寛政の改革(かんせいのかいかく)は、江戸時代中期、松平定信老中在任期間中の1787年から1793年に主導して行われた幕政改革である。享保の改革天保の改革とあわせて三大改革と並称される。

背景編集

 
松平定信

前代の田沼時代は最初期から天災飢餓が続出していた。宝暦明和期は大旱魃や洪水など天災が多発し、江戸では明和の大火にて死者は1万4700人、行方不明者は4000人を超えた。このように変事が続いたため年号を安永に変更し安寧を願った。当時の落首でも「明和九も昨日を限り今日よりは 壽命久しき安永の年」とうたっており天災が収まることが願われた。しかし、その後も天災地変は続き、天災・疫病、三原山・桜島・浅間山の大噴火、そして天明の大飢饉が起こった。このような背景により田沼時代は一揆打ちこわしが全国各地で激発した時代だった。宝暦から天明期の38年の間に発生した一揆の数は600件近くあり、都市騒擾も150件以上にのぼった[* 1]。また件数の増大だけでなくその規模も拡大していた。それに対し田沼は処罰の厳罰化にて対応しようとした。全国的な一揆・打ちこわしの広まりは幕藩体制の弱体化を示しており、幕府の権威は大きく揺らいだ。また、定信政権自体が「打ちこわしが生んだ政権」でもあった。江戸の打ちこわしがなければ田沼派が失脚し定信が老中に就任することはなかった。杉田玄白は「もし今度の騒動なくば御政事改まるまじなど申す人も侍はべり」と指摘している。田沼時代は幕藩体制が解体に向かう重要な転換期であった。

そんな田沼時代が終わった当初、農業人口は140万人も減少しており、幕府財政は天明の大飢饉の損害と将軍家治の葬儀のため、100万両の赤字が予想されていた。このような財政難の解消、崩壊する封建的社会構造の維持が求められる中で田沼の功利主義の元、民衆を顧みなかった時代とは違う、民衆を慰撫する政策が求められることとなった。もはや処罰の厳罰化だけで民衆の反動に対応できる状況でなくなっていた。そのような背景の元、寛政の改革は始まった。民衆蜂起の再発防止と、そのための本百姓体制の再建を図るべく、解体する農村の復興や暮らしに困る人々に対する福祉政策、財政再建のための即効性のある緊縮政策を行い、為政者と財産のある富裕層の連携の元、改革を実施していくこととなる。

内容編集

改革において、定信は主に農政や福祉に重点を置いた政策を行い農業人口の増加と荒れ地の復旧に努めた。農具代・種籾代の恩貸令、その返済猶予令、他国出稼制限令、旧里帰農奨励令など、荒廃した農村の復興を図った。

飢饉対策として、各地に籾蔵を設け、さらに年貢徴収の役人である代官の不正を厳しく取り締まった。また、江戸では、改革直前の1787年5月に、数日間にわたる打毀騒動があったことから、その再発防止のための都市政策の整備が緊要の課題であったため、石川島無宿者を収容する人足寄場を設置したり、窮民救済のための七分積金令の発令や町会所を設置したりなど、貧民蜂起の予防策を実施した。

このうち、石川島人足寄場や町会所、あるいは勘定所御用達の制度などは、幕末期まで存続している例が多く、これらは江戸時代における福祉制度の充実という点で大きな成果といえる。

さらに、江戸へ流入した農民で故郷へ帰農を願い出た者には、道中の旅費や農具代を与えるという旧里帰農奨励令を発布し、打毀の主体となる都市貧民を少なくし、あわせて農村人口を増加させようという、一石二鳥の政策を試みた。流通市場の統制にも見るべきものがあり、物価の引下げや米価の調節に熱心に取り組み、また上方経済圏に対し関東経済圏の相対的地位の引上げに努め、江戸の豪商10名を勘定所御用達に登用したり、上方からの下り酒に対抗して、地廻り酒の改良と御免関東上酒の試造を豪農に命じたりなどと、「江戸地廻り経済」の活性化と技術成長を促し「上方一強」の打破を目指した。

金融市場の統制にも積極的であった。公金の低利貸付を盛んに行い、民間金融市場の利子率の引下げを促した。また、旗本御家人の困窮財政を救うため、札差に対して棄捐令を発したのは有名であるが、金融業者の札差の受けた損害は実に118万余にも上った。このほか情報・思想統制にも力を入れ、出版の取締りを強化するとともに、寛政異学の禁を出して、朱子学の一層の振興を図った。なお異学の禁は、幕府に忠実な封建官僚育成の意図をも有していた。

