寿町 (横浜市)
寿町(ことぶきちょう)は神奈川県横浜市中区の町名。現行行政地名は寿町1丁目から4丁目(字丁目)。住居表示未実施区域。郵便番号は231-0026[3]。寿町を中心とし、周囲の扇町や松影町を含む約60,000平方メートルほどの地域を指して寿地区と呼ぶこともある。
寿町 | |
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北緯35度26分22.2秒 東経139度38分21.6秒 / 北緯35.439500度 東経139.639333度 | |
国 |
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都道府県 |
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市町村 |
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区 | 中区 |
面積 | |
• 合計 | 0.070km2 |
人口 | |
• 合計 | 3,686人 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
231-0026[3] |
市外局番 | 045 (横浜MA)[4] |
ナンバープレート | 横浜 |
寿町の位置 |
概要編集
寿地区は首都高、根岸線を挟んで関内の反対側に位置し日雇労働者が宿泊するための「ドヤ」という簡易宿泊所が100軒以上立ち並び「ドヤ街」と呼ばれる地区である(ドヤ街は、日雇労働者の就労場所と合わせて寄せ場とも呼ばれる)。寿地区は、東京都の山谷、大阪市のあいりん地区(釜ヶ崎)と並ぶ三大寄せ場の1つとされる。
寿地区周辺は、第二次世界大戦後、1955年までアメリカ軍によって接収されていた。接収終了後、職業安定所の寿町への移転や簡易宿泊所群の建設がはじまった。これにともない、日ノ出町周辺や黄金町付近の大岡川沿岸バラック群(大岡川スラム)、さらに水上ホテルといった宿泊施設から港湾労働に携わる日雇労働者が、大勢移入。まもなくドヤ街が形成された。
他の寄場とは異なる寿地区のドヤの特徴は「門限なし」「自室に入るまでの廊下での外履き」が挙げられる。
歴史編集
第二次世界大戦で大空襲によって焼け野原になった横浜中心部のうち、寿町界隈は接収解除後の10年間治安が乱れ、放火や乱闘騒ぎ、麻薬の売買、賭博、売春、売血事件が頻発した。中田志郎・著『はだかのデラシネ』(1983年)によると、あまりの無法状態に一部の人々は、開拓期のアメリカになぞらえて「西部の街」と呼んだという。 日本返還後、1956年頃より在日韓国人が多く進出するようになり、この一帯の地主となった。(中田著・前掲書205頁、267頁)さらに1965年ころからは暴力団が台頭してきてこの街の支配を在日韓国人と二分することとなる。
年表編集
- 1667年 - 吉田勘兵衛が海を埋め立て、「吉田新田」が完成する。なお、寿地区は当時「南一ツ目」と呼ばれた遊水池(沼地)であった。
- 1818年 - 「横浜新田」完成。
- 1853年 - 「太田屋新田」完成。
- 1859年 - 横浜港が開港。
- 1872年10月 - 大区小区制に基づき、第1大区4小区に属す。
- 1873年4月 - 吉田新田と太田屋新田・横浜新田間の沼地が埋め立てられ、市街地を形成。生糸や材木などの市が並び賑わう。このとき当時の謡曲等にちなみ、「寿町」・「扇町」・「翁町」・「松影町」・「不老町」・「蓬莱町」・「万代町」と名付けられた各町が起立する(これらの町を「埋地7か町」または単に「埋地地区」とも言う)。
- 1878年5月 - 郡区町村編制法に基づき、横浜区に編入される。
- 1889年4月1日 - 横浜市に編入される。
- 1927年4月1日 - 横浜市中区に編入される。
- 1945年5月29日 - 第二次世界大戦中の横浜大空襲。米軍による無差別爆撃により、一帯が焼け野原となる。
- 1945年9月2日 - 終戦。米軍に接収され、いわゆる「かまぼこ兵舎」が建てられる。
- 1950年 - 朝鮮戦争勃発。米軍の軍需輸送が増し、横浜港近くの当地域に労働者が集まって来る。
- 1955年 - 米軍の接収が解除される。
- 1956年7月 - 横浜公共安定所(本所)が寿町4-149-1にある公設市場へ総工費10,908千円で買収し改築した上で移転。
- 1956年10月 - 最初の簡易宿泊所「ことぶき荘」(現:豊荘)が開業。
- 1957年4月 - 桜木町から横浜公共職業安定所横浜労働出張所日雇労働者柳橋集合所が移転する。
- 1961年 - 血液銀行が転入。
- 1962年 - 横浜公共安定所(本所)が寿地区外へ移転。跡地は1968年より神奈川県匡済会寿福祉センターが使用。
- 1963年 - 簡易宿泊所の数が80軒を超える。
- 1973年 - 簡易宿泊所の数が89軒になる。
