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小室浅間神社(おむろせんげんじんじゃ)は、山梨県富士吉田市にある神社旧社格郷社で、現在は神社本庁別表神社

小室浅間神社
OmuroSengen ShintoShrine.jpg
拝殿
所在地 山梨県富士吉田市下吉田5221
位置 北緯35度29分41.36秒
東経138度48分11.40秒
座標: 北緯35度29分41.36秒 東経138度48分11.40秒
主祭神 木花咲耶姫命
社格郷社
別表神社
創建 (伝)大同2年(807年
別名 下宮
例祭 9月19日
主な神事 流鏑馬神事
筒粥祭
御更衣祭
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全国にある浅間神社の一社。旧称冨士山下宮浅間神社[1]

冨士山下宮小室浅間神社」とも称するほか、地元では「下宮(しもみや)さん[2]」「下浅間(しもせんげん)」とも呼ばれる。

目次

歴史編集

社伝によれば、延暦12年(793年)、征夷大将軍坂上田村麻呂が東征の際、吉田の地より富士山を遙拝して戦勝を祈願し、戦勝後の大同2年(807年)、神恩に感謝して社殿を造営したのに始まるという。

上吉田・下吉田・松山の三郷の総鎮守とされ、中世には武田家祈願所として崇敬した。

かつて下吉田の集落は現在の下吉田東町にあり、現在境外末社である東町金毘羅神社のある地に祀られていたが、雪代被害が多く現在の地に集落と共に移転し、剣丸尾溶岩を背負う形で移された[2]と伝わる。

江戸時代、富士北麓最大規模の寺院、月江寺の鎮守でもあり、明治までは祭礼で月江寺僧の諷経が行われていた。

明治に入り氏子地域であった上吉田を北口本宮冨士浅間神社に割譲し、それまでの「冨士山下宮浅間神社」から現在の「小室浅間神社」に改称した。「小室浅間神社」とは、富士河口湖町勝山の冨士御室浅間神社旧本宮と里宮の旧称で、それぞれ「下宮」は小室に「小室」は冨士御室に社号を改称した。

 
小室浅間神社(下宮)本殿、覆殿に囲われており外からは見えない

本殿は天正年間(ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年)の造り、文化財の登録はしていない。

2004年(平成16年)の新潟中越地震の数日後、本殿前の大鳥居が倒れる事故が起こった。当地でも、余波で微弱な地震が起きたが関係があるかは不明である。倒壊前後には、付近に人通りはほぼ無く、けが人は出なかったが、その後数年間は復旧されなかった。2010年7月、神体の着衣を替える「御更衣祭」の附帯事業として大鳥居の再建が実現した。

下宮の由来編集

富士山の下宮であり、具体的な上宮は存在しない。なぜ下宮と呼ばれるのかについては諸説ある。

元々単に「宮」と呼称されていたが、上吉田の諏訪ノ森にある諏訪神社境内に新たに祀られた北口本宮冨士浅間神社等、各村々で浅間大神を祀り始めたため区別する必要から、富士の北麓では古くから富士山の方角を上と呼ぶ為、他の浅間神社より富士山の下手に在る宮として「下宮」と呼称されるようになった。

「宮」と呼称されていたが、昔から河口湖の人々が吉田方面を下と呼んでいる為、河口湖浅間神社と比較して「下宮」と呼ばれるようになった。

また、一説には富士山二合目にある小室浅間神社(現・冨士御室浅間神社旧本宮)を「上宮」(つまり山宮)とし、それに対する呼称(つまり里宮)といわれる[3]

富士吉田市内には北口本宮冨士浅間神社が上吉田に、この小室浅間神社が下吉田にあるため、北口本宮の呼称「本宮」に対して当神社を「下宮」と呼称しているとの誤解を招きやすい。

ただ、一般的には北口本宮を「上浅間・上浅」小室浅間神社を「下浅間・下浅」と呼ぶことが定着しているため、上記の誤解を招く元となっており、「下浅間」とは本来『甲斐国志』や『八葉九尊図』等古文書にもある様に、現北口本宮冨士浅間神社の通称であり、その『甲斐国志』には「是古社殿ナキ以前富士浅間遥拝ノ地ニ築ク後神祠ヲ創造シ小室浅間明神ヲ勧請スト云」「小室ヲ上浅間ト云此祠ヲ下浅間ト稱スルハ本小室ト同社ノ謂ナリトソ、又下吉田ニ浅間アリ是ヲハ下ノ宮浅間ト稱ス」と記されており、北口本宮の浅間明神が二合目の小室浅間神社(現冨士御室浅間神社)「上浅間」から勧請したことで「下浅間」と言われること、別個下吉田に下宮浅間(現小室浅間神社)があることが解る。

