メインメニューを開く

小松 左京(こまつ さきょう、1931年昭和6年)1月28日 - 2011年平成23年)7月26日)は、日本小説家。本名、小松 実(こまつ みのる)。

小松 左京
(こまつ さきょう)
ペンネーム 小松 左京
(こまつ さきょう)
誕生 小松 実
(こまつ みのる)
(1931-01-28) 1931年1月28日
日本の旗 日本大阪府大阪市西区
死没 (2011-07-26) 2011年7月26日(80歳没)
日本の旗 日本・大阪府箕面市
職業 小説家
SF作家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
教育 文学士京都大学1954年
最終学歴 京都大学文学部イタリア文学科卒業
活動期間 1961年 - 2011年
ジャンル SF
評論随筆
主題 生命人類未来
未来学
代表作復活の日』(1964年)
果しなき流れの果に』(1966年)
日本沈没』(1973年)
さよならジュピター』(1982年)
首都消失』(1985年)
主な受賞歴 星雲賞日本長編部門(1971年・1974年・1983年)
星雲賞日本短編部門(1973年・1976年・1978年)
日本推理作家協会賞(1974年)
日本SF大賞(1985年)
星雲賞特別賞(2011年)
日本SF大賞特別功労賞(2011年)
デビュー作 「易仙逃里記」(1962年)
配偶者 克美(1958年結婚)
公式サイト 株式会社イオ(小松左京事務所)
Portal.svg ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

星新一筒井康隆と共に「SF御三家」と呼ばれる[1]、日本SF界を代表するSF作家であり戦後日本を代表する小説家である[2]

1970年日本万国博覧会でテーマ館サブ・プロデューサー、1990年国際花と緑の博覧会の総合プロデューサーとしても知られる。宇宙開発の振興を目的とした啓蒙活動にも力を入れ、宇宙作家クラブの提唱者で顧問も務める。

広範囲で深い教養を備えた知識人であり、その活動範囲は幅広く膨大なジャンルにわたる[3]

デビューの直後から、通常の作家の枠を超えた八面六臂の活動を初めている。ジャーナリストして国内各地を歩き、メディア出演を精力的にこなし、未来学研究会やメタボリストなど、多くの学者やクリエイターと交流をもった。1970年の大阪万博では若干40歳弱にして主要スタッフに名を連ね、関西財界や財界との密接な交流は晩年まで続いた。そのすがたは、いま「SF作家」という言葉で想像されるものをはるかに超えている[2][4]

未来を書くSF作家としてデビューし、しかも好奇心旺盛だった小松は、単なるエンタテインメント作家ではない、未来について語る新世代の知識人として、独特の期待を寄せられる運命にあったと言える。実際彼はその期待に応え、小説執筆の傍らさまざまな言論人・建築家と積極的に交流し、様々な研究会、学会の設立に参加して積極的にコミットし、新しい知識人の一角を急速に占めていった。学者財界人を相手に文明論を語り、日本論を闘わせる精力的な人物だった[2]

他方で小松は自ら製作会社を立ち上げて若い作家を集め大型SF映画の制作にも乗り出している。小松が原作、脚本、総監督、製作全てにクレジットされ、公開した映画は興行成績こそ振るわなかったこもの、ライトノベル作家やアニメーターなど、次世代のクリエーターの育成に大きな役割を果たした[2][4]

また、関西出身の知識人として京阪地域の愛着はとりわけ強く、さまざまな場でブレイン役を勤めた[2]

ほかにもエッセイや対談、メディア出演は数しれず、阪神大震災の際も活動を行っていた[2]

経歴編集

生い立ち編集

先祖阿波徳島県)の小松から千葉外房に行った漁師の一族[5]。父親は明治薬学専門学校(現・明治薬科大学)夜学在学中に東京の老舗の漢方薬屋の娘と婚約しのちに結婚した[5][6]。父親が薬学を捨て電気機械の商いを志し、大阪で金属加工の町工場を興したため、大阪府大阪市西区で五男一女の次男として生まれた[6]。4歳のとき兵庫県西宮市に転居し、その後は尼崎と西宮で育った[6]京都大学で冶金工学を専攻し三洋電機の技術者となった兄は、戦争のさなかでも科学書を読み漁り、小松に科学の知識を教えた[7]。またこの兄は、広島に落とされた新型爆弾が原子爆弾であることを教えたという[8]

