なかでも重巡洋艦「ルイビル」に突入した石腸隊あるいは進襲隊の九九式襲撃機は、機体や爆弾でルイビルに甚大な損害を与えるとともに、火がついた航空燃料をまき散らして、それを全身に浴びたスリガオ海峡戦で第2戦艦部隊を指揮したセオドラ・チャンドラー英語版少将が重篤な火傷を負って戦死した[188]。チャンドラーは真珠湾攻撃でのアイザック・C・キッド少将、第三次ソロモン海戦でのダニエル・J・キャラハン少将とノーマン・スコット少将と並んで、第二次世界大戦中に戦死したアメリカ海軍最高階級の将官となった[189]。他にも戦艦「ミシシッピ」に一誠隊(一式戦「隼」)、軽巡洋艦「コロンビア」に鉄心隊あるいは石腸隊(九九式襲撃機)、がそれぞれ突入し大きな損害を与えた。日本軍は陸海軍ともに、熟練した教官級から未熟の練習生に至るまでの搭乗員が、稼働状態にある航空機のほぼ全機に乗り込んで、リンガエン湾の連合軍艦隊に襲いかかった。大規模な特攻を予想していた連合軍は、全空母の艦載機や、レイテ島、ミンドロ島に進出した陸軍機も全て投入して、入念にルソン島内から台湾に至るまでの日本軍飛行場を爆撃し、上陸時には大量の戦闘機で日本軍飛行場上空を制圧したが、富永ら第4航空軍司令部は、連合軍の空爆をやり過ごすため、白昼には特攻機を林の中などに隠させて、夜間に破壊された滑走路を迅速に修理させ特攻機を出撃させた。ときには遊歩道からも特攻機を出撃させることもあったという。第4航空軍の巧みな特攻機の運用によって、圧倒的に制空権を確保していた連合軍であったが、特攻機が上陸艦隊に殺到するのを抑止することができなかった[190]。また、特攻以外でも、1月7日には敵艦を攻撃するため爆装して出撃していた第71戦隊の四式戦闘機「疾風」2機が、アメリカ陸軍航空隊のエーストーマス・マクガイア少佐率いる4機のP-38と空戦に突入、マクガイアともう1機を撃墜し、両機とも生還する(機体は被弾多数で大破)という完勝劇を演じている[191]

旗艦の「ボイシ」艦上で特攻機との戦闘を見つめていたマッカーサーは「奴らは我々の軍艦を狙っているが、ほとんどの軍艦は一撃をくらっても、あるいは何発もの攻撃を受けても耐えうるだろう。しかし、もし奴らが我々の兵員輸送船をこれほど猛烈に攻撃してきたら、我々は引き返すしかないだろう」と特攻は上陸作戦の成否を左右させかねないと懸念を示し[192]。上陸部隊を支援していた第77.2任務群指揮官ジェシー・B・オルデンドルフ少将は「日本軍の特攻機は大した妨害も受けずに攻撃を実施することが可能のように見受けられる」「これ以上さらに損害を受けると、現在の作戦及び今後の重要な作戦に、重大かつ不利な影響を与えるかも知れない」「特攻機が輸送艦を攻撃した場合、その結果は悲惨なものになるかもしれない」という切実な戦況報告を行ったが[193]、日本軍は陸海軍ともにこの攻撃でほぼ航空機を使い果たしてしまい、こののちは散発的な攻撃しかできなかった。陸軍のフィリピンにおける最後の特攻出撃となったのが1月13日となり、この日、精華隊の2機の四式戦「疾風」が出撃[194]、うち1機が護衛空母「サラマウア」に命中、機体と爆弾は次々と甲板を貫通し最下甲板まで達し、搭載爆弾は機関室英語版で爆発。そのため、サラマウアは操舵、航行不能となり、発生した火災で格納庫も炎上し、95名の死傷者を出すなど甚大な損傷を被ったが沈没は逃れた[195]。最後まで特攻で大損害を被ったアメリカ軍のなかでは、日本軍がフィリピンにあと100機の特攻機を保有していたら、連合軍の進攻を何ヶ月か遅らせることができたという評価もある[196]

台湾への無断撤退編集

 
富永がフィリピン脱出時に搭乗した「九九式襲撃機」の同型機、随行者は操縦士と内藤准尉のみであった

特攻機を送り続けることの過大な精神的負担と、山下との意見相違で次第に心身ともに病んできた富永は、いつも短刀を懐にしのばせつつ、怪我もしていないのに首に真っ白な包帯を巻くなどの奇行が目立つようになり[197]、また、寝込むことが多くなって従軍看護婦の介助を必要としたが、大雨のなかでずぶ濡れになりながら特攻機を見送っていたことが徒となってデング熱も発症しており[198]、その高熱によって感情的になることも多く、参謀らにあたりちらすようになっていた[199]。特に不眠症による癇癪が酷くなり、睡眠を妨げるとして自分の宿舎の前の車両通行禁止とか、鳥の鳴き声が喧しいので、基地周辺の鳥を全部捕ってしまえなどという理不尽な命令をすることもあった[200]。心身ともに衰弱している富永を見かねた参謀長の隈部は、富永を退避させることを名目に、第4航空軍司令部を台湾に撤退させることを計画して幕僚らと協議した[201]。1月10日に富永不在の幕僚会議で「一部兵力をルソン島に残し、第14方面軍のための指揮連絡、捜索に任じせしめ、主力は台湾基地を活用して方面軍に強靱な航空支援をするほか手段がない」と結論づけた。12日に第14方面軍の参謀も兼任していた佐藤参謀が、方面軍首脳に意見具申し、松前、渋谷両参謀が台湾に飛んで第10方面軍に協力を要請した[202]

隈部らの計画は第4航空軍を台湾に撤退させた後に、戦力を補充してフィリピンを支援するというものであったが[203]、直属の第14方面軍にも台湾の第10方面軍にも打診していただけで正式な許可があったわけではなかった。第14方面軍の山下は、自分の命令通りに富永がマニラを撤退したことから、佐藤の報告を好意的に受け取って「富永はよくエチアゲに撤退してくれた。これで方面軍の面目も立つ、台湾の件は意見具申の電報を起案しておけ」と命じている[204]。第4航空軍が正当な手続きを経て台湾に後退するためには、第14方面軍の指揮下から外れて、台湾を管轄する第10方面軍の指揮下に入らねばならなかったが、第14方面軍に了承の意図があっても、最終的には南方軍を経て大本営の許可が必要であった。ただし、大本営にはニューギニアからフィリピンまで敗退を続けている第4航空軍を、フィリピン決戦と運命を共にさせようという意図もあって、撤退の許可は簡単には出さないものと考えられた[205]

