寺院諸法度
江戸幕府が仏教寺院に対して定めた諸法度
寺院諸法度(じいんしょはっと)は、江戸時代に、江戸幕府が仏教寺院に対して定めた諸法度の総称である。ただ、定まった呼称はなく、文献によっては「諸宗寺院法度(しょしゅうじいんはっと)」・「諸宗諸本山法度(しょしゅうしょほんざんはっと)」などの呼称が用いられる事もある。
概要 編集
儒教、とりわけ朱子学を重んじる政策を進めた江戸幕府も、その一方で、寺領を安堵し、伽藍の整備をも推進していたが、それと同時に僧侶の統制を図る目的から、各宗の僧に対して設けられたのが、寺院諸法度である。
禅宗の場合、
などの法度が順次、発令された。
五山十刹諸山法度においては、従来の「(鹿苑)僧録」、「蔭涼職」が廃止され、1619年、江戸に「(金地院)僧録」が新設され、黒衣の宰相の異名をもつ以心崇伝が任命された。その当初は、この新たな僧録によって禅宗全体の統制を図ったが、その統率は五山派のみにしか及ばなかった。
崇伝没後の1635年、寺社奉行が設けられると、寺院の管掌は寺社奉行が取り仕切ることとなり、僧録の権限は更に縮小されることとなった。基本的には、五山派の触頭を職掌とすることとなる。
その後、1665年になって寛文印知による寺領安堵と合わせて全ての宗派・寺院・僧侶を対象とする共通の諸宗寺院法度を導入した。