少年時代は病弱で、スポーツには興味がわかず、歌と漫画と映画と読書に熱中した。また、母方の親戚がいる東京で歌舞伎を見たりもした。大阪でも文楽につれていってもらい、古典芸能についての知識も身につけた[9]。小学校5年の1941年の時に、NHK大阪放送局の子供向けニュース番組「子ども放送局」のキャスターに起用された[10]

1943年、第一神戸中学校入学。小松は、関西でいう「イチビリ」な性格で、笑芸やユーモア歌謡が好きであったため「うかれ」のアダナをつけられ、戦中は教師からにらまれていた。一方で、体が丈夫でなかったのにもかかわらず、柔道部に入った(戦後は柔道が禁止されたので、ラグビー部に転部した)[11]。終戦時は14才だったが、当時は徴兵年齢がどんどん下がっており、「このまま戦争が続いて、自分も死ぬのだろう」と考えていたが、思いもよらず生き残った。そして、沖縄戦で自分と同年齢の中学生の少年たちが、銃を持たされて多数死んでいるのを知り、「生き残ってしまったものの責任」を考え、文学をそして、将来SFを書く契機となったという[12](小松に限らず、日本のSF作家第一世代の多くは、「敗戦体験」が創作の基盤となっている)。

終戦後編集

戦後には、兄から教わったバイオリンの腕で、同級生の高島忠夫とバンドを組んでいた[13]。当時読んだ、ダンテの『神曲』の「科学的な知見も組み込んだ壮大なストーリー」に衝撃をうけ、後にSFを書く基盤ともなり、また大学ではイタリア文学を専攻することとなる[14]

1948年に中学を卒業し、第三高等学校に入学。あこがれの「旧制高校」時代は、「人生で一番楽しかった年」だったというが、本来「3年間のモラトリアム」のはずが「学制変更」で1年で終わる[15]京都大学文学部を受験して、イタリア文学科に進学。大学在学中に同人誌『京大作家集団』の活動に参加。高橋和巳三浦浩(のち、産経新聞に入社し、司馬遼太郎の部下となった人物)と交流を持つ。ほかに福田紀一とも知り合う。当時デビューしたばかりの、安部公房の作品に熱中する[16]

日本共産党に入党して、山村工作隊など政治活動を行なっていたのもこの頃である(『京大作家集団』への入会も、『入会して会を乗っ取れ』という党からの指示によるものだったという)。だが、原爆を投下したアメリカに対する反感からの「反戦平和」を唱える共産党に共鳴しての入党であり(三高以来の親友が、印鑑を偽造し、小松の知らないままに入党届けを出したという)、共産主義思想を真に信奉してのものではなかった[注釈 1]。そのため、ソ連の原爆開発にショックを受け、共産党の活動に疑問を抱き、後に共産党を離党する[17]

又、この時期に「もりみのる」「小松みのる」「モリミノル」名義で『おてんばテコちゃん』、『イワンの馬鹿』、『大地底海』等の漫画作品を雑誌『漫画王』等に発表しており、既にデビューしていた手塚治虫の影響が窺える[18]。当時の小松の漫画を愛読していた、漫画家にして漫画コレクターの松本零士とも後に親交ができ、『銀河鉄道999』の文庫版の解説も小松が記している。

ルイジ・ピランデルロについての卒論を提出して、1954年に大学を卒業。しかし、就職試験をうけたマスコミ各社の試験にすべて不合格。経済誌『アトム』の記者・父親の工場の手伝い・ラジオのニュース漫才の台本執筆等の職を経験する。また、産経新聞に入社していた三浦浩の紹介で、産経新聞にミステリなどのレビューも執筆する[19]

大学時代から、神戸一中の同級生たちと結成していたアマチュア劇団でも、戯曲執筆・演出・出演を担当していた。この時、オーディションに来た女性に一目ぼれして交際し、1958年に結婚。だが、生活は苦しく、妻の唯一の楽しみであるラジオを修理に出してしまったため、当時大阪に出現していた「アパッチ族[注釈 2]をモデルにした空想小説(カレル・チャペック『山椒魚戦争』にインスパイアされている)を書いて、妻の娯楽にあてた。この作品が、後の長編デビュー作『日本アパッチ族』の原型となった[20]