しかし、エチアゲにも連合軍の空襲が始まり、台湾とフィリピン間の制空権が風前の灯火となると、参謀長の隈部らは焦りだし、いずれ撤退の許可がもらえることを前提にして、心身ともに衰弱の激しい富永を台湾に「視察」に行かせるといく名目で撤退させることとし[206]、富永には、入浴中に「第4航空軍の台湾移動の命令が出た」隈部が虚偽の報告をして、台湾への撤退を同意させている[207]。そして、隈部らは撤退用の航空機をどうにか準備すると、富永を台湾に逃がすための口実として「隷下部隊視察」との名目で台湾行きを大本営に申請していたが、やがて陸軍参謀総長からの台湾視察承認の電文が届いたので、これを台湾撤退許可と解釈し、まずは富永を航空機で脱出させることとした[208]

台湾撤退に関しては、富永は戦後も一貫して「参謀長の隈部から虚偽の報告を受けた」としており[209]、隈部の虚偽の報告を受けた上で「軍司令官は結局、参謀長の意見どおりに行動したのであるが、これは参謀長の所見に屈従したのではない。当時の精神衰弱の状態において、ひとり幾度が熟考した上で決行したものである。」と自らの判断で行ったと述べている[210]。しかし、第4航空軍は大本営から、1944年9月21日付「大陸指第2170号」にて作戦のため南部台湾を使用してよいとの命令を受けており、富永自身もかねてから「幕僚を無駄に死なせては相済まぬ」として、戦力立て直しのためにエチアゲよりさらに“安全な地域”への後退も考えていた[211]。武藤や稲田からの台湾に撤退して戦力を立て直すべきとの提案も富永を後押しした。しかし、常々、「君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」と訓示して多数の特攻機を出撃させ、「マニラを離れては、特攻隊に対して申し訳ない」とも主張し、多くの共鳴者もいたので[212]、“安全な地域”への後退について幕僚らに対して自分からは何の意思表示もできなかったという。一方で富永は、隈部ら第4航空軍参謀がルソン島に残っての航空作戦の続行の可能性について疑問視し、台湾への撤退を考えていることも察知しており、結局のところ、富永も隈部ら参謀も台湾への撤退を望んでいた[213]。富永は軍司令官就任当初から「幕僚統帥を絶対にやらぬ」と決めていたとおり、これまで航空作戦を独断で進めており、それは病床に伏すようになってからでも変わらず、また、人事局長や陸軍次官といった官僚的な職務に長く就いてきたこともあって、形式に拘り枝葉末節のことにやかましかったので、入浴中に、「台湾に転進せよ」との命令があったとする隈部の口頭だけでの報告を、後で自ら検証することなく「自分の軽率を恥じねばならぬ。自分の手落ちを認めねばならぬ」と盲信するはずはないと言う指摘もあって[214]、富永を診察していた中留軍医部長は、「台湾に下がって爾後の作戦を講ずるというのが司令官の決意である」と富永の本心を見抜いていた[215]

富永が台湾への撤退を決意した翌日の1月15日に、富永は専属で看護をしてくれていた3名の日本赤十字社の従軍看護婦に「いよいよ今日でお別れだ。わしは台湾に行く。長い間ご苦労であった。ところでどうだ、一緒に台湾に行かないか。連れて行ってやるよ」とベッドの中から語りかけた。富永を専属で看護していた看護婦3名は第18陸軍病院に属し、1942年1月に内地を出発してすでに3年近く前線での病院勤務が続いており、そのことを不憫と思った富永が日本に帰してやろうとまずは台湾への撤退を呼びかけたもので、すでに専属副官代理の古山中尉に命じて手配も済ませていた。3名の看護婦は当然に日本に帰りたいと切望しており富永の厚意に感謝したが、多くの日本赤十字社の従軍看護婦の同僚を残して自分たちだけでは行けないと考えて、富永に丁重に断っている。富永は彼女らの覚悟を尊重して、一緒の撤退を撤回すると代わりに3名にそれぞれ贈り物をすると申し出て、熊倉看護婦と古島看護婦にはかつて東條からもらった石清水八幡宮の守り刀の短刀を贈り、一番年下の入野看護婦は「身近なもの」と希望したので、愛用していた扇子を贈った。富永と親しく話すようになっていた入野は「何か書いて下さい」とお願いしたところ、富永は嬉しそうに快諾して入野の見ている前で扇子に「仁而愛」と達筆で書き込んだが、これは日本赤十字社看護婦の愛唱歌「婦人従軍歌」の一節であった。入野が感激していると富永は「世話になったな。本隊に、まちがいなく帰れるように、あとのことはよくたのんでやるから心配ない、これでお別れだ」と告げると固い握手をしたが、入野はこのときのことをいつまでも忘れなかったという[216]

熊倉ら従軍看護婦は富永が移動する場合に付き添うこともあったが、前線に不似合いな若い女性が富永と同行しているのを見た一部将兵が、熊倉以下の日本赤十字社の正規の従軍看護婦のことを、富永が身の回りの世話をさせるため「篤志看護婦として現地徴用した女」とか事実無根の悪評を広めて[217]、後年、この悪評によって、富永が台湾に撤退するさいに女性(芸者)を連れていたなどとデマが広がることとなった。このデマについては、マニラを脱出して行き所を失った慰安婦を第14方面軍が保護し、そのうちの希望者に教育を施して臨時の従軍看護婦として雇用したが、戦後にその臨時従軍看護婦と日本赤十字社の正規の従軍看護婦とが混同されてしまったのも原因とされており、富永が「篤志看護婦」を現地徴用した事実もない[218]。熊倉ら3名は、富永の手配もあってその後にバギオの陸軍病院に合流できたが、第14方面軍が山中に敗走したのでそれに同行し、大変な労苦を経験しながらどうにか生存して終戦の日を迎えることが出来た。しかし、フィリピンに派遣された22名の従軍看護婦の同僚のうち、生存して日本に帰国できた者は半分の11名に過ぎなかった[219]

1月16日早朝、富永はエチアゲ南飛行場に将官用の黄色い標識がついている自動車で到着した。その後ろには赤い佐官用の赤い標識がついている自動車が数台続いていた。富永は車を降りると集められていた第4航空軍の士官や将兵を整列させ、「こんど、大本営の命令によって、台湾に出張を命ぜられました。皆さんより一足お先になりますが、また一緒に働ける日のくるのを待ってます」と挨拶した。第4航空軍の士官らは特に疑問を持つこと無く、口々に「元気でおでかけください」と返している[220]。富永は集まっていた報道班員の記者たちの方にも、よろめく足でふらふらと1人で近づいてきて同じような別れの挨拶を行った[221]

