小倉 泰美(おぐら やすよし、1916年5月18日 - 1995年5月24日)は、日本の映画監督である[1]氏家 彰(うじいえ あきら)、北見 一郎(きたみ いちろう)とも名乗った[1]

おぐら やすよし
小倉 泰美
本名 小倉 泰美 (おぐら やすよし)
別名義 氏家 彰 (うじいえ あきら)
北見 一郎 (きたみ いちろう)
生年月日 (1916-05-18) 1916年5月18日
没年月日 (1995-05-24) 1995年5月24日(79歳没)
出生地 徳島県徳島市
死没地 千葉県船橋市
職業 映画監督
ジャンル ドキュメンタリー映画教育映画ピンク映画
活動期間 1930年代末 - 1988年
主な作品
仔熊物語・野性のめざめ
テンプレートを表示

人物・来歴 編集

1916年(大正5年)5月18日徳島県徳島市に生まれる。

1939年日本大学芸術学部を中退し、日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)に入社。1942年(昭和17年)4月16日に公開された山本弘之監督の『第五列の恐怖』では、「助監督」としてクレジットされている[1]日活の製作部門は、戦時統制のため同年1月10日には合併して大日本映画製作(のちの大映、現在の角川映画)になっており、小倉は大映に残り、同年10月1日に公開された五所平之助監督の『新雪』には、「演出助手」(助監督)としてクレジットされている[2]

1946年大映を退社し、小倉プロダクションを設立。1949年、『忍術物語』で監督デビュー。 その後、今村貞雄関孝二による製作会社ラジオ映画で、原千秋と共同で監督した『仔熊物語・野性のめざめ』が、1950年(昭和25年)7月29日に大映が配給して公開された記録がある[1]。以降、教育映画を手がけるようになる。

1966年(昭和41年)、ヒロキ映画が製作した成人映画女の秘密』を監督、同年2月に公開されている[1]。1968年(昭和43年)、小倉は小倉プロダクションとして『性の悪態』を製作、「北見一郎」の名でこれを監督、同年12月に公開している[1]。以降、ピンク映画については、「北見一郎」の名で監督している[1]。1971年(昭和46年)を最後に、1977(昭和52年)までの間、ピンク映画を手がけた記録がないが、同年8月9日に公開された『獣色母娘』を大蔵映画で初めて監督し、以降、すべて、同社配給の作品を手がけるようになる[1]

1980年(昭和55年)4月21日に公開された『金髪トルコ 泡立ち昇天』以降数作、「北見組」として、大蔵映画から受注製作を行う[1]

1988年(昭和63年)、小倉が手がける教育映画の現場に、市原剛が助監督として参加し、師事するようになる[3]

1995年5月24日、千葉県内の病院で心筋梗塞のため逝去[4][5]

フィルモグラフィ 編集

特筆以外「監督」である[1]

1940年代 - 1950年代
1960年代
1970年代
1980年代

製作会社 編集

小倉プロダクション(おぐらプロダクション)、北見組(きたみぐみ)、いずれも「北見一郎」以外が監督した作品を製作していない[6][7]。したがって、同2社のフィルモグラフィは、「北見一郎」(小倉泰美)のそれと重複する[1]。法人組織、あるいは小倉の個人商店であるのかは不明。「小倉プロダクション」は、1968年(昭和43年)に最初の、1986年(昭和61年)に最後の製作記録があり、「北見組」は、1980年(昭和55年)にのみ製作記録が残っている[1]

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 小倉泰美日本映画データベース、2012年5月31日閲覧。
  2. ^ a b 新雪東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年5月31日閲覧。
  3. ^ 市原剛日本映画監督協会、2012年5月31日閲覧。
  4. ^ 小倉泰美、日本映画監督協会、2012年5月31日閲覧。
  5. ^ 『映画年鑑 1989』(時事映画通信社、1989年)には氏名・住所等が掲載されている。
  6. ^ site:jmdb.ne.jp 小倉プロ、「日本映画データベース」ウェブサイト内に限定したGoogle検索結果、2012年5月31日閲覧。
  7. ^ site:jmdb.ne.jp 北見組、「日本映画データベース」ウェブサイト内に限定したGoogle検索結果、2012年5月31日閲覧。

参考文献 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集