作家編集

三浦浩に知らされて1959年12月に早川書房が創刊した『SFマガジン』創刊号と出会い、ロバート・シェクリイの「危険の報酬」に衝撃を受け、自分もアメリカ流のサイエンス・フィクションを書こうと決意する。1961年、早川書房主催の第1回空想科学小説コンテスト(ハヤカワ・SFコンテストの前身)に、「小松左京」のペンネームで応募した「地には平和を」が努力賞に入選。筆名の「左京」は、姓名判断に凝っていた兄から「五画と八画の文字を使えば大成する」と助言を受け、「左がかっていた京大生だから」ということで「左京」を選んだ。「地には平和を」は『SFマガジン』には掲載されず、入会したSF同人誌『宇宙塵』に掲載された[21]

翌年の第2回SFコンテストで『お茶漬けの味』が第三席となったが、編集長の福島正実からはすでに評価されており、それを待つ事なく『SFマガジン』(1962年10月号)に掲載された『易仙逃里記』でデビューし、常連に加わる[22]

1963年、日本SF作家クラブの創設に参加(1980年-1983年星新一矢野徹に続いての三代目会長)。盛んに上京し、SF作家仲間たちと交流した。

1963年『オール讀物』に「紙か髪か」が掲載され、中間小説誌デビュー。吉田健一扇谷正造に絶賛される。同年、短編集『地には平和を』を刊行し、1963年度下半期の直木賞候補となった。1964年、光文社から処女長編『日本アパッチ族』を刊行(小松をだまして共産党に入党させた悪友の兄が光文社に入社していたため)[23]

また、このメンバーらで未来学も話題となり、1968年の「日本未来学会」の創設にも参加する[24]。他に小松、加藤、川添、川喜田二郎の4名で「KKKK団」と名乗り、1966年に雑誌『文藝』に連続対談を5回連載した[25]

1964年から始まった近畿ローカルのラジオ番組「題名のない番組」(ラジオ大阪)や「ゴールデンリクエスト」(近畿放送(現京都放送))で桂米朝らと知的で快活なトークを交わしたが,そこにあった常連リスナーからの投稿からアイデアを得て「蜘蛛の糸」「海底油田」「四次元ラッキョウ」などの多くの掌編をなした。彼の掌編はこの時期に集中している。

1965年にはベ平連創立時の「呼びかけ人」になった[26]。1966年には、東京12チャンネルに勤務していたばばこういちが主宰で、「ベトナム戦争についてのティーチ・イン」を行った際、小松は小田実開高健らとともに参加し、ベトナム戦争反対論を論じた。このイベントは、あまりに反戦論者が多かったため放送されず、ばばは、東京12チャンネルを退社した[27]

1970年には「国際SFシンポジウム」を主宰。米・英・ソ等のSF作家を日本に招き、アーサー・C・クラークジュディス・メリルフレデリック・ポールブライアン・オールディスらが参加した。また、同年の日本万国博覧会ではサブ・テーマ委員、テーマ館サブ・プロデューサー(チーフ・プロデューサーは岡本太郎)を務めた。「太陽の塔」内の展示を、岡本太郎と考え、DNAの巨大な模型を作り、生物の進化を現すようにした。また、地下スペースに、石毛直道らが収集した世界中の神像や仮面を展示。そのコレクションが、1977年オープンの国立民族学博物館の元となった[28]

1980年には、日本SF作家クラブ会長として、徳間書店をスポンサーとした「日本SF大賞」の創設に尽力。1981年1月発表の第1回受賞作には、科学を主題にした、本格的なハードSF短編集である堀晃の『太陽風交点』(早川書房、1979年)を強く推して、受賞させた。

1980年前後、東宝からのオリジナルSF映画の企画依頼に応じ、多数のSF作家を招いてブレーンストーミングを重ねたのち、小説を先行させて『さよならジュピター』を発表。映画化に際しては新会社を設立して自ら総監督兼脚本をつとめ、名目上だけではなく完全な陣頭指揮を取った。必ずしも好評価にはつながらなかったが多くのSF作家を育てた。

1986年、自身を投影した老科学者が宇宙へ飛び出し果てしない旅を続ける『虚無回廊』を執筆。この作品は結局未完となる。

1990年国際花と緑の博覧会では博覧会の総合プロデューサー(泉眞也磯崎新と共同)として活躍。また、5回にわたり「大阪咲かそ」シンポジウムのプロデュースを担当するなど執筆以外の活動も多岐にわたっている。これらのプロジェクトの経験は、のちに、著書『巨大プロジェクト動く』にまとめている[29]