富永の脱出用に、当時の陸軍機で最高速の一〇〇式司令部偵察機が準備されて、富永が搭乗しようとしたところ、心身共に衰弱していた富永は操縦席までよじのぼることができず、参謀らが尻を押して飛行機の中に放り込んでいる。しかし離陸滑走を始めた一〇〇式司令部偵察機は、なかなか機体が浮き上がらず、滑走路をオーバーランし乗機が破損してしまった[222][223]。しかし、すぐに第三十二戦隊に属する九九式襲撃機[224]に乗り換えると、随行者の内藤准尉の九九式襲撃機、そして一式戦闘機「隼」2機の護衛付きでエチアゲ南飛行場を飛び立った[注釈 1][225][226][227][228][229][230][231][232]。だが、バシー海峡に入ると悪天候で視界不良だったために引き返し、トゥゲガラオ飛行場に着陸した。翌17日、今度は内藤機の他「隼」4機の護衛でトゥゲガラオ飛行場を離陸し台湾台中飛行場に着陸した[233]。富永を護衛した4機の「隼」は飛行第30戦隊の生き残りで、第一中隊長の藤本中尉が指揮していたが、無事に台中まで到着すると、富永は護衛機の4名を呼び寄せて、涙を流しながらひとりひとりと固い握手をかわして護衛の労をねぎらった。護衛機の搭乗員の1人であった小長野昭教曹長は、かつて見た勇将の富永が、敗軍の将となってやつれてしまった姿を見て、いたたまれなくなって思わず顔を背けてしまったという[234]

富永は台湾に到着すると早速第10方面軍司令部に赴き、司令官安藤利吉大将に「第4航空軍は第10方面軍の指揮下に入って作戦する」旨の申告を行ったが[235]、安藤は憔悴しきった富永の姿を見て驚くと共に、当惑した表情で「大本営からそのような電報はきていませんが」と答えた[236]。ここで富永は初めて隈部が報告した「第4航空軍司令部の台湾後退許可」は誤りであったと認識したと述べている。これで富永は無断で任務を捨てて、敵前から逃亡したこととなった[237]。しかし、富永は後退許可が誤りであると知っても、フィリピンに戻ることは無く、北役温泉の兵站宿舎に投宿した[238]。この宿舎は軍が温泉旅館を兵站宿舎として借り上げたものであり、富永は最上級の部屋におさまり、宿の着物を着てくつろいだ様子だったという[239]。しかし、その日の夜中には特攻隊員の位牌に灯明をともし、一心に祈っている姿も見られている[240]

異常な気持ちで一夜を過ごした富永は翌18日に積極的に行動し、まずは富永の命令で台湾に撤退してきた隈部をサイゴンの南方軍総司令部に説明に向かわせ、富永は、第14方面軍の持久作戦策を見直させて積極策に打って出るよう指導して欲しい、そのために第4航空軍は台湾を使用して航空作戦を行う必要があるとする意見を、本来であれば直接参謀本部に発信できない規則に違反して、参謀次長宛に発信している[241]。しかし、この富永の動きは全て裏目に出て、南方軍総司令官寺内寿一大将は、富永の無断撤退に唖然とするとともに、自分らを飛び越して直接、第14方面軍を誹謗するような意見具申をしたことに激怒して、21日に「統帥の神聖を保持する所以に非ずと考え本官の甚だ遺憾とする所なり」とする、第4航空軍司令官を名指しで極めて強い口調で叱責する異例な電文を第10方面軍宛に発信している[242]。そして、報告にきた隈部を寺内は自ら直接激しく叱責している。しかし、寺内は、今更第4航空軍司令部を比島に戻しても意義が少ないため、これを追認し、正式に軍の後退を許可した[243]

1月25日には、以前に第4航空軍の台湾後退を山下に打診した佐藤参謀が事後承諾を求めに行ったが、前向きに評価していたとは言え、正式な許可が出る前に撤退した富永に対して山下は激怒しており、佐藤が「飛行機を持たない航空軍が、山の中に潜居していても仕方が無い」「それよりもすみやかに台湾に移り、そこで軍を再建して、台湾からルソン作戦を支援する方が悧巧」という富永の意見を苦しげに伝えると、山下はまず「バカッ!」と一喝し「兵はどうなるのだ兵は?それが悧巧だと言って、さっさと台湾に移れるのか?」「台湾に行って飛行機があるほどなら、どんどんきているはずだ」と厳しい言葉を投げかけたが、そこで富永と親しく、以前に富永に台湾後退を提案した参謀長の武藤が「独断専行したことはけしからん事です。そのことで弁護の余地はありません。しかし、彼としては、一日も早く航空軍の体制を整えたかったのでしょう。どうか許してやってください」と擁護した。山下は「だが台湾に行ってみたところで飛行機なんてありはせんよ、それよりも部下を残していった気持ち、その気持ちがわしは悲しいのだ」と言い放つと、そのまま武藤と佐藤を下がらせた[244]。ほかに、佐藤に対し山下は語気鋭く「部下を置き去りにして逃げるような奴に何ができるか!」と面罵したという証言もある[245]。結局、山下も寺内と同様に「すんでしまったものは仕方が無い」と事後承諾した[246]

残された幕僚たちも順次台湾に撤退し、1月18日には隈部が「各部隊は現地において自戦自活すべし」との命令を出し、夕方になってからエチアゲ南飛行場を出発し、台湾の屏東飛行場に脱出する。19日からは第4航空軍の幹部も脱出を開始したが、21日には司令部の各部部長が搭乗した機が撃墜され[247]、また、他の1機は、連絡無く台湾澎湖諸島の海軍基地上空を飛行したため、海軍の高角砲で同士討ちされて、兵器部長小沢直治大佐、経理部長西田兵衛大佐、軍医部長中留金蔵大佐や溝口高級副官などの多くの第4空軍幕僚が戦死するといった混乱もあった[248]。富永ら司令部の幕僚を見送った第4航空軍の将兵は、富永らの台湾への撤退が、敵前逃亡に等しい無断撤退とは知らず、作戦上の移動と誤認しており、いずれは自分らも全員が台湾に撤退できるとの希望を抱いていた[249]

