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小崎 登明(おざき とうめい、1928年昭和3年)3月1日 - [1]、本名・田川幸一[1])は、日本カトリック修道士。長崎の被爆体験者の一人[2]アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で死亡した聖人マキシミリアノ・コルベの研究家として知られる[3][4]

目次

略歴 編集

1928年、当時は日本統治下にあった朝鮮半島の羅津に生まれる[5]。本籍は、長崎市外海町黒崎[1]

父親は、隠れキリシタンの末裔で、カクレ・キリシタンの里といわれている長崎県・旧外海(そとめ)の出身。遠藤周作文学館のすぐ近くに生家がある。母親は、長崎市の浦上キリシタン。羅津在住当時、町で唯一のカトリック信者であり[5]、その両親からカトリック信仰を受け継いだ[6]。 

1935年(昭和10年)、羅津で精肉店を営んでいた父が急死[7][5]1941年(昭和16年)にカリエスを患い帰国し、[7][1]母親の実家である長崎市浦上へ移り住む[5]長崎医科大学附属病院(現・長崎大学病院)に1年半入院した。退院後、大学の耳鼻科研究室の補助員を勤めた[7]。1944年(昭和19年)より三菱兵器製作所の工員となり、長崎市郊外にあった三菱重工業長崎兵器製作所住吉トンネル工場(道ノ尾第六工場)で働く[7][8]

1945年(昭和20年)8月9日長崎原爆投下時には、爆心地から2.3キロメートル離れた住吉トンネル工場内で航空魚雷の部品を製造中に被爆[7][1]。爆心地から約500メートル地点にあった岡町の自宅[8]は焼失し、母親は遺体も発見できなかった[9]。10月8日、コルベ神父によって創設された聖母の騎士修道院を訪れ、ゼノ・ゼブロフスキー修道士やミロハナ神父に迎えられた[7][10]。これをきっかけにコンベンツァル聖フランシスコ修道会の修道士となる道に進む[1]

聖母の騎士小学校や椿原中学校校長を務めた[1]

1991年(平成3年)、聖母の騎士修道院内の聖コルベ記念館担当となり、その後館長を務めた[1]。母親の50回忌となる 1994年(平成6年)8月9日より、被爆体験を語る語り部として活動を始める[11]

脚注編集

  1. ^ a b c d e f g h 『西九州キリシタンの旅』 聖母の騎士社、巻末収録の著者紹介より。
  2. ^ しおうらしんたろう(塩浦信太郎)『焼けたロザリオ』聖母の騎士社、2009年
  3. ^ 小崎登明『身代わりの愛』聖母の騎士社、1994年
  4. ^ 小崎登明『長崎のコルベ神父』聖母の騎士社、2010年
  5. ^ a b c d ナガサキノート, p. 203.
  6. ^ 小崎登明『春いつまでも』聖母の騎士社、1998年
  7. ^ a b c d e f 小崎登明『十七歳の夏』聖母の騎士社、1996年
  8. ^ a b ナガサキノート, p. 204.
  9. ^ ナガサキノート, p. 207.
  10. ^ ナガサキノート, p. 211.
  11. ^ ナガサキノート, p. 220.

参考文献編集

  • しおうらしんたろう(塩浦信太郎)『焼けたロザリオ』聖母の騎士社、2009年 ISBN 978-4-88216-305-3
  • 小崎登明『西九州キリシタンの旅』聖母の騎士社、1994年 ISBN 4-88216-094-3
  • 小崎登明『身代わりの愛』聖母の騎士社、1994年 ISBN 4-88216-108-7
  • 小崎登明『十七歳の夏』聖母の騎士社、1996年 ISBN 4-88216-140-0
  • 小崎登明『春いつまでも』聖母の騎士社、1998年 ISBN 4-88216-175-3
  • 『ナガサキノート』 朝日新聞長崎総局編、朝日新聞出版、2009年7月30日。ISBN 978-4-02-261638-8
  • 小崎登明『長崎のコルベ神父』聖母の騎士社、2010年 ISBN 978-4-88216-321-3

外部リンク編集