2000年より角川春樹事務所が主宰で小松左京賞が設立され、選考委員を務めている(2009年の第10回をもって休止)。

2001年より同人誌『小松左京マガジン』を主宰。毎号巻頭には編集長インタビューとして小松と著名人との対談が掲載されていた。

1993年小林隆男によって発見されていた小惑星(6983)が、2002年に「Komatsusakyo」と命名された。

2006年7月からは『小松左京全集完全版』(城西国際大学出版会刊)の刊行も始まった。この全集はハードカバーとしては日本で初めてオンデマンド印刷で作られることでも注目されている。2000年1月にはすでにオンラインで注文した作品を組み合わせてオンデマンドで印刷する『オンデマンド版・小松左京全集』(BookPark)が開始されている。

2007年に日本で開催されたワールドコン Nippon2007にはデイヴィッド・ブリンと共に作家ゲスト・オブ・オナーとして招待された。

2008年には、『小松左京自伝 実存を求めて』が刊行された。

2011年7月26日肺炎のため大阪府箕面市の病院で死去。80歳没[30][31]。 没後、『復活の日』に登場するアメリカのアマチュア局コールサイン「WA5PS」が誰にも割り当てられておらず空いていることが判明、小松左京事務所に許可を求めた上で「小松左京記念局」として免許された[32]

2019年10月12日より、世田谷文学館にて、展覧会『小松左京展―D計画―』が開催された。D計画とは『日本沈没』の作中で遂行されるプロジェクト名から来ている[33][34]

小松左京と万国博覧会編集

民俗学者梅棹忠夫は小松にとってあこがれの人だった。梅棹が書いた「文明の生態史観序説」の論考のスケールの大きさに圧倒された。ヨーロッパ対アジア、東と西という座標軸でとらえていた世界史に、革命的な新しい視野をもたらしたと感動して、注目し続けていた。1963年(昭和38年)、梅棹は「情報産業論」を発表。センセーションを巻き起こした。「情報産業」は今では当たり前の言葉だが、当時は概念の新しさに世間は驚いた。梅棹が初めて用いたのだ。小松もそのオリジナリティーに瞠目した[35][36]

小松と梅棹は共に『放送朝日』に執筆していたのが縁で会い、京都・北白川の梅棹の自宅で毎週金曜の夜に開いていた「金曜サロン」、別名「梅棹サロン」にも時折出席するようになった。梅棹邸の広間に研究者や編集者など多彩な顔ぶれが集まり、自然科学、人文科学、社会科学をはじめ、京都の話から宇宙の話まで談論風発した。すばらしく刺激的で、しかも堅苦しいムードは皆無。得難い集まりだった。梅棹は大阪市大の助教授だった。目の輝きが強く印象に残る、柔らかい京言葉で繰り出す話の斬新さと面白さは無類だった[36]

1963年の終わり頃、梅棹を中心に私的研究会ができ、小松も喜んで加わった。日本の行く末について幅広く議論するのだが、堅苦しい集まりでなく、知的な遊びのような雰囲気だった。メンバーは、林雄二郎川添登加藤秀俊それに小松で、林は当時経済企画庁の経済研究所所長、川添は建築評論家、加藤は京大教育学部の助教授だった。全員が3、40代だった。日本全体が若くて、おおらかだった。何よりエネルギーにあふれていた。社会全体、風通しがよく、面白い人材もたくさんいた。そうした人たちが個人の利益や金儲けや立身出世など考えないで、知的好奇心の赴くままに愉快に語り合った。日本をどうするのか、未来はどう切り開いていくのか、気宇壮大に、そして面白半分に語り合った。翌年の東京オリンピックが話題になっていて、「五輪の次は大阪で万国博」との情報が聞こえてきたのも、ちょうどそのころだった[36]

このメンバーを主体に若手研究会による私的研究会「万国博を考える会」が結成される(その頃、新聞などではまだ「国際博」という言葉を使っていたが、「国際」という単語には近代主義的、特に「戦後近代主義」的なニュアンスがつきまとってるという梅棹の意見に皆賛成し、あえて「万国博」にした[37]。また国際というと欧米諸国のことだけしか思い浮かべず発展途上国のことも視野に入れてのことだった[38]。)