司令部が台湾に逃亡したのち、搭乗員や整備兵といった航空要員は、育成が困難な特殊技術者でもあるため、優先的に台湾に避難させることにした。これには陸海軍の協力体制が構築され、輸送機、練習機、爆撃機など人員を多く乗せることができる機体がルソン島北部トゥゲガラオ飛行場と台湾を往復してピストン輸送を行った[250]。しかし制空権は連合軍に握られており、航空機では一度に輸送できる人数が限られていることから、海軍が3隻の駆逐艦を救援に出すこととしたが、台湾を出てルソン島に向け航行中に「」が空襲により撃沈され、残り2隻も引き返した。やむなく海軍は潜水艦を出すこととし、8隻の呂号潜水艦を準備したが、作戦を察知したアメリカ軍の潜水艦バットフィッシュに待ち伏せされ、呂112呂113が撃沈されて、ルソン島に到着し航空要員の救出に成功したのは呂46のみであった。それでも、航空機のピストン輸送と呂46に救出された航空要員は相当数に上り、日本軍航空史上では未曾有の大輸送作戦となった[251]。しかし、地上要員や万朶隊生存者の佐々木ら搭乗員の一部など多数がルソン島にそのまま残された。残された将校たちは口々に「敵前逃亡以外の何ものでもない。兵隊なら銃殺、将校なら自決。刑はそれ以外にあり得ない」「しかし、この臆病で卑怯な将軍には、もっともらしい理由が捏造されて、決して処刑されないだろう。何しろ、東條英機と親分子分だからな」などと陰口を言い合い、下士官や兵は「命惜しまぬ 予科練の…」という歌詞で知られる軍国歌謡「若鷲の歌」をもじり「命惜しさに富永が、台湾に逃げたその後にゃ」などという替え歌を歌って富永ら第4航空軍司令部を揶揄した[252]

置き去りにされた約1万の第4航空軍の残存将兵は、第14方面軍司令官山下の命令によって一旦は本来なら下級部隊であった第4飛行師団の指揮下となったが、のちに第4航空軍が解隊されたので尚武集団に動員された。寄せ集めであったので伍長の小隊長、准尉の中隊長といった奇妙な編成で満足な小銃もなかったが[253]、決して烏合の衆ではなく、ルソンに残った第2航空師団参謀長猿渡篤孝大佐の作戦指導のもとで、高い士気で鉄の団結を作り上げて[254]、バレテ峠やサラクサク峠では「東京を救おう」を合い言葉に、山下が指示した徹底した拘束持久作戦を戦って、連合軍を長い期間足止めしたが、激戦と飢餓や病気により多くの将兵が命を落とした[255]

詳細は「ルソン島の戦い」を参照。

 
終戦直後の1946年に制作された日本映画社の映画『日本の悲劇 自由の声』で批判される富永

富永ら第4航空軍の台湾撤退の目的は、台湾で戦力を回復させてルソン作戦を支援するといったものであったが、自分らの無断撤退に対する釈明や追認手続きに追われることとなり、その余裕もなく、また新たに指揮下となった第10方面軍からは冷遇されており、とても戦力の回復ができる状況ではなくなっていた。それでも、第8飛行師団の通信参謀の神は、師団参謀長岸本重一大佐からの「援助すべからず」という指示に背いて、自らも第4航空軍司令部には批判的であったのにも関わらず、「航空の先輩同僚を助けねばならぬ、家を失いた人は助けなければならぬ」と考えて、宿舎を手配し、自動車も準備した。そして、第4航空軍参謀らと特攻の戦訓について研究し、フィリピン失陥後に予想される沖縄戦での特攻作戦に活かすこととした[256]。第4航空軍独自の動きとしても、高級参謀の松前や参謀の渋谷などによって1月25日に「第4航空軍作戦指導方針」を策定したが、第10方面軍からは十分な支援を得られないため、それを進める手立てはなかった。参謀らはできうる限りで戦力回復や戦訓研究などを行っていたが、富永は体調は回復しつつあったものの、もはや作戦に対する熱意を失っており、第4航空軍司令官として何らかの動きをすることもなく、ただ処分を待っているという状況であった[257]。この頃に、昼間から富永が将官旗を掲げた軍用車の後部座席に芸者と一緒に乗っている姿が目撃されている。富永ら第4航空軍司令部は屏東にあったが、同じ屏東飛行場に配置されていた陸軍第8戦隊の将兵は富永らにあきれ果てており一兵卒でさえ敬礼しなかったという[258]

1月末から2月初めには陸軍中央部から航空作戦主任者が、第4航空軍の戦力状況に視察にきたが、これは第4航空軍の解隊を前提とした視察であった[259]。このときの第4航空軍の戦力は、台湾に88機(稼働機27機)、フィリピンに56機(稼働機17機)の稼働機合計45機と、司令部要員56名、空中勤務者223名、航空技術部員61名であった[260]。また、南方軍総参謀長の沼田多稼蔵中将は台湾で富永と面会し、また第4航空軍の現状をつぶさに視察して大本営に「1.第四航空軍ニ対スル部下ノ信頼ナシ 2.実質的ニ司令部ハ解消セリ 3.戦術上航空軍司令部ヲ置ク理由ナシ 4.司令部解消スルモ大ナル害ナシ」との報告を行っている。その報告のなかで「富永の台湾撤退の責任は南方軍にある」「富永は決戦を呼号しながらその行動は相応しくない」との指摘も行っている[261]。視察後の2月13日、大本営は第4航空軍司令部の解体を発令したが、富永については上部組織の追認があったことから、軍紀違反にはあたらないとして処分は待命にとどまった[262]。この処分は厳正を欠くという批判も多かったが、富永の病状は正常な判断能力がない水準にあるという、人事当局の判断から決定された処分であった[263]。富永は待命後に台湾で2ヶ月以上も静養していたことによって、病状もかなり回復し、精神状態も落ち着いており、5月5日予備役編入の処置がとられ、日本へと帰国した[264]。予備役編入については、富永が待命になっているときに、人事局長に昇進していた額田を台湾に呼びつけて「東京に帰ってもあばれんから、早く予備役に帰してくれ」と要求し、さらに親しかった額田に富永が、台湾に撤退する前に何度も大本営に提出していた辞任申請を活かして、「マニラにおいて辞任」していたような工作を依頼したとの推測もあるが[265]、額田は著書で、富永の処分については直接関わっていないので詳細は知らないと記述している[266]