明治に「冨士山下宮」から「小室」に改称した事と、現代通称「下浅間」とも呼ばれる事から由来が混同しやすく解り難い。

祭事編集

流鏑馬祭り編集

 
神馬舎と飼育されている神馬

 例祭は9月19日に行われ、「馬蹄占」をする流鏑馬神事が有名である。地元では「うまっとばかし」(馬をとばす(甲州弁)=馬を走らせる(標準語))と呼ばれる。境内では流鏑馬に使う神馬が飼育されている。この馬は日本中央競馬会から奉納されたものである。

 この例祭は一般的に知られる流鏑馬と異なり、農耕信仰及び土地の人々に密接した変わった流鏑馬神事で、山梨県無形民俗文化財に指定されている。世襲の「占人(うらびと)」が馬の足跡によって吉凶を占う「馬蹄占」と「切火」と呼ばれる一週間に渡る潔斎が特徴的である。

 流鏑馬の馬は、氏子が馬主になって奉納するのが決まりであり、祭りは1月15日筒粥祭明けの馬主・奉仕馬申込と選定「馬出しのくじ占」から始まり、9月1日の「初馬揃」9月9日「中馬揃」9月13日「潔斎始」9月15日「後馬揃」9月18日「天神社への参向ならびに天神社山王祭」「例大祭宵宮祭」9月19日「例大祭流鏑馬祭」9月20「後祭」以降、各町「お日待ち・秋葉講」と神事が続く。

かつて、自家で馬を飼育していない家では、馬を飼育する地内の家や他村の農家などに依頼し祭礼の期間だけ馬を借り受けていた。時代の流れと共に、馬を飼育している家もなくなり、現在では神社で馬を飼育して使用している。

 かつては、中の茶屋の近くにあった騮ヶ馬場[4]で行われ、勝山富士河口湖町冨士御室浅間神社里宮の鎮座地)地区と共に奉納されていた。しかし、流鏑馬の主導を巡り村間の争いが激しくなっていったため、享禄3年(1530年)に武田氏の家臣である板垣信賢(※板垣信方のこと)の達により、各々の村で奉納されるようになった。現在の馬場は明治からと伝えられている。

 
富士山神輿

2007年(平成19年)に、担ぎ手が不足し途絶えていた富士山神輿が半世紀ぶりに復活し、9月18日の宵祭りに神輿巡行が行われている。

馬出しの神籤祭編集

 1月15日早朝、筒粥祭の占いの結果が公表された後に、流鏑馬祭奉仕希望者の申込が行われ、正午から神事による奉仕馬のくじ引きが行われる。かつては6頭と定められた奉仕馬に、30から60頭もの申し込みがあった。その家から流鏑馬の奉仕馬・馬主を出すことは大変な名誉であった。近年では、定数以上の奉仕馬の申込が無く申込の受付のみで祭儀は行えていない。

初馬揃祭編集

 9月1日、例大祭に出る馬は全て神社に集まり、神事が行われる。各馬主は稽古鞍授与の神籤を引き、占人より稽古用の馬具一式を受け取る。その後、馬場見せ・馬場ならし・馬駆けを行う。(現在は、神社飼育の神馬で境内の馬場で練習等が行われている)

中馬揃祭編集

 9月9日、奉仕馬が集まり、神事の後、馬場ならし・馬駆けを行う。

潔斎始祭編集

 9月13日、神事にて流鏑馬祭り当日に使用する本鞍・馬具を決める神籤がひかれ、木花咲耶姫命の御姿の軸、御幣などが授与される。流鏑馬馬主・奉仕者はこの日より神社境内の潔斎館に移り住み精進潔斎の生活に入る。かつては各馬主の自宅で行われており、妻をはじめ、奉仕者以外の家族全員を親戚縁者の家に出し、木花咲耶姫命の御姿の軸を祀った祭壇を設けて家を清め奉仕者や助勤者のみで男所帯の共同生活が行われていた。

後馬揃祭編集

 9月15日、中馬揃祭と同じ。

山王社宵宮祭編集

 9月17日、馬主・奉仕者は山王社に参拝し弓取の儀が行われて、占人から儀式の伝授をうける。

山王社祭・流鏑馬祭宵宮祭編集

 9月18日、日中小室浅間神社より神職・占人・馬主・奉仕馬等、流鏑馬に関係する諸人が行列を組んで山王社への参向が行われ、富士山神輿が巡行する。

 その夜、宵宮祭が行われ、神籤により馬主ごとに「朝馬」「夕馬」の役馬の担当が決められる。

 祭礼を通して馬具は「占人」が管理しており、馬の額を飾る「オテンゴー、御天狗」は馬の鬣(タテガミ)を組紐で編んだもので、馬形埴輪の額に付された角状の飾りを継承したものと考えられており[4]、祭礼当日早朝に「占人」が整える。

 
夕馬疾走、馬の額にある角状のものが「オテンゴー」

例大祭流鏑馬祭編集

 9月19日、神事で矢、弓、的が馬主に渡され、「朝馬」「夕馬」の順番で流鏑馬をし、足跡による占い「馬蹄占」が行われる。最後に「山王さん(山王馬)」のノッパライ(乗り払い)が行われる。これは秋の収穫を見届けた山の神をヤマ(富士山)に送っていくからという。18日の「天神社への参向ならびに天神社山王祭」を行う下仲「天神社(山王社)」の伝承に「下宮の馬場をひと馬場借りて、山王さんのウマットバシをする」とあり、山王馬のノッパライとの係りが推測される[4]