小松は当初、知的好奇心によるプライベートな集まりの研究を目的としており、国家プロジェクトとしての万博に関わるつもりはなかった[39]

昭和39年のその時点において、小松はようやくいくつかの単行本も出て、すこし生業が安定しかけたばかりの、いわばまだかけ出しの物書きであった[40]。年齢もまだ40歳にもなってなかった[4]

そもそものきっかけは1964年の春、新聞の片隅にのった「東京オリンピックの次は、大阪で国際博?」という見出しの小さなベタ記事に興味を持ったことからだった。1964年はオリンピックの年だった。「オリンピックとは、そもそも日本の社会にとってどんな意味をもつか」ということが小松たちのあいだで話題になり始めていた。しかし小松たちが関心を持ち始めた1963年の後半の時期は、ある意味でおそすぎた。オリンピックの実行体制はすでにまったく整い、巨大プロジェクト特有の「不透明性」があらわれてしまっていた。また関西からではわからないことが多かった。この時代東京・大阪間の情報交換密度は現在とは比べ物にならないほど低かった[41]

東京オリンピック予算は関連投資を含めて、1兆740数億円もの巨大投資・巨大開発がされているにも関わらず、日本の論壇と知識人はこの「東京オリンピックの異様な盛り上がり」に対して、奇妙なまでに冷淡で無関心であった[41]

まだオリンピックの方も開かれておらず成功か失敗かもわからない状態なので、万国博が果たして本当に開かられるかどうかはわからなかった。これなら今からトレースすればある程度間に合うという算段があった。ただこのときはまで「作る側」に巻きこまれることになろいうとは夢にも思わなかった。純粋な好奇心で、日本の社会の中で、この壮大なイヴェントがつくられ、利用されていく過程をそばでじっくり眺められと思ったのである[41]

考える会は最初3つの筋たてで万国博というの改めてみた。一つは万国博などという奇妙なイヴェントが、文明史の中で、なぜ生まれてきたか、それがこれまで人類社会にどういう役割を果たしてきたか、このイヴェントは1851年の第一回ロンドン博以前の長い人類文明師の中のどういう伝統とつながっているか、もしそれが、将来にかけてなお、文明に対してなにかの役割を果たし得るとしたら、どんな役割を果たすだろうか、という、いわば本質論である。2つ目は戦後のブリュッセル博シアトル博、そしてその年の4月ニューヨークで開催されて評判の高いニューヨーク博、さらにモントリオール博のそれぞれできるだけ綿密なケーススタディをやること。3番めは日本という国の中で、こういった巨大な国際的行事が作られていく過程を一種の「社会現象」としてとらえ、地域開発、財政会、官僚、学会、文化人、その他各界の反応と、対応の仕方、総合的な政治演出など、あらゆる側面から観察し、検討してみることである[41]

この時関係者が進めていた「輸出振興と万国博」にはなんとなく引っ掛かりを感じていた。たしかに万国博がいま政府が力を入れている輸出振興に繋がのは別に悪くない。政府に万国博誘致にふみきらせるための説得する材料にもなるだろう。しかし、輸出振興のために、万国博をひらくのだ、という基本性格が決まってしまうのはなんとなく具合が悪かった[41]

研究報告と3年後のモントリオール博が、テーマ作りにあたってサン・テグジュペリの作品からその相手が得られたという情報を得て会の考え方の方向はほぼ決まった。万国博が産業、技術の一大情報交換の場であった時代は19世紀中にほぼ終わった。20世紀前半は、新しいファンタスティックな建築、新しい概念の美術によって印象づけられるがこれはむしろ「過度期」の性格を持っていた。そして戦後の博覧家は、一方において「ますます大衆化されつつある世界ーー国際的大衆化社会」を基盤にし、他方に置いて、その「世界の大衆」へむかって、われわれの世界についての問題提起と、提案を展示、催しを通じて行う場、という意義と性格が強まってきている。博覧会はその直接的、経済的な効果よりその博覧会を通じて世界の大衆にアピールすべき「理念」のほうが重視されてきているのだ。そしてその方向に沿ってのみ、博覧会を開催する「意義」がある[41]

小松たちのごくささやかな「自発的研究会」ーー1964年当時は殆ど知られてなかったがーーが探り当てた結論は「日本万国博は、やりようによっては、きわめて意義のある、やる価値のあるもになり得るだろう」ということだった[41]