帰国直後の1945年5月25日にB-29が494機来襲して東京を空襲したが、この東京大空襲で富永は自宅を焼失している。その後、「死ぬのが怖くて逃げてきた人間を予備役にして戦争から解放するのはおかしいのではないか」という根強い批判もあって[267]、富永は1945年7月に召集され、第139師団の師団長として満州敦化に赴かせた[268]。この部隊は関東軍の主力が南方に転出した後の穴埋め用根こそぎ動員部隊の一つである。8月のソ連参戦、第139師団はソ連軍と戦闘することはなく、終戦後の8月22日に武装解除されて捕虜となり、富永ら司令部准士官以上は、9月将校大隊に編入後、沙河沿飛行場に移動。掖河に移動後、11月3日綏芬河経由でソ連へと送られた[269]

富永に虚偽の報告をし、無断撤退の直接の原因を作ったとされた第4航空軍参謀長の隈部は、第4航空軍解体後は、陸軍航空審査部総務部長に更迭されていたが[270]玉音放送のあった8月15日夜に、隈部の実母、妻女、19歳の長女、17才の次女と一緒に食卓を囲んだ後、家族全員で多摩川畔まで行き、隈部が家族全員を拳銃で射殺したのち自らも自決した。隈部は周囲に富永を台湾に撤退させたことを悔やんでおり、特攻作戦への責任と、富永を補佐を全うできなかった悔恨による一家自決であった[271]

戦後編集

 
日本に帰国し支援者に歓迎される富永、歩行が困難となっており杖をついている。後ろで富永を支えているのが実弟の元海軍中佐富永謙吾

捕虜となった富永は、ハバロフスクの収容所に一時拘禁されたのち、モスクワに護送され、ルビャンカの監獄に拘置された。ソ連の諜報員で戦後ソ連当局に逮捕されて禁固刑に処されたレオポルド・トレッペルによれば、ブティルスク監獄において冨永と同室だったとしている[272]。富永は、大使館付の武官補佐官として、ヨーロッパ方面にいる白系ロシア人と連絡を取るためフランスに派遣されたり、関東軍の参謀時代にも対ロシア諜報や謀略に携わり、参謀本部の作戦部長のときは東條の下で対ソ連攻撃計画にも深く関与するなど、常にソビエト連邦と密接な関係を有する職務にあったので、厳しい尋問が行われたが、富永がなかなか核心に触れなかったので、尋問は6年もの長きに渡った[273]。しかし、その尋問で富永が、1941年のソ連攻撃計画(いわゆる関東軍特種演習)について「私は宮中に行き、天皇と閑院宮載仁親王にこの計画を説明した」「数日後、天皇はこれを承認した」という自供をしたとされ、この自供は天皇の戦争責任を追求するためのソビエト連邦のプロパガンダとして利用されて、1946年8月31日にはモスクワから全世界に向けてラジオ放送されている[274]

その後、1952年1月モスクワ軍管区の軍法会議にかけられ、当初は死刑を求刑されていたが、懲役75年の判決が確定して、シベリア鉄道バイカル・アムール鉄道(バム鉄道)の沿線となるタイシェットラーゲリに送られた。バム鉄道沿線のラーゲリの労働条件はもっとも厳しく、特にバム鉄道の建設に従事させられた抑留者は「枕木1本に日本人死者1人」と言われたぐらい死亡者が多かったという[275]。そのような環境下で、富永は将官であったからといって特別扱いを受けることは無く、一般の兵士と同様に、材木のノコギリ引き、建材製造、野菜の選別、雪かき、掃除等の重労働が課せられた。その後も、2年で4カ所のラーゲリを転々とさせられ、ラーゲリ内では看守から踏んだり蹴ったりという暴力を振るわれていたという[276]

ラーゲリでは、ソ連側の政治教育が継続的に行われていたが、もっとも重要視されたのは、天皇制破壊、天皇制打倒だった。ソ連は教育を受け入れた者は早めに帰国させるという条件を出していたので、早く故国に帰りたいという一心でソ連の政治教育を受け入れた抑留者も多かったが、富永はそれをはねのけていたという。そのためか体調がすぐれない富永に他の健常者と同様な強制労働が課せられていたが、同じ抑留者たちが富永を支えてくれたので、どうにか生き長らえることができた。しかし、1954年春に高血圧症から脳溢血を発症して入院、医師の診断の結果、今後、強制労働につくのは無理とされて、裁判により釈放が決定された。富永はその判決を病院までわざわざ出向いてきた裁判官から直接聞かされたという[277]

1955年(昭和30年)4月18日、引揚船「興安丸」で舞鶴港に帰国し、多くの旧軍人ら関係者たちが出迎えた。10年間の抑留生活と脳溢血の影響ですっかりと身体は弱っており、ひとりで満足に歩行できず、しゃべるのも困難となっていた[278]。帰国した富永は早速、「幾多純忠の英霊に対し敬虔な祈りを捧げたい」として靖国神社を参拝すると、「シベリアでわが将兵、わが同胞が現在なお、いかに苦しい思いをしているかを説明し、帰還を促進してもらうよう陳情します」と、自分と同じ境遇ながらまだ帰国を果たせないシベリア抑留者の解放に向けて尽力することとし[279]国会参考人として自身の体験を証言して、日本政府に問題解決を訴えている[280]。国会では、相馬助治参議院議員から、「率直に申して、あなたの評判はきわめてまずい。いわゆるフィリピンから引き揚げられたときのことがいろいろジャーナリストの諸君によってうわさされております。おそらく、あなた自身にしては御迷惑な思慮判断等によって不当の批判を受けている面もおありと私は思うのです」と、帰国後に雑誌サンデー毎日などから、台湾への無断撤退について批判されたことの質問がなされているが、富永は「皆、私の不徳不敏のいたすところでございまして、私としては、この敗軍の将たる私が、別に私から御説明申すことは一言もなく、ただすべて私の不徳不敏のいたすところと、深く皆様方を初め国民の各位におわびを申すほかはございません。みな私の至らぬ不敏不徳の結果でございまして、いかなる悪評をこうむりましても、私としては何の申し上げようもございません」「この点は、私は一身をもってこの責任を負いまして、すべての悪評はすべて一身に存することを覚悟いたしております」「この間のサンデー毎日なんかにも、私の信頼する幕僚にあたかも罪あるがごとくに書いてございましたけれども、これは全くそうではございません。私が皆悪いために、ああいう批評を受ける次第でございます。どうかそのおつもりで、私の周囲の者に何らの罪もなければ、何らの責任もなく、すべて私が負うべき責任でございます。この点はくれぐれも御了承をお願いいたします。」と答え、敗軍の将の自分が語ることはなにもないが、全ては自分の責任であったと陳謝している[281]