このような徹底した統制政策や行政改革を実施し、田沼時代から継承した商業政策、緊縮政策の継続もあり、黒字に転じることに成功する。定信が失脚したころには備蓄金として20万両の貯蓄が確保された。

しかし1793年7月、定信は突然老中を解任されることとなった。その背景として尊号一件などにより、家斉等と定信との対立、そしてあまりに厳しい緊縮政治の結果、士庶(武士や庶民)の不満が集中していたことがあげられる。ロシアの使節ラクスマンの来航に端を発する外交や沿岸防備の問題に重大な決意をもって臨んでいた最中であり、不本意な解任であり、落首にて「五、六年金も少々たまりつめ、かくあらんとは誰も知ら川」と歌われた。

しかし、定信が失脚した後も、後任の老中首座となった松平信明を初めとする寛政の遺老たちによってこの改革の方針は引き継がれ、文化14年(1817年)に信明が病没し、水野忠成が新たな老中首座となって幕政の方針を転換させるまで改革が続くこととなった。

田沼政権との連続性編集

通説では松平定信は田沼意次の政策をことごとく覆したとされるが、近年ではむしろ寛政の改革には田沼政権との連続面があったと指摘される。

著書「江戸時代の古文書を読む―寛政の改革」においては、「定信の反田沼キャンペーンは、かなり建前の面が強く、現実の政治は、田沼政治を継承した面が多々みられる。とくに学問・技術・経済・情報等の幕府への集中をはかったことや、富商・富農と連携しながらその改革を実施したことなどは、単なる田沼政治の継承というより、むしろ田沼路線をさらに深化させたといってよいであろう」[1]と書いている。

日本中世・近世史を専門とする高木久史は自書「通貨の日本史」の中で、近年では定信と田沼政権との間には連続面があったことも重視されていると書き、その一つとして通貨政策をあげている。定信は1788年、江戸の物価を抑えるため[* 2]に明和二朱銀の製造を停止し元文銀を増産させた。高木は「製造は停止したが、通用は停止していない。あくまで金貨・銀貨相場を是正しようとしたものであり、田沼政権の通貨政策そのものを否定しようとしたわけではない。1790年には、二朱銀を、あまり通用していなかった西日本[* 3]の各国でも使うよう強制した。結果、金貨単位計量銀貨の使用がむしろ定信政権の時期になって広まった。新井白石が萩原重秀の通貨政策をことごとく覆したことと対照的である」[2]と書いている。

他の通貨政策としては田沼は金札・銭札、許可したもの以外の銀札の通用を停止するなど、紙幣経済の発達を阻害するような政策を行ったが、松平定信は寛政2年(1790年)に伊勢神宮の御師や伊勢山田商人が発行していた山田羽書山田奉行(伊勢奉行)発行に変更し、準備金の範囲内での発行、偽札対策などを徹底させるなどといった近代的な紙幣政策をおこなっており、山田羽書は事実上の幕府発行の紙幣といえる状態にするなどと紙幣政策においては、むしろ田沼よりも進歩的な政策を行っている。山田羽書が幕府すなわち山田奉行所の管理下に置かれたことにより、商人の都合による乱発が防がれ、通貨供給量が安定することとなった[* 4]

日本近世史を研究する藤田覚は自書「勘定奉行の江戸時代」の中で、「寛政から文化期の財政経済政策は、緊縮により財政収支の均衡を図ることを基本とし、批判の強かった運上・冥加金の請負事業の一部を撤回したが、基本的に田沼時代を引き継ぎ、独自の積極的な増収策をみることはできない」と書き、寛政の改革・遺老の経済政策は独自の政策はないものの、運上・冥加金の一部撤回を除けば、基本的に田沼時代を引き継いでいると述べている。同様に高澤憲治が自著「松平定信」において「幕府が改革において講じた経済政策は、株仲間や冥加金、南鐐二朱判、公金貸付など、実は田沼政権のそれを継承したものが多かった」[3](p90)と述べている。

