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小寺 氏職(こでら うじもと)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武士筑前国福岡藩士。

 
小寺氏職
時代 安土桃山時代 - 江戸時代
生誕 不明
死没 寛永4年(1627年
改名 氏職→有庵宗雪(号)
別名 加賀守、通称:藤兵衛
主君 黒田孝高長政忠之
筑前福岡藩
氏族 小寺氏
父母 父:小寺政職[1]
兄弟 氏職良明、春日姫(大塩次郎左衛門室)、
こまん姫、天川正則
清職吉則

目次

生涯編集

父は播磨国御着城主・小寺政職で、小寺氏は同国守護赤松氏の重臣の家柄で中播磨に勢力を有していた。政職の代ではほぼ独立勢力であったものの、織田信長の勢力が播磨にまで及ぶようになると織田氏に臣従していた。しかし天正6年(1578年)に織田方から離反して、織田氏に対する毛利氏方につくようになった。しかし籠城の末、天正8年(1580年)御着城は落城する。それに前後して氏職は父と共に御着を離れ英賀を経由し、毛利氏あるいは毛利氏の下にいた将軍足利義昭を頼って備後国鞆の浦へと逃れた。

父・政職は天正12年(1584年)に没した[2]。その際、旧臣であった黒田孝高の仲介により播磨へ戻ることが許され、飾磨津に居住した。九州平定後に黒田長政豊前国中津12万石を与えられると、孝高の招きによって中津へ移り、客分として遇される。関ヶ原の戦いののち黒田氏が筑前福岡藩に移封されるとそれに従い、その後は大宰府で余生を送った。与えられた石高は200石だったという。寛永4年(1627年)に大宰府で没。

子はいずれも福岡藩士となり、末裔には「職」の通字を代々称した家系(清職(きよもと)の子孫)と、後に藤田氏と改姓した家系(吉則(よしのり)の子孫)が伝わっている。現在はいずれも小寺氏を名乗っている。

脚注編集

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  1. ^ 『播磨御着郡誌』所蔵の系図によると政職の孫で、父は職勝(もとかつ)としている。
  2. ^ 『播磨御着郡誌』による。『黒田家譜』では天正10年(1582年)没とする。

参考文献編集

  • 御着史跡保存会 編『播磨御着郡誌』
  • 御着史跡保存会 編『播磨御着郡誌 別冊』
  • 貝原益軒『黒田家譜』

関連作品編集