その後も、一部マスコミや、戦争責任を追及する国民や、戦死した第4航空軍関係者の遺族らから厳しく非難された。東京大空襲で自宅を焼失して富永の家族は住むところを失い、長男富永靖陸軍大尉の戦死の通知も、元陸軍高官の子息で特攻での戦死ながら戦死公報1枚で済まされ、終戦後は、富永が長期に渡って抑留されている間、旧軍人に対する国の援助が打ち切られる中で、他の多くの旧軍人家族と同様に、富永の家族も経済的に困窮していた。そのため、富永の帰国を知らされた妻女がマスコミの取材に対し「喜びの乾杯をあげたい」と素直に答えたところ、富永とその家族は、当時の軍人家族の特有の思い上がりと無反省が見られるなどとして、新聞の投書欄などでバッシングされた[282]。そのバッシングに対しては、富永の息女などの親族や、陸軍士官学校の同期で東京大学法学博士軍事評論家軍事史家松下芳男など、富永の人間性を知る旧軍人[283]や特攻隊員の一部の遺族、また長期の抑留生活で弱り切った富永に同情する国民などから反論もあって、大きな論争を引き起こす中で[284]、富永自身は、国会で証言した通り「敗軍の将は兵を語らず」を実践し積極的な発言は控えていた。後年には「比島航空作戦の懺悔」とする手記を纏めたが、その手記には「少しも戦場における勘の鋭さがなく、神通力という域にはおよそ縁遠い幼稚な観察眼だと笑われても一言もない」「馬車馬的な視野狭少の感あり、心を込めて幕僚の具申に相済まぬことをしたとと自らの不明を恥じている」「私の不徳、私の連携の不十分の致すところ、これまた恐悦至極の至りである」との懺悔の言葉を並べている[285]。その後も、「比島航空作戦の懺悔」以外では自らは自身の悪評に対して反論することはなく、また、富永の悪評に対して反論の投書をした長女を「余計なことをするな」と叱りつけるなど沈黙を貫いて[286]、1960年1月14日、東京都世田谷区の自宅で心臓衰弱のために死去した[287][288]

評価編集

昭和天皇は戦後になっても東條英機に対しては「元来東條と云う人物は、話せばよく判る、それが圧制家の様に評判が立ったのは、本人が余りに多くの職をかけ持ち、忙しすぎる為に本人の気持ちが下に伝わらなかったこと」「東條は一生懸命仕事をやるし、平素云っていることも思慮周密で中々良い処があった」などと同情的であったが、戦時中に東條の評判が悪化したのは「田中隆吉とか富永次官とか、兎角評判の良くない且部下の抑えのきかない者」を使ったことが原因の一つであると述べている[289]

東條の腰巾着とも揶揄されながら、陸軍次官や人事局長として辣腕を振るった富永の陸軍中央における評価は厳しいものも多いが[290]、日本陸軍最後の人事局長となった額田は、富永の業務面の指導は大変参考になり、大いに啓蒙を受けたと述べていたり[291]、「陸海軍一体化」や「松代大本営」といった献策を前向きに取り上げてもらった陸軍省軍事課の井田は「親近感と尊敬の気持ちを持つようになり、この人になら何でも気安く話せる」という印象だったとのことで好意的な評価をする部下もいる[292]。また、フィリピンにおける富永の特攻隊員ら搭乗員からの評判は悪いものではなく、むしろ疎まれていたのは第4航空軍参謀であった。ある日、特攻機を見送っていた富永ら第4航空軍司令部の列に操縦を誤った特攻機が突っ込んだことがあった。富永らはあやうく難を逃れたが、その様子を見ていた若い搭乗員らは「あの爆弾で参謀を消し飛ばせばよかった」と報道班員同盟通信社記者に口々に呟いていたという。その呟きを聞いて記者たちはフィリピン航空決戦の前途を案じている。また、記者が特攻隊員と酒を呑むと、特攻隊員たちは「参謀も部隊長も信用出来ぬ、ただ(富永)司令官だけは俺たちの気持をわかつてくれると思ふ」とよく話していたなど、富永に対する信頼の厚さを実感していたが、この信頼も、搭乗員が富永が自分らを置いて台湾に無断撤退したことを知ると、裏切られたという気持ちに変わっていったという[293]

富永の台湾への敵前逃亡に等しい無断撤退は、世上一般には命が惜しくて台湾に逃げ帰ったと非難されることが多く、作家の高木俊朗は「富永軍司令官は詭計をもって逃げ去った」「はじめに美名あり、終りは無恥と無責任であった。これが富永軍司令官の正体であった。しかしこれは富永軍司令官ひとりのことでなく、軍部に多くに共通する性格であった」と極めて厳しい言葉で富永を非難し、さらにその非難は日本軍の体質にまで及んでいる[294]。同じ作家で従軍経験もある伊藤桂一も著書で富永の無断撤退を批判し「今度の戦争ほど、上級軍人が汚名をさらしたこともめずらしく、敢闘した下級将兵と比較して今日なお考えさせられる多くの問題を含む」と富永を通じて日本軍上級軍人を批判している[295]。同じ軍人側からも、台湾で第4航空軍との連絡係をしていた第8飛行師団参謀の神直道中佐が「航空軍四首脳(司令官、参謀長、参謀副長、高級参謀)の創作以外のなにものでもない」「極端な表現を以てすれば世界戦史上稀に見る怯懦の史実であり未曾有の喜劇であろう」と辛辣な表現での批判があがっている[296]