実際、藤田覚や高澤憲治が述べた通り株仲間をことごとく解散させたなる通説とは異なり、定信は大部分の株仲間を存続させている。改革当初、株仲間を結成させて運上金を徴収したことが物価高騰の原因だとして、株仲間の廃止を上書する者たちがいたが、定信は株仲間に対し物価の調整とともに運上金の上納にも期待していたため、改革当初に株仲間と運上金をごく少数廃止したほかは大部分を存続させている。また天明七年には自領にて治安維持のため質屋株仲間を結成させて高利に苦しむ人々の救済をはかっている[3](p4)(p87,161)

また通説では、田沼を積極財政、定信を緊縮財政とすることが多いが、藤田覚は田沼の政治を「出る金は一文でも減らす」支出を減らす緊縮財政[4]と自書で書いており、藤田は田沼時代の財政経済政策を前代以来の財政緊縮策を継続させたとし、田沼時代を緊縮財政と説明している。

歴史の流れとして田沼時代を享保・寛政の改革とは別のものではなく、洋書輸入の解禁や株仲間の結成など享保期の政策が実を結んだ結果として田沼時代が誕生したのであって、意次の登場によって唐突に田沼時代という新しい時代が到来したのではなく、田沼時代を享保期からの延長線のものと論ずるのが現在の通説となっている[5][6]。同時に定信が寛政改革発足時に発布した天明7年の3年間の倹約令を指して田沼の積極財政から逆転する緊縮政策だと通説で語られることも多いが、実のところは、田沼自身が天明3年より、7年間の倹約令を発布しているので、少なくとも定信が行った天明7年からの3年間の倹約令は田沼の政策からの逆転どころか、田沼失脚によって行われなかったはずの残りの年数を消化しようという田沼の政策をそのまま追認したものである。このように、田沼と定信を指し、積極財政VS緊縮財政などと言われがちであるが、実際のところは定信の緊縮政策は田沼の緊縮政策を追認、深化した田沼政治からの連続性といえるものも多い。

主な政策・改革編集

経済政策編集

囲米
諸藩の大名に飢饉に備えるため、各地に社倉義倉を築かせ、穀物の備蓄を命じた。また、江戸の町々にも七分積金とセットにして実施が命じられた。
旧里帰農令
当時、江戸へ大量に流入していた地方出身の農民達に資金を与え帰農させ、江戸から農村への人口の移動を狙った。1790年に出され、強制力はなかった[7]
棄捐令
旗本御家人などの救済のため、札差に対して6年以上前の債権破棄、および5年以内になされた借金の利子引き下げを命じた。
猿屋町会所
棄捐令によって損害を受けた札差などを救済するために、資金の貸付を行ってその経営を救済して、今後の札差事業や旗本・御家人への貸付に支障がないように取り計らった。
人足寄場
無宿人、浮浪人を江戸石川島に設置した寄場職業訓練した。治安対策も兼ねた。
商人政策
田沼時代の重商主義を改め、株仲間や専売制を廃止した
七分積金
七分積金は、町々が積み立てた救荒基金で、町入用の経費を節約した4万両の7割に、幕府からの1万両を加えて基金にした。町入用の経費は、地主が負担し、木戸番銭・手桶・水桶・梯子費用、上水樋・枡の修繕費、道繕・橋掛け替え修繕・下水浚い・付け替えなどに使われた。この制度はその後の幕府の財政難にもかかわらず厳格に運用されて明治維新の際には総額で170万両の余剰があった。この資金は東京市に接収されて学校の建設や近代的な道路整備などのインフラストラクチャー事業にあてられたという。

その他

  • 米価抑制のため、米を大量に使う造酒業に制約を加えて、生産量を3分の1に削減するように命じた。
  • 田沼意次が推進した南鐐二朱銀丁銀に改鋳しなおして物価の抑制を図った。後に再度南鐐二朱銀を復活させた。
  • 定信失脚後、定信の路線を継承した松平信明によって、相対済令が出された。