1964年の暮れに段階でひとまずの結論に達し、開店休業状態だった「万国会を考える会」に新しい動きがあったのは、65年の春になってからだった[39]

1965年春、初めは非公式な接触だった。当時大阪府の職員として万国博の準備にタッチしていた人物が、密かに梅棹邸に訪ねて、万国博のやり方についてどう考えていいか、知恵を貸して惜しいと申し入れた。彼は以前から梅棹に私淑していて、色々助言をもらっていた。また彼は小松とも三高、京大の同期である[39]

5月には「70年日本開催」が本決まりになったがまだこの時点でも会は「裏で知恵を貸すだけ」と考えていた。何やら政治が絡み始めていたので、厄介事に巻き込まれるのを懸念したためである[42]

そうこうするうちに政府にも国際博準備員会ができ、その事務局も接触を求めてきた、そこで考える会は「万博はかくあるべし」と考えているわけではなく、純粋に知的興味から研究するうちに「こうすれば意義のあるものにできる」という可能性が見えてきたので、それを伝えるのはやぶさかではないという基本姿勢を説明した。この時の事務局長は熱心な人で会の研究成果を真摯に聞いてくれて、会も何度もレクチャーした[42]

要は「自発的な研究会」として発足したのものが「非公式のブレーン」になってしまいには表舞台に出たという形になった[39]

ところがこうした接触を通産省サイドが快く思っていなかった。「学者が理屈をこねているだけ」「理念道楽には困ったものだ」という声も聞こえてきた。そこで会は賛同してくれた人を一同に集めて、会の存在を性格をオープンにしようということになった。9月15日、岡本太郎萩原延寿星新一真鍋博らを含む総勢35名による「万国博を考える会」の第一回総会が、大阪科学技術センターで開かれた。小松が司会役でパネルディスカッションも行った[43]

こうした中、11月の博覧会国際事務局(BIE)の理事会にテーマと基本理念を提出しなければならないという事態が持ち上がっていた。桑原を副委員長にしたテーマ作成委員会は発足していたが、いかんせん時間がなかった。そこで小松、梅棹、加藤の三人に内々に協力要請があり桑原との関係上、理念作りに協力することとなった。それまでの考える会の1年半の活動の研究成果とアイデアのおかげで短時間での制作がなんとか可能であった[44]

行きがかり上、3人は桑原のブレーンのような形になり京都で毎日のように会合を持った。小松は開催中のニューヨーク博(BIE非公認)を調べるために、ニューヨークにも行った[44]

海外行きと言えば船舶に頼るのみだった戦前の世界において極東辺境の島国という地理的事情が大きく働き、一方戦前の「万国博」は当時の「世界の中心」ヨーロッパと大西洋岸アメリカでほとんどおこなわれていた。当時、年間海外渡航客の数はせいぜい数十万からようやく70年代に百万人の大台に乗せる程度で、そのうちの半分以上はビジネス、そして旅行先も手軽なグアムハワイ台湾香港といった所が多くて、90パーセント以上の日本人は「万国」に触れずに一生を終えていた。そういったことを考えてみると、とにかく「出店」でもいいから、「万国」顔をそろえて集い来る「万国博」を、極東の日本でやる意義がありそうだ、というのが考える会の共通の感想だった[45]

モントリオール博の「モンテベロ会議」には作家哲学者科学者詩人などが集まり長期に渡る討議の末にテーマを決めていた。討議にはカナダ人でない人も参加し、テーマとサブテーマを展示をこなすにあたっては、各国の展示プロデューサーやディレクターとも会議を持っていることに注目した。テーマからプランまで国際協力でつくるということである。このやり方にさっそく乗り気になった。予算と時間切れで、このアイデアは叶わなかったが、黒川紀章などの努力で、テーマ館の空中展示の「未来の居住空間」の部分に実現した[45]

テーマ作成関係の予算は少なく、京都での会合は頻繁になったがその「会合碑」は、一部準備会が負担したものの、かなりの部分が各自負担、あるいは「考える会」事務局負担、ひどいときにはYの個人負担だった。発足後、一部は精算されたが、そのままになったものもあった[45]

依然として、博覧会当局とは「公式に」なんの関係もなく、むしろ一部からは「考える会」が白眼視されてさえいたのに、テーマ作成のために会の研究は「非公式に」どんどん使われるという妙な立場だった[45]