一方で、第14方面軍参謀長の武藤は事前に自ら富永へ台湾への撤退を提案していたこともあって「彼等の悪口に一つに、第四航空軍司令部が台湾に移った事が含まれているのは失当である。当時の戦況でことに燃料、弾薬の乏しかったカガヤン河谷に、航空軍司令部が固着しているのは意味をなさぬ。速やかに台湾に移って作戦の自由を得る方が適当であった。私は冨永中将にこれを勧めた」と巣鴨プリズンの獄中で記述した手記で擁護している[297]。 陸軍士官学校55期生で、太平洋戦争では司令部偵察機搭乗員として実戦も経験し、終戦時には大尉で航空士官学校区隊長を務め、戦後には防衛庁戦史室で戦史を研究し戦史叢書の編集にも携わった生田惇は、命が惜しくて逃げ帰ったとする富永への非難は、自らも叩きこまれてきた日本陸軍の高級士官の心構えから見ても見当違いであり、上級の士官になればなるほど、状況不利でも挽回の努力をすることが必要であり、富永が台湾に退却しないと満足な航空作戦ができないと判断したのは、戦略的な判断としては正しかったと擁護している。一方で、戦い敗れて挽回できなかったときは、命を惜しんだと誤解され、卑怯と冷笑されるのは高級軍人の宿命である。とも指摘している。また、長期に渡って大量の特攻機を運用してきた富永には余人には窺い知れぬ心労があったはずで、最後まで「決戦」の意志を貫いた意志力は評価に値するが、山下からマニラでの決戦を避けて持久戦をおこなうべしとの命令を受けて、今までその意志力を支えてきたものが崩壊し、常軌を逸した行動に出てしまったのでは?と同情している[298]。高木と同様に従軍記者として特攻隊を取材した経験を有する作家の山岡荘八も、「富永中将だけを責めようとは思わない。中将は病気のために判断を誤ったのか、さもなければ同期である武藤中将の弁護の通り、一時でも早く空軍を再建しなければとするあせりと病気が重なって、山下大将のいるバギオまでいけない肉体条件のまま、参謀たちに無理に台湾行きの機体に担ぎ込まれた」と擁護しつつも、台湾に脱出したのちの活躍がなかったのが残念としている[299]

また、戦争当時フィリピンで第4航空軍付の報道班員として富永を間近で取材していた毎日新聞の松村喬記者は、富永の人物像を「元来繊細な、軍人というより文化人的な神経の持ち主」と評し、「次々と特攻隊を送り出した精神的負担から病気になった」と述べている[300]。また、台湾への無断撤退については「だいたい富永氏はマニラを死守する決意でした。富永氏は温厚な人柄ですが、一面一徹強情な人ですから、特攻隊に殉ずるつもりだったと私は見ています」「当時の四空軍の参謀はニューギニア以来敗走なれがしており、また航空軍の特権意識の強い人たちでした。彼らは自分たちが台湾へ後退するのに、軍司令官を置き去りにするわけにはゆかないので、心身ともに衰えた軍司令官に強請して、台湾行きを納得させ、離脱させたのだと、比国に残された私たち記者は一致して考えていました」と当時に現地で取材していた報道班員の記者たちは富永に同情的であったと述べている[301]。そして第4航空軍司令部に対しては「この軍司令部は、極めて劣悪な人的要素で構成されていた」「富永中将も立派な軍司令官ではなかったし、参謀、各部長等軍司令部首脳部は、戦場に対する責任も、部下に対する愛情も、なかったと言われて致し方ない」「このときに、(富永)軍司令官は、参謀たちの全くのロボットであった」と評している[302]

特攻を指揮したことで「愚将」と誹られることも多く[303]、富永の命令によって、所属の重爆撃機を「菊水隊」という名前で、無理な白昼の特攻出撃をさせられ全滅した第5飛行団の飛行団長小川小二郎大佐からも、「一億国民の体当りを呼号し、特別攻撃隊を石つぶてのごとく乱投せる第4航空軍司令部の真の正体をあらわしたるものなりき」などと、特攻に偏りすぎた無能拙劣なものであったと非難されている[304]。フィリピン戦で陸軍航空隊は210機を特攻に投入し、251名の搭乗員を失っており[305]、そのうちで富永が指揮した第4航空軍の特攻機は148機で、これは第4航空軍の通常攻撃を含めた艦船攻撃での総損失機数342機中で43.2%を占めているが[306]、フィリピン戦における日本陸海軍合計での特攻による損失機数650機は、戦闘における全損失機数約4,000機の14%に過ぎなかった[307]。それに対して連合軍は、特攻によりフィリピンだけで、22隻の艦艇が沈められ、110隻が撃破された(海軍の戦果も含む)。これは日本軍の通常攻撃を含めた航空部隊による全戦果のなかで、沈没艦で67%、撃破艦では81%を占めており[308]、特攻は相対的に少ない戦力の消耗で、きわめて大きな成果をあげたことは明白であった[309]。また、フィリピン戦においてアメリカ海軍の将兵だけで4,336名が戦死し、830名が再起不能の重傷を負ったが、この中の大半が特攻による損失であった[310]。特攻に痛撃を浴びせられたアメリカ軍は「特攻が開始されたレイテ作戦の前半には、レイテ海域に物資を揚陸中の輸送艦などの「おいしい獲物」がたっぷりあったのに対して、アメリカ軍は陸上の飛行場が殆ど確保できていなかったので、非常に危険な状況であったが、日本軍の航空戦力の主力は通常の航空作戦を続行しており、日本軍が特攻により全力攻撃をかけてこなかったので危機は去った。」と特攻への戦力投入が少なかったので危険を脱したと評価していた[311]アメリカ太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツ元帥も、フィリピン戦で特攻により被った損害を見て「特別攻撃隊という攻撃兵力はいまや連合軍の侵攻を粉砕し撃退するために、長い間考え抜いた方法を実際に発見したかのように見え始めた」と特攻が大きな脅威になったと評してており、純粋に軍事面からのフィリピン戦の特攻作戦に対するアメリカ軍の評価は総じて高い[312]

フィリピン戦で特攻を直接指揮した大西や、同じく沖縄戦で指揮した第五航空艦隊司令長官の宇垣纏中将の海軍の指揮官2人が、戦後に責任をとって死を選んだのに対して、富永や、沖縄戦で陸軍の特攻を指揮した第6航空軍司令官の菅原道大中将の陸軍の特攻指揮官2人は、自決することもなく天寿をまっとうしたことなどで、日本国内では今日でもバッシングされることが多い[313]。その急先鋒は、数々の著作で旧日本軍を激しく糾弾していた作家の高木俊朗であり、高木の著作の記述が、富永と菅原の悪評を増幅させたという指摘もある[314]。高木の著作はノンフィクション風ながら、時折、高木の創造が混じっているとの指摘もあり[注釈 2][315]、菅原の次男で作家の深堀道義は、高木の著作の記述によって富永、菅原共に実状以上の悪評が定着してしまったと評しつつも、富永については幼少時より家族付き合いをし(菅原と富永は同郷)、その人間性を昔からよく知っているため、あまり同情はできないとしている[316]

家族親族編集

 
富永の長男富永靖陸軍少尉(特攻にて大尉に特進)
 