学問・思想編集

寛政異学の禁
柴野栗山西山拙斎らの提言で、朱子学を幕府公認の学問と定め、聖堂学問所を官立の昌平坂学問所と改め、学問所においての陽明学古学の講義を禁止した。この禁止はあくまで学問所のみにおいてのものであったが、諸藩の藩校もこれに倣ったため、朱子学を正学とし他の学問を異学として禁じる傾向が次第に一般化していった。
処士横議の禁
在野の論者による幕府に対する政治批判を禁止した。海防学者の林子平などが処罰された。さらに贅沢品を取り締まる倹約の徹底、公衆浴場での混浴禁止など風紀の粛清、出版統制により洒落本作者の山東京伝黄表紙作者の恋川春町、版元の蔦屋重三郎などが処罰された。
学問吟味
江戸幕府が旗本・御家人層を対象に実施した漢学の筆答試験。実施場所は聖堂学問所(昌平坂学問所)で、寛政4年(1792年)から慶応4年(1868年)までの間に19回実施された。試験の目的は、優秀者に褒美を与えて幕臣の間に気風を行き渡らせることであったが、慣行として惣領や非職の者に対する役職登用が行われたことから、立身の糸口として勉強の動機付けの役割も果たした。類似の制度として、年少者を対象にした素読吟味(寛政5年創始)、武芸を励ますための上覧などが行われた。
文教振興
改革を主導するにあたって幕政初期の精神に立ち戻ることを目的とし、『寛政重修諸家譜』など史書・地誌の編纂や資料の整理・保存などが行われた。また、近江堅田藩主で若年寄として松平定信とも親交のあった堀田正敦など好学大名も文教振興を行った。

その他編集

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 一揆の増大は、重税に耐えかねてという面もあった。田沼は米以外の課税を推進したが、だからといって年貢を減らしたわけではなく、新たな課税と共にできうる限りの高年貢率の維持に腐心した。
  2. ^ 田沼が丁銀から南鐐二朱銀への改鋳を推し進めた結果、秤量銀貨の不足による銀相場高騰を招き、天明6年(1786年)には金1両=銀50匁に至ることとなり、江戸の物価は高騰した。凶作による商品の供給不足もあり、年号とかけて「年号は安く永しと変われども、諸色高直(こうじき)いまにめいわく(明和9/迷惑)」と狂歌が歌われた。また歴史学者の西川俊作は、自書「日本経済の成長史」の中で二朱銀の流通がゆっくりとしか拡大しなかったことから、意次の目的は、貨幣制度の統一ではなく、専ら貨幣発行益を獲得することにあったと結論付けている。
  3. ^ 1780年代、田沼が銭を大量発行したことで銭安になっており、西日本では計算通貨として秤量銀貨を使った方が有利だった。また、基本的に銭しか使わない庶民は銭安に苦しんだ。
  4. ^ 寛政の改革以前は山田羽書には準備金はなく、御師個人の信用と不動産の保証のみであったが、寛政の改革以降は大阪城に保管された羽書株仲間の上納積立金計8,080両と、羽書取締役6名の上納金5,500両の正貨準備金を保持することになるなど、より近代的な仕様となり信用強化が行われている。また、羽書の発行限度も原則として20,200両とされていたが寛政の改革で山田奉行管轄となった時には発行高は28,283両余と、8,083両余の空札が出ていた為、全ての空札を銷却を命じられるなど、信用崩壊の危機を脱している。

出典編集

  1. ^ 徳川黎明会徳川林政史研究所 (2006). 江戸時代の古文書を読む―寛政の改革. 東京堂出版. p. 8 
  2. ^ 高木 久史 (2016). 通貨の日本史 - 無文銀銭、富本銭から電子マネーまで. 中公新書 
  3. ^ a b 高澤憲治 著、日本歴史学会 編集 『松平定信』吉川弘文館人物叢書〉、2012年。
  4. ^ 藤田覚 (2018). 勘定奉行の江戸時代. ちくま新書 
  5. ^ 辻善之助 1980, pp. 345-357, 解説 佐々木潤之介.
  6. ^ 藤田覚 2002, pp. 17-29, 「享保の改革」.
  7. ^ 坂本賞三 ・福田豊彦監修。『総合日本史図表』(2000年1月10日 改訂11刷発行。 第一学習社) 246頁に「1790 11 江戸からの帰村を奨励」と記載されている。
  8. ^ 関口すみ子『御一新とジェンダー:荻生徂徠から教育勅語まで』 東京大学出版会 2005年 ISBN 4130362232 pp.91-98.

参考資料編集

参考文献編集

  • 竹内誠『寛政改革の研究』吉川弘文館、2009年。ISBN 978-4-642-03438-8
  • 高木 久史 『通貨の日本史 - 無文銀銭、富本銭から電子マネーまで』 中公新書 2016年 ISBN 978-4-12-102389-6
  • 藤田覚 『勘定奉行の江戸時代』 ちくま新書 2018年 ISBN 978-4-480-07113-2
  • 徳川林政史研究所 『江戸時代の古文所を読む―寛政の改革』 2006年 ISBN 4490-20590-2

関連項目編集