- 1979年 - 寿町フリーコンサート実行委員会が職安前で「寿町フリーコンサート」を開催(以後、毎年8月に開催)。
- 1983年 - 横浜浮浪者襲撃殺人事件発生。以後、木曜パトロールの会が見回りを開始。
- 1993年 - 寿支援者交流会設立。
- 2003年 - 横浜市ホームレス自立支援施設 設立
- 2005年 - 簡易宿泊所の空室を改装し旅行者を受け入れる、「ヨコハマ・ホステル・ビレッジ計画」が始まる。
ヨコハマ・ホステル・ヴィレッジ編集
2005年6月に今まで「ドヤ街」という雰囲気を払拭し、地域の活性化を図るために「YOKOHAMA HOSTEL VILLAGE」という計画が始動した。スローガンは「寿町「ドヤ」から「ヤド」へ 」。この計画は簡易宿泊所が多くある当地域を活かして簡易宿泊所を改装・改良し、バックパッカーなど短期滞在者を多く呼ぼうというものである[1]。観光地にも近く普通のホテルよりも安いため、評判はまずまずのようである。しかし近辺に風俗店などが並んでおり治安の面で問題があること、心ない一部の観光客が物見遊山で訪れ日雇労働者の写真を勝手に撮ってトラブルになる等の問題点が少なからずあり、それを解決することが今後の課題となっている。
世帯数と人口編集
2017年(平成29年)12月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
丁目 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
寿町1丁目 | 397世帯 | 697人 |
寿町2丁目 | 508世帯 | 596人 |
寿町3丁目 | 2,029世帯 | 2,125人 |
寿町4丁目 | 262世帯 | 268人 |
計 | 3,196世帯 | 3,686人 |
小・中学校の学区編集
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[5]。
丁目 | 番地 | 小学校 | 中学校 |
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寿町1丁目 | 全域 | 横浜市立南吉田小学校 | 横浜市立横浜吉田中学校 |
寿町2丁目 | 全域 | ||
寿町3丁目 | 全域 | ||
寿町4丁目 | 全域 |
施設編集
- 横浜家庭裁判所
- 横浜公共職業安定所横浜港労働出張所日雇専門
- 神奈川県社会文化会館
- 寿町総合労働福祉会館
- 労働福祉センター幼稚園
認定NPO法人さなぎ達(平成30年2月活動終了)- かながわ労働プラザ(Lプラザ)
- 多目的ホール
- 音楽スタジオ
- 日本バプテスト横浜教会
- 日本基督教団 寿地区センター
- 認定NPO法人ろばと野草の会
- 中村川
- 寿町公園
- 扇町公園
- 吉浜町公園(石川町)
- ボートピア横浜
- 横浜市ホームレス自立支援施設
- 首都高速花園橋換気所
医療編集
寿町勤労者福祉協会診療所(寿町総合労働福祉会館内)- 寿町健康福祉交流センター診療所(内科・精神科・心療内科)
- 寿町健康福祉交流センター健康コーディネート室
- ことぶき共同診療所
- 健仁外科医院
- 寿町歯科室
交通編集
寿町にちなむ作品編集
脚注編集
参考資料編集
- 書籍『寿町保健婦日記』渡部幸子・著 NHK出版 1977年
- 書籍『はだかのデラシネ 横浜・ドヤ街・生きざまの記録』中田志郎・著 マルジュ社 1983年
- 書籍『寿町 風の痕跡 消えた男の「空白の七年間」』川原衛門・著 田畑書店 1987年
- 書籍『いのちといのちとの出会い 日雇労働者の街、横浜寿町にて』益巌・著 新教出版社 1988年
- 書籍『女赤ひげドヤ街に純情す 横浜・寿町診療所日記から』佐伯輝子・著 一光社 1991年
- 書籍『風の自叙伝―横浜・寿町の日雇労働者たち』野本三吉・著 新宿書房 1996年
- 書籍『裸足の原始人たち—横浜・寿町の子どもたち』野本三吉・著 新宿書房 1996年
- 書籍『生きなおす、ことば—書くことのちから 横浜寿町から』大沢敏郎・著 太郎次郎社エディタス 2003年
- 書籍『横浜コトブキ・フィリピーノ』レイ ベントゥーラ・著、森本 麻衣子・訳 現代書館 2007年
- 書籍『横浜・寿町と外国人—グローバル化する大都市インナーエリア』山本 薫子・著 福村出版 2008年
- 書籍『消えた横浜娼婦たち』檀原照和・著 データハウス 2009年(第四章に寿町の接収解除後、黄金町からたくさんの人が移り住んだ、という記述がある)
- 映画『寿ドヤ街 生きる』渡辺孝明・監督 1981年
関連項目編集
- ドヤ街
- どっこい!人間節 寿・自由労働者の街(1975年公開の映画)
- 南警察署 (神奈川県) - 開設当初は隣接する扇町に在った事から、長年「寿警察署」と名乗っていた。
- 貧困ビジネス
- 反貧困ネットワーク
- 寿町