小松は記者から”お国のため”に引き受けたのかという質問に対し、”お国のため”の仕事を引き受けたのではなく、万国博という”人類の知的、文化的、精神的共有財産”のために仕事を引き受けたと答えた。”人類のため”あるいは”人類の未来”になんらかの形でつながっていると思えばこそ引き受けたと述べた[45]

10月5日、第2回テーマ委員会がひらかれそこで「基本理念」の起草が決まった。70年盤告白の「精神」を内外に示し、呼びかけるようなものが必要であり、それもブリュッセル博、シアトル博、モントリオール博でつくられてもののように、文明について、人類について、世界の現状について、人類の未来についての深い洞察と高い認識にもとづき、それをふまえた上で、日本における、アジア最初の万国博の持ち方をうたいあげるような、格調高いものである必要がある、というのが、ずっと前からの小松たちの考えだった[45]

次のテーマ委員会まで2週間しかなかった、その間ほとんど毎日京都で会合をもった。「聞け行く無限の未来に眼をはせつつ・・・」という文で始まる基本理念ができた。小松はエレメントの配列についての討議と、最終段階のポリッシュに参加した。ものを書く立場としてこの作業は大変参考になった[45]

最後は桑原が草案を書く役目を引き受けたため、連日泊まり込みで作業を続けた。こうして「開け行く無限の未来に眼をはせつつ・・・」で始まる基本理念の草案が出来上がり、テーマ委員会でほぼ無修正で採択された。この文章をもとにして、「人類の進歩と調和」というテーマも生まれ、正式に採択された[44]

さらに今度はそのテーマをどう展示に結びつけるかというサブテーマへの展開が必要となり、小松と梅棹がテーマ専門調査委員会(通称サブテーマ委員会)の正式委員に名を連ねることになった[44]

67年、岡本太郎がテーマ展示プロデューサーの役を引き受ける。岡本はもともと桑原と懇意で「考える会」を通じて小松とも親しくなっていた。まもなく梅棹から「岡本さんを手伝ってやってくれ」と電話がかかってきた。梅棹は国家公務員なので動けず小松がやってくれないかという話だった。小松は岡本が個人的に小松を雇うという形であればという条件で引き受けた。役人の折衝するのはもう懲り懲りだったからである。こうして小松は「テーマ展示プロジェクト」の、制作チームのサブプロデューサーということになり、テーマ館の地下展示「過去=根源の世界」を担当することになった[44]

地下展示のスタッフのスタッフに知った顔はなく、目名ではないが、当時まだマスコミにそれほど売れていない比較的若い人たちばかりだった。小松はこのメンバーと一緒にやった仕事は、あとあとまで心に残るようなきもちのいい楽しい仕事だった。エンバイラメント・アートで今や売れっ子の伊藤隆道伊藤隆康両人、映像評論家の岡田晋、などなどがメンバーだった。金や組織なのだるきりわからないプロデューサーと芸術のことにまるでかんしんのなかった事務屋がゼロから寄せ集めで作る。小松は何度も唸った「こんな人数で、こんなメンバーで、それにこんな事務所で30億の規模の仕事をしているなんて、信じられないなあ」[38]

小松が地下展示のスタッフたちと初めて顔を合わせた時すでにデザイン面でのいくつかのアイデアが出てきたが全て脇においた。そして最初の2週間ほどは、とにかく来る日も来る日も、テーマとサブテーマを巡ってのレクチャーと討論をやった。展示業者から出向員までひきずりこんで、むちゃだとは思ったが、生化学からむん名論から人類学から民族学まで、とにかくサブテーマを作り出す上の背景となった基礎知識を、みんなが大体のアウトラインをマスターしてしまうまでやった。4つのサブテーマを、岡本の構想になる地下=過去、地上=未来、空中=未来を言う地下の「過去=根源の世界」へ投影した展示の「基本的イメージ」はその方向からでてくるはずだった。生命がなぜすばらしいか、自然がなぜしたわしいか、そして産業革命以前、つまり機械文明以前においても、人間の所与においていかにすばらしく多様であり、人間地追うものはいかにいじらしいものであるかーー。こういったことは近代的デザインの「センス」からだけではよくつかめない。どうしてもある程度学問的な成果を踏まえた具体的な知識がいる。顕微鏡映画や天体写真、学術書に入っている図版をみながら科学の開示する世界が、デザイナーたちの「デザインスピリット」というべきものを刺激することを小松は期待した。ついにデザイナーたちはその世界に自分から興味を持ち始め、どんどん資料を集めはじめた。あとはこれを「展示」にヴィジュアライズしていけばいい。こうして小松のサブテーマの仕事は一段落を迎えた[38]