富永の長男富永靖が所属した第58振武隊(髑髏隊)の四式戦闘機「疾風」、尾翼の釜茹髑髏のマークが特徴
妻:富永セツ
英語教育者貞方猛の息女、富永がシベリア抑留時は経済的に困窮したが、富永が帰国時に「喜びの乾杯をあげたい」とマスコミの取材に答えたため、軍の高官の家族としての反省が足りないと一部の国民からバッシングされた。後年は富永と戦友会などの会合に一緒に参加することもあった。
弟:富永昌三
海軍少将。1937年の人事局員を皮切りに、佐世保人事部員、同課長、1944年に呉鎮守府の人事部長など人事畑を歴任、終戦時少将。1981年4月15日に87歳で死去。
弟:富永謙吾
海軍中佐。大本営報道部員。戦史研究家。「大本営発表の真相史 元報道部員の証言」(新版・中公文庫)ほか多数の著作あり。
義弟:森田徹
陸軍少将。富永の妹と結婚。剣道5段、銃剣術5段と文武に秀でていた。歩兵第71連隊長としてノモンハン事件に従軍。森田が連隊長に着任した直後の1939年8月にソビエト連邦軍の大攻勢が開始され、森田はノロ高地に構築した陣地で迎え撃った。戦車を先頭として、守る日本軍兵士が『黒山のような』と形容したほどのソ連軍歩兵の大群が何度も攻撃してきた。森田は陣頭に立って将兵を鼓舞、日本兵は戦車に肉薄すると手榴弾を何個も縛り付けた結束手榴弾を投げつけ、ソ連軍歩兵とは高地の至る所で白兵戦を展開し、何度もソ連軍の攻勢を撃退した[317]。しかし、苦戦中の森田の元に軍司令部から、攻勢移転のため連隊全兵力を攻撃開始位置に移動せよとの命令が入った。ソ連軍の大攻勢により防戦一方の前線の実状を全く把握していない軍命令に苦慮しつつも、軍命令を無視するわけにもいかず、森田の独断で、連隊の全兵力ではなく一部を攻撃開始地点に移動させ、森田はそのままノロ高地に残った。このため、ただでさえ少なかった兵力が部隊の転出によりさらに手薄となってしまい、各拠点が孤立して戦うこととなった。それでも、森田連隊は勇戦を続けて、8月22日にはノロ高地北翼に攻め込んできた戦車18輌を、速射砲火炎瓶などを駆使し13輌を撃破して撃退した。中には戦車に飛び乗ってツルハシで砲塔のハッチをこじ開け車内に結束手榴弾を投げ込み撃破した日本兵もいた[318]。森田連隊の勇戦むなしく、8月26日にノロ高地の戦況が最後の段階に達すると、森田は壕から出てわずかとなった連隊の将兵に最後の訓示を行い、ソ連軍の重機関銃の銃撃を受け戦死した。8月8日に連隊長に着任しわずか18日での出来事であった[319]
長男:富永靖
陸軍大尉。富永は中学生のときから、英語の教育者でもあった祖父貞方の影響もあってか英語に堪能で、親友の鈴木啓正と、将来、英語の普及のため英語の弁論大会を開催しようと約束をしていた。のちに鈴木は陸軍士官学校卒業し任官、富永は慶應義塾大学卒業後に特別操縦見習士官1期生となったが、いずれも特攻隊員に志願した。富永は、第58振武隊員(特攻隊員)として、1945年5月25日、父恭次から貰った日章旗と母セツが準備した千人針を携えて、四式戦闘機「疾風」爆装機に搭乗し都城飛行場より出撃し特攻戦死した。出撃時の態度があまりに堂々としていたため、見送りにきた第100飛行団の参謀が後で「あの隊員は誰だ」と下士官に尋ねたところ「富永閣下のご子息です」という答えが返ってきたという。富永の特攻志願には父親の汚名返上という思いも大きかったとされる。富永の戦死後、親友の鈴木に「出撃のときは父から贈られた日の丸で鉢巻し、母から頂いた千人針を身につけて行きます。敵艦に突入するとき、君の名を叫びながら。さようなら」という富永の遺書が届けられている。鈴木はこのときの気持ちを「神様、自分は国のために死ななければならない。でも生きたい。もし、生き残ることができたら私が富永君と中学時代から計画していた英語弁論大会の事業を必ずやります」と記している。鈴木は、特攻に志願しながらも戦後まで生き残り、親友富永との約束通り英語弁論大会の開催に尽力、日本学生協会を設立し、高松宮宣仁親王にはたらきかけるなど、大変な苦労をしながら1949年に第1回目の開催にこぎ着け、この後も設立者として大会の運営に尽力した。この英語弁論大会は、学生の英語弁論大会としては日本最高峰とも称される「高円宮杯全日本中学校英語弁論大会」に発展していった[320]
娘婿:河村次郎
陸軍少佐。陸軍士官学校50期、終戦時は第43軍の参謀。

関連項目編集

脚注編集

注釈編集

  1. ^ 富永がエチアゲ南飛行場から出発する際に、乗機に芸者を同乗させたとか、ウィスキーを満載していたなどというデマもあったが、富永の出発を見送った報道班員の新聞記者や軍人、富永の乗機を護衛した戦闘機搭乗員の回想では一切そのような記述はないので事実無根である。ただし、富永の撤退後の大輸送作戦のさいには、フィリピン脱出の輸送機に、報道班員の新聞記者のほかに、従軍看護婦や、日本軍が愛用していたマニラの料亭「広松」の女将や芸者といった女性が、軍属扱いとして優先的に搭乗できたため、富永の乗機に同乗したというデマに繋がった可能性が高い。同様にウィスキーを搭載したというデマについては、富永は酒宴の席は好きでも、酒そのものは苦手であり、ウィスキーを持ち歩くほどではなかったという証言もあるうえに、1945年10月26日付朝日新聞記事では「部下特攻隊を置去り歸国した富永指揮官 生きてた佐々木伍長の嘆き」という記事に、報道班員の同盟通信社記者の話として「ツゲガラオ地區司政長官增田某の如きは重爆一ぱいに秘蔵のウイスキーを満載して台湾に向つたりした事実もあつた」という記述があり、富永ではなく増田司政長官がウイスキーを乗機に満載して脱出したというエピソードが記述されている。
  2. ^ 例として、海軍の神風特攻隊指揮官を命じられた関行男大尉が精神不安定となり、取材に来た報道班員の小野田記者に拳銃を突きつけ「お前はなんだ、こんなところへきてはいかん」と怒鳴ったなどとする。高木の文藝春秋1975年6月号の記述は、小野田本人からそのような事実はなかったと否定されている。

出典編集

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