小崎 登明(おざき とうめい、1928年3月1日 - 2021年4月15日[1]、本名・田川幸一[1])は、日本カトリック修道士。長崎の被爆体験者の一人[1][2]アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で死亡した聖人マキシミリアノ・コルベの研究家として知られる[3][4]

小崎 登明(おざき とうめい)
小崎 登明
誕生 田川 幸一(たがわ こういち)
(1928-03-01) 1928年3月1日
大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮
咸鏡北道
雄基
死没 (2021-04-15) 2021年4月15日(93歳没)
日本の旗 日本
長崎県長崎市
職業 カトリック修道士
国籍 日本の旗 日本
ジャンル 随筆
代表作 十七歳の夏(聖母文庫)
ウィキポータル 文学
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生涯 編集

日本統治下の朝鮮咸鏡北道羅津に生まれる[5]。本籍は、長崎市外海町黒崎[6]

父親は、隠れキリシタンの末裔で、カクレ・キリシタンの里といわれている長崎県・旧外海(そとめ)の出身。遠藤周作文学館のすぐ近くに生家がある。母親は、長崎市の浦上キリシタン。羅津在住当時、町で唯一のカトリック信者であり[5]、その両親からカトリック信仰を受け継いだ[7]。 

1935年(昭和10年)、羅津で精肉店を営んでいた父が急死[8][5]1941年(昭和16年)にカリエスを患い帰国し、[8][6]母親の実家である長崎市浦上へ移り住む[5]長崎医科大学附属病院(現・長崎大学病院)に1年半入院した。退院後、大学の耳鼻科研究室の補助員を勤めた[8]。1944年(昭和19年)より三菱兵器製作所の工員となり、長崎市郊外にあった三菱重工業長崎兵器製作所住吉トンネル工場(道ノ尾第六工場)で働く[8][9]

1945年(昭和20年)8月9日長崎原爆投下時には、爆心地から2.3キロメートル離れた住吉トンネル工場内で航空魚雷の部品を製造中に被爆[8][6]。爆心地から約500メートル地点にあった岡町の自宅[9]は焼失し、母親は遺体も発見できなかった[10]。10月8日、コルベ神父によって創設された聖母の騎士修道院を訪れ、ゼノ・ゼブロフスキー修道士やミロハナ神父に迎えられた[8][11]。これをきっかけにコンベンツァル聖フランシスコ修道会の修道士となる道に進む[6]

聖母の騎士小学校・椿原中学校諫早市)の校長を務めた[6]

1991年(平成3年)、聖母の騎士修道院内の聖コルベ記念館担当となり、その後館長を務めた[6]。母親の50回忌となる 1994年(平成6年)8月9日より、被爆体験を語る語り部として活動を始める[12]

2007年まで長崎平和推進協会の継承部会に所属。語り部として修学旅行生らに被爆体験や平和の大切さを伝えた[13]

2018年1月28日(平成30年)、長崎市原爆資料館にて、ポーランドの外務大臣名誉勲章「ベネ・メリト」を受章した[1][14][15]。ベネ・メリト勲章は、国際社会でポーランドの地位向上に貢献した人物に贈られる。

日本にポーランドの文化を伝え、両国のきずなを深めたと高く評価された。

2019年7月5日(令和元年)、地元の中学校で「平和教育講演会」の講師を務め、自らの体験を語り「平和の大切さ」・「許し合う心」を伝えた。[16]

2020年8月9日、NHKEテレこころの時代 〜宗教・人生〜」にて「弱さを希望に 〜カトリック修道士・小崎登明さん〜」が放送される[17]

2021年1月27日、毎日欠かさず書き続けてい自らのブログの中で、膵臓がんであることを明らかにした。

2021年2月25日、入院中の病院からオンラインによるビデオ会議を使って長崎平和推進協会の職員研修を行った。長崎新聞に「小崎さん“最後”の語り部活動」として掲載される[13]

2021年3月1日、93歳の誕生日を迎えた。毎日掲載を続けているブログのタイトルを「小崎登明の93歳日記」に更新。入院と信仰の日々を赤裸々に綴っている[18]

2021年4月15日、膵臓がんのため、長崎市内の病院で死去[注釈 1][20]。93歳没。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 亡くなる当日の朝まで書いたブログが最後になった[19]

出典 編集

  1. ^ a b c d 長崎新聞 (2021年4月16日). “小崎登明さん死去 被爆修道士 コルベ神父語り部 | 長崎新聞”. 長崎新聞. 2021年4月16日閲覧。
  2. ^ しおうらしんたろう(塩浦信太郎)『焼けたロザリオ』聖母の騎士社、2009年
  3. ^ 小崎登明『身代わりの愛』聖母の騎士社、1994年
  4. ^ 小崎登明『長崎のコルベ神父』聖母の騎士社、2010年
  5. ^ a b c d ナガサキノート, p. 203.
  6. ^ a b c d e f 小崎登明『西九州キリシタンの旅』聖母の騎士社、1994年 ISBN 4-88216-094-3
  7. ^ 小崎登明『春いつまでも』聖母の騎士社、1998年
  8. ^ a b c d e f 小崎登明『十七歳の夏』聖母の騎士社、1996年
  9. ^ a b ナガサキノート, p. 204.
  10. ^ ナガサキノート, p. 207.
  11. ^ ナガサキノート, p. 211.
  12. ^ ナガサキノート, p. 220.
  13. ^ a b 長崎新聞 (2021年2月27日). “初めて明かした17歳の心情 小崎さん“最後”の語り部活動を病院から 被爆当時を振り返る 長崎平和推進協会職員研修 | 長崎新聞”. 長崎新聞. 2021年4月4日閲覧。
  14. ^ ポーランド広報文化センター Instytut Polski w Tokio”. www.facebook.com. 2019年7月7日閲覧。
  15. ^ 長崎新聞 (2018年1月29日). “小崎さんにポーランド勲章 「愛と平和」伝える 国内2人目の受章 | 長崎新聞”. 長崎新聞. 2019年7月7日閲覧。
  16. ^ 長崎新聞 (2019年7月5日). “91歳の修道士 小崎登明さん 〝最後〟の被爆講話 | 長崎新聞”. 長崎新聞. 2019年7月7日閲覧。
  17. ^ 弱さを希望に”. NHK (2021年8月1日). 2021年7月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月15日閲覧。
  18. ^ 小崎登明の93歳日記
  19. ^ 小崎登明の93歳日記” (2021年4月15日). 2021年7月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月29日閲覧。
  20. ^ 平和訴え続けた修道士 小崎登明さん死去 - NHK NEWS WEB 2021年4月15日

参考文献 編集

  • しおうらしんたろう(塩浦信太郎)『焼けたロザリオ』聖母の騎士社、2009年 ISBN 978-4-88216-305-3
  • 小崎登明『西九州キリシタンの旅』聖母の騎士社、1994年 ISBN 4-88216-094-3
  • 小崎登明『身代わりの愛』聖母の騎士社、1994年 ISBN 4-88216-108-7
  • 小崎登明『十七歳の夏』聖母の騎士社、1996年 ISBN 4-88216-140-0
  • 小崎登明『春いつまでも』聖母の騎士社、1998年 ISBN 4-88216-175-3
  • 『ナガサキノート』朝日新聞長崎総局編、朝日新聞出版、2009年7月30日。ISBN 978-4-02-261638-8 
  • 小崎登明『長崎のコルベ神父』聖母の騎士社、2010年 ISBN 978-4-88216-321-3

外部リンク 編集