これらの国家的イベント作業に関わったことが貴重な経験となり、官僚組織や国家機構を内部から見た経験は結果的に『日本沈没』にも活かされた[44]

小松左京と大震災編集

1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災には自らも被災。大阪・箕面の自宅の庭の石の灯籠が2つガラガラと倒れ、寝ていた小松は跳ね起きた[46]

報道陣からは次々と電話がかかってきた。判を押したように第一声が「沈没みたいですね」だった。被災地の様子は『日本沈没』の描写のままだった。取材攻勢は本格化し、電話インタビューや原稿依頼、テレビ、ラジオの出演要請が相次ぎ、自宅に突撃取材を敢行する社もあった。ほとんどの人たちが『日本沈没』のことを口にした。小松はこの作品を書いた筆者としての義務感から無我夢中で対応した[46]

毎日新聞から週に一回、一年間の予定で宇宙の話を連載する予定だったが急遽阪神大震災の企画に切り替えた。現場を見て回り、多くの人たちの声を聞いて、専門家を話し合った[46]

ある高名な学者に、高速道路がなぜ倒れたかを共同で検証したいと申し入れたが、学者は「地震が予測をはるかに超えていただけ。私たちに責任はない」と言われ信じられない思いを受けた[47]

テレビ局のインタビューに答えて、視聴者のリクエストとヘリコプターなどの現場取材を連携させたライブによる安否情報の発信を提案したりもした。しかしいくつかのテレビ局が実際に試みたが、被害範囲が広すぎた事と、リクエストの信憑性を検証できないという指摘を受け、あまり成果を上げないまま中止された。

小松は『小松左京の大震災'95』を1996年6月に刊行し、震災の教訓として防災情報の共有化や、温かみのある復興の大切さを書いた。その後は、もう何もする気力がなくなり、鬱病をわずらったという。2000年ごろようやく回復[48]。その後も小松自身は震災からの復旧活動に積極的に関与していた。

2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災では「唯一の被爆国の国民として、SF作家になった人間として、事実の検証と想像力をフルに稼働させて、次の世代に新たなメッセージを与えたい」との言葉を残した[49]。復興を願い、「これから日本がどうなるのんか、もうちょっと長生きして、見てみたいいう気にいまなっとんのや」と記していた[50]。また、『3・11の未来 日本・SF・創造力』の序文を寄せている[51]

「日本沈没」について編集

最大のベストセラーになったのは1973年に光文社から刊行された『日本沈没』で、社会現象とまでなった。刊行前は「長すぎて売れない」と出版社側からは言われていたが、3月に発売すると驚くほどの売れ行きを示し、その年末までに上下巻累計で340万部が刊行された[52]福田赳夫や当時首相だった田中角栄も、この本を読んだという[53]

『日本沈没』を書き始めたのは1964年。『日本アパッチ族』を出した後からだった。1962年に地球物理学の世界で提唱され始めた「海洋底拡大説」を読んで、これでウェゲナー大陸移動説が復活するのかと興味を持っていたことからだった。『日本アパッチ族』を出した翌月に、NHKブックスから竹内均上田誠也の『地球の科学ーー大陸は移動する』が出た。これは面白くなってきたと、地球物理学の勉強を初めながら構想を練り始めた[37]

書き始めた動機は「一億玉砕」「本土決戦」の引っかかりがあったからだった。ちょうど1963年に「大東亜戦争肯定論」が出て、その種の論調が勢いを持ち始めていた。あの戦争末期の「一億玉砕」「本土決戦」という空気は肯定する気になれなかった。政府も軍部も国民も「一億玉砕」と言って、本当に日本国民がみんな死んでもいいと思っていたのか。日本という国がなくなってもいいと思っていたのか。だったら一度やってみたらどうだーーそこから日本がなくなるという設定ができないかと考え始めた。日本という国がなくなったときに、日本人はどう生き延びていくのか。ポーランドのように、歴史上、国がなくなったケースはいくらでもある。たまたま幸運にも日本はそういう経験をしてこなかったが、もしそうなったら日本人はどうするのか。普通の小説