小倉 全由(おぐら まさよし、1957年4月10日 - )は、千葉県長生郡一宮町出身の高校野球指導者。旧姓は斉藤

小倉 全由
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県長生郡一宮町
生年月日 (1957-04-10) 1957年4月10日(66歳)
選手情報
ポジション 内野手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
指導者歴
第105回全国高等学校野球 西東京大会優勝 日大三高(神宮球場 2023年7月29日)
第105回全国高等学校野球 西東京大会優勝 日大三高(神宮球場 2023年7月29日)

プロ野球選手・監督の森繁和ははとこにあたる[1]。またタレントの小倉優子は親戚。

経歴 編集

一宮町立一宮中学校時代はエースで4番[1]。同級生にタレントのあご勇がいた[1]

日大野球部に在籍していた6歳上の兄の勧めで東京都にある日大三高に進学[1]。高校では内野手だったがレギュラーにはなれず。日本大学では野球部には入らなかったが、高校野球の指導者を志し、母校である日大三高のコーチを務めていた[2]

大学卒業後の1981年関東一高野球部監督に就任。1985年夏の甲子園に甲子園初出場しベスト8に進出した。1987年・春の甲子園では下手投げの平子浩之投手(東洋大-日本通運)と三輪隆捕手のバッテリーを擁し準優勝に導く。成績不振を理由に1988年に一旦監督を辞任という形で退くが1992年12月に復帰。辞任した際には練習場には一切出向かず、髪型を角刈りからソフトパーマに変えるなどして野球から完全に離れた。

1997年に母校の日大三高の監督に就任。2001年夏の甲子園で、甲子園歴代最高記録(当時)となるチーム打率.427を記録することになる強力打線を率い、同校初の夏の全国制覇を達成。2010年春の甲子園では自身2度目の準優勝。2011年夏の甲子園では、髙山俊横尾俊建らを擁し、初戦から6試合連続二桁安打、4試合で二桁得点、6ホーマーという強力打線とエース・吉永健太朗の全試合登板の力投で自身2度目の夏の全国制覇を達成する。

先述の2001年夏チームのように豪快な攻撃野球を持ち味とし、学校の所在地から“町田の闘将”と称された[3]

映画『仁義なき戦い』が大好きで、大学時代に母校でコーチをやっていた時は、毎日新宿昭和館で『仁義なき戦い』の3本立てを観て母校に戻り、広島弁で「わりゃ!コラッ!」などと怒鳴りながらノックをしていたという[4]。現在も練習では選手を褒めて伸ばす指導を行う一方、“瞬間湯沸し器”を自称するように時々大きな雷を落とす(例えば寮の掃除ができていない時など)厳格な一面を併せ持つ。ただ、単身赴任して選手と共に寮生活を行い時には選手と湯船につかったり叱った選手を監督室に招きいれスイーツをつまみながら叱った理由などを話し合うなどしている。選手たちからは「父親以上の存在」と言われるほど慕われており、実際に2011年夏の優勝メンバーはインタビューで常々「監督を男にする」「小倉野球が日本一だと証明する」と語っていた。

高知の強豪校である明徳義塾は、甲子園での初戦の戦績は2018年春の甲子園が終了した時点で、33試合で28勝5敗(うち20連勝という大記録もあり)であるが、この5敗のうち2敗を付けたのが小倉である(上記の1987年春の甲子園と、2011年春の甲子園)。

日大三高の教職員(公民教諭)の定年(65歳)から、2023年2月9日に同年3月末をもって監督を勇退することが発表された[5]。学校からは慰留されたが、監督退任と共に日大三高も退職する。監督生活最終日となった、2023年3月31日には、町田市の日大三高野球場で帝京高校と練習試合を行い、最後の指揮を取った[6]。試合は2度先行されながらも2ランとソロのホームランで追い付き、3対3で引き分けた[6]。試合後には、長年東京で競い合った帝京高校野球部前監督の前田三夫から感謝の言葉を受けた[6]。後任監督には、野球部部長の三木有造が就任した[6]

2012年の第25回AAA世界野球選手権大会において、日本代表監督を務め、6位で大会を終えた。また、2023年12月に馬淵史郎の後任としてU-18日本代表監督に再び就任した[7][8]

主な教え子 編集

関東一
日大三

甲子園での成績 編集

  • 関東一:出場4回・7勝4敗・準優勝1回(春:出場2回・4勝2敗・準優勝1回/夏:出場2回・3勝2敗)
  • 日大三:出場18回・30勝16敗・優勝2回・準優勝1回(春:出場7回・10勝7敗・準優勝1回/夏:出場11回・20勝9敗・優勝2回)
  • 通算:出場22回・37勝20敗・優勝2回・準優勝2回

脚注 編集

  1. ^ a b c d 加藤弘士 (2022年8月5日). “「てめえ、ぶつけやがってこの野郎」やんちゃだった“補欠”の球児が甲子園37勝の名将になるまで「甲子園に出た監督で一番球歴のない男です」”. Number Web. 2022年8月6日閲覧。
  2. ^ 加藤弘士 (2022年8月5日). “「てめえ、ぶつけやがってこの野郎」やんちゃだった“補欠”の球児が甲子園37勝の名将になるまで「甲子園に出た監督で一番球歴のない男です」(ページ3)”. Number Web. 2022年8月6日閲覧。
  3. ^ スポーツ報知2010年8月16日付。2010年夏の甲子園2回戦で、沖縄代表の興南(同年春の決勝で日大三高と対戦)が、馬淵史郎率いる高知代表の明徳義塾を下した記事。同校が小倉や高嶋仁(智弁和歌山)、前田三夫(帝京)、阪口慶三(大垣日大)といった甲子園20勝以上の監督率いるチームを春に続き撃破したことから、エースの島袋洋奨は“名将キラー”だという内容。
  4. ^ 「短期集中連載・高校野球の名将たち 第一回 王者・日大三高 小倉全由」、「週刊現代」 2012年7月7日号、172頁
  5. ^ 宣宏, 小山. “《独占手記》「2度の電撃解任を乗り越えて…」甲子園常連「強打の日大三」を作り上げた小倉全由監督が“引退表明”「高校野球は誰のものか?」最後に問いかけた”. 文春オンライン. 2023年2月9日閲覧。
  6. ^ a b c d “日大三・小倉全由監督、監督生活最後の1日「前田さんがいたから…」前田三夫氏からの労いに万感”. 日刊スポーツ. (2023年3月31日). https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/202303310000645.html 2023年3月31日閲覧。 
  7. ^ “【U18】高校ジャパン次期監督に小倉全由氏 日大三で甲子園2度V 馬淵史郎監督からバトン”. 日刊スポーツ. (2023年12月1日). https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/202312010000618.html 2023年12月1日閲覧。 
  8. ^ 侍ジャパンU-18代表監督の決定について”. 野球日本代表 侍ジャパンオフィシャルサイト (2023年12月1日). 2023年12月1日閲覧。

参考文献 編集

関連項目 編集