小山 清(こやま きよし、1911年明治44年)10月4日 - 1965年昭和40年)3月6日)は東京出身の小説家太宰治の門人としても知られる。

人物 編集

東京府東京市浅草区新吉原(現在の東京都台東区千束)の廓内に生まれる。生家は兼東楼という貸座敷業を営んでいたが、盲目の父は家業に関係せず義太夫を謡っていた。

府立三中を経て、明治学院中等部卒業。18歳のとき人生への煩悶から洗礼を受けるも、数年で脱会。母の死後、一家離散の憂き目を見る。島崎藤村の世話で日本ペンクラブ初代書記になるも、公金を使い込み、水戸刑務所に8ヶ月間服役する。出所後、下谷竜泉寺町界隈で新聞配達をしていたが、1940年(昭和15年)に太宰治の門人となる。太宰が戦時中に疎開している時期、太宰宅の留守を預かる。

第二次世界大戦後まもなくは炭坑夫として、夕張の炭坑で働き2年足らずを過ごす。この時期に太宰が死去。

同じ頃から太宰に預けていた原稿が売れるようになり、作家となる。1952年(昭和27年)に『文學界』に発表した「小さな町」や『新潮』発表の「落穂拾ひ」など、一連の清純な私小説で作家としての地位を確立。 1951年(昭和26年)に「安い頭」が第26回芥川賞候補に、1952年に「小さな町」が第27回芥川賞候補に、1953年(昭和28年)「をぢさんの話」が第30回芥川賞候補にあげられた。

1952年亀井勝一郎夫妻を仲人にして、18歳下の関房子と結婚。1953年に長女美穂、1955年に長男穂太郎が誕生。

1956年、同人誌「木靴」を創刊。題はシャルル=ルイ・フィリップの言葉に因んだもので、後に芥川賞を受賞する弟子の[1]宮原昭夫などが同人として参加した。

1958年(昭和33年)、心臓障害による脳血栓から失語症となる。以後は妻の稼ぎに依存しつつ生活保護を受けて暮らしたが、1962年4月13日、生活の困窮からノイローゼ気味であった妻が、練馬区の雑木林で睡眠薬ブロバリンを服用して自殺

1965年(昭和40年)3月6日、急性心不全で死去。53歳没。

長男は、東京藝術大学美術学部絵画科教授の小山穂太郎[2][3]

著書 編集

(わが師への書、聖アンデルセン、落穂拾ひ、夕張の宿、朴歯の下駄、安い頭、桜林)
  • 『小さな町』筑摩書房 1954
(小さな町、をぢさんの話、西郷さん、離合、彼女、よきサマリア人、道連れ、雪の宿、與五さんと太郎さん、夕張の春)
  • 『犬の生活』筑摩書房 1955
(犬の生活、早春、前途なほ、西隣塾記、生ひ立ちの記、遁走、その人、メフィスト)
  • 『幸福論』筑摩書房 1955
  • 『落穂拾ひ・聖アンデルセン』新潮文庫 1955、復刊1994
  • 『落穂拾ひ 他六篇』角川文庫 1957
  • 『日日の麺麭』筑摩書房 1958
(スペエドの兵士、麻雀、ゴタ派、啓吉、紙幣の話、ある靴屋の話、紅いサンダル、クラ爺や、捨吉、日日の麺麭、聖家族、旅上、浅草、痼疾、栞、風貌

編纂 編集

  • 『太宰治の手紙』編 木馬社 1952
    • 新版『太宰治の手紙 返事は必ず必ず要りません』河出文庫 2018
  • 『太宰治集』編 河出書房 市民文庫 1953
  • 『太宰治研究』編 筑摩書房 1956
  • 『太宰治 近代作家研究アルバム』編 筑摩書房 1964

伝記 編集

  • 田中良彦『評伝小山清』朝文社 2008
  • 戸石泰一『青い波がくずれる 田中英光/小山清/太宰治』本の泉社 2020

外部リンク 編集

脚注 編集