尊快入道親王(そんかいにゅうどうしんのう、元久元年4月2日[1]1204年5月3日〉 - 寛元4年4月2日[1]1246年4月19日〉)は、鎌倉時代前期の皇族天台宗の僧侶。後鳥羽天皇の第七皇子で、母は修明門院。初名は寛成[1]。天台座主73世[2]とされているが、後述の事情で現在の歴代法主には数えられていない。

経歴 編集

承元2年(1208年)、承円に入門して、建保2年(1214年)に出家する[1]。天台教学を修め[2]梶井門跡となる[1]

承久3年(1221年)4月に天台座主に補任されるが、補任の宣命を受ける前に承久の乱が起きたために、同年7月に辞退という形でその地位を追われた[1][2]

承久の乱の関係者とされたことに加え、皇統が後鳥羽院の系統から兄の後高倉院の皇統に移ったことも影響したと考えられている[注釈 1][3]

寛元4年(1246年)、43歳で薨去した[1]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 天台座主の地位は1代おいて後高倉院の第一皇子である尊性法親王が継承している。同様のことは真言宗の住職で皇族しか就けなかった御室(仁和寺門跡)でも発生し、後鳥羽院の第二皇子である道助入道親王も後高倉院の第二皇子である道深法親王への譲渡を迫られ、譲渡の要件を満たした9年後に道深が御室を継承している。

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g 『国書人名辞典』
  2. ^ a b c 『日本仏教人名辞典』
  3. ^ 曽我部愛「承久の乱後の王家と法親王」(初出:『人文論究』第59巻第4号(2010年)/所収:曽我部『中世王家の政治と構造』(同成社、2021年) ISBN 978-4-88621-879-7) 2021年、P90.

参考文献 編集

  • 市古貞次『国書人名辞典 3』岩波書店、1996年。P97.「尊快親王」
  • 日本仏教人名辞典編纂委員会 編『日本仏教人名辞典』法蔵館、1992年。P464.「尊快」