流鏑馬後祭編集

 9月20日、流鏑馬「馬蹄占」の結果が報告され、ただちに各町に伝えられる。

お日待ち編集

 
特色である「馬蹄占」をする「占人

 流鏑馬祭りが終わると、各町内に神職を招き「馬蹄占」の結果をもとに「お日待ち・秋葉講」と呼ばれる祭事を行う。各家庭では、その後に神職から紙垂を1枚戴き、一年間火事や争い事がなく無事に過ごせるよう祈願する。

筒粥祭編集

山梨県では当社をはじめ富士北麓地域や八ヶ岳山麓地域において筒粥神事が残されている。小室浅間神社の筒粥祭は、1月14日夜から翌日未明にかけて行われる神事。これにより年間の五穀豊穣・天候・養蚕・富士山登拝者数を占い、特に富士参詣者の多寡を占う点が特徴とされる[5]。結果は筒粥占標として公表される[6]

また、筒粥神事の後には囲炉裏からを外し、(おき)の上で「カツノキ」と呼ばれるヌルデの樹で作られた駒を乗せ、その焼き具合で天候を占う「テリフリ占い」も行われる[7]。こちらの結果も晴雨占標として公表される[8]

小室浅間神社の筒粥神事は戦国時代の富士北麓地域の年代記である『勝山記』にも「ツゝカイ」として記録されており、戦国時代の段階で占う14種の農作物とともに、ほぼ現在と一致する神事であったと考えられている[9]

筒粥神事にも世襲の「占人」一族があり、神社の主な祭儀が占い神事で、それぞれに世襲の一族が代々奉仕していることが大変珍しい。

御更衣祭編集

60年に一度、祭神木花咲耶姫命)の神体の着衣を替える「御更衣祭」が行われる。20世紀には1950年(昭和25年)、2010年(平成22年)9月19日深夜2時に実施され、次回は2070年である。「御更衣祭」の時以外に神体を目にすると、必ず良くないことが起きると伝えられている。

摂末社編集

大塔宮社・雛鶴社編集

 
本殿脇の御神木「大塔宮桂之古跡」の桂樹

境内、桂の御神木に祀られており「大塔宮桂之古跡」とも称し、「お桂さん」としても親しまれている。

南北朝時代、騒乱で討たれた大塔宮護良親王の首級を雛鶴姫が負って落ちのび、桂の御神木の根元に葬ったと古文書等で伝わる。

古文書の一つは、建武2年(1355年)9月23日清和天皇遠孫某よりの祈請書の写し(原書は所在不明)で、下宮浅間の社地にある桂の神木の元に護良親王の首級を葬ったので、新羅三郎義光像を刻んで奉納し密かに護良親王として神木と共に祀る事を望むと記されている。

 
右から雛鶴社・大塔宮社・首塚

桂の御神木は樹齢約800年で富士吉田市天然記念物に指定されている。

神馬社編集

  • 祭神:白馬像で馬の御霊を祀る。
  • 例祭:5月5日(神馬祭)

木花之開耶姫の乗り物の神馬と馬の御霊を祀る。

5月5日の神馬祭は「馬のお祭り」として親しまれており、地元商店の出店で賑わい、飼育している神馬を使った子供たちの体験乗馬等が行われている。

日枝社編集

  • 祭神:大山祇神
  • 例祭:5月5日

地元では「お猿さん」と云われ親しまれている。社殿に御使いの猿の神像が控えている。

胎内弁天社編集

  • 祭神:弁財天

溶岩樹形を利用した古祠、古い富士山信仰の形を残している。


現地情報編集

所在地
山梨県富士吉田市下吉田三丁目32-18
交通アクセス
最寄駅:富士急行線 下吉田駅 (徒歩5分)

脚注編集

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  1. ^ 慶応四年辰年八月の「富士山下宮社地取調書上帳」
  2. ^ a b 下吉田の民俗. 富士吉田市教育委員会. (1990.3.25). 
  3. ^ 『日本の神々』一宮浅間神社項。
  4. ^ a b c 吉田口登山道の騮ヶ馬場と流鏑馬. 山梨県立富士山世界遺産センター. (2019.1.1). 
  5. ^ 勝俣(2007)、p.643
  6. ^ 勝俣(2007)、p.643
  7. ^ 勝俣(2007)、p.643
  8. ^ 勝俣(2007)、p.643
  9. ^ 勝俣(2007)、p.644

参考文献編集

  • 勝俣鎮夫「「勝山記」の生活世界」『山梨県史 通史編2 中世』2007年

関連項目編集

外部リンク編集

山梨の文化財ガイド・下吉田の流鏑馬(山梨県)