小幡 光盛(おばた みつもり、生没年不詳)は、戦国時代武将甲斐国武田氏の家臣で、足軽大将。武田家の足軽大将・小畠日浄(盛次)の子、兄に小畠虎盛がいる。通称は弥左衛門尉、山城守、晩年には下野守を称している。は光盛だが、他に貞長、虎昌、昌虎ともいう。

 
小幡光盛
時代 戦国時代
別名 貞長、虎昌、昌虎
通称:弥左衛門尉、山城守、下野守
主君 武田信玄勝頼上杉景勝
氏族 小畠氏/小幡氏
父母 父:小畠日浄(盛次)
兄弟 虎盛、惣七郎、弥惣右衛門、光盛(貞長)
下野守
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略歴 編集

父の日浄は遠江国勝間田の出身で、明応9年(1500年)に日浄は虎盛とともに甲斐国へ赴き、甲斐守護・武田信虎に仕えた。日浄は永正11年(1514年)に死去している。『甲陽軍鑑』によれば、兄の虎盛は永禄4年(1561年)に信濃国海津城長野県長野市)の城代である春日虎綱の副将として補佐し、海津城の二の丸に配置された。永禄4年(1561年)に虎盛が死去すると、虎盛の子息である小幡昌盛が跡を継ぐが、昌盛は信玄の旗本であることを望んだため、光盛が虎盛の遺領・同心を継承して海津城番を務めた。

文書上の所見は天正8年(1580年)の北信国衆に関する証文に見られるのみ。

天正10年(1582年)3月、織田信長武田征伐により武田勝頼が自害し、甲斐武田家が滅亡すると、信長から派遣されてきた織田家臣・森長可の傘下に入るが、同年6月の本能寺の変による信長没後は越後上杉景勝を頼った。当初は信濃国飯山城に配されたが、後に越後に移ったといわれ、その後の事績は不明[1]。天正年間には光盛とともに「小幡下野守」が登場し、光盛の実子であると考えられている。

脚注 編集

  1. ^ 『上杉家御年譜 23 諸士略系譜(1)』によると、「小幡下野昌虎 先祖信州 始山城 天正年中 御当家ニ属シ数度忠臣有り故関東明石之城ニ被差置其後信州飯山城ニ被差置 天正十年六月越後ヘ被召連節下野ニ改 慶長十年二月卒」とあり。

参考文献 編集

  • 平山優「小幡光盛」『新編武田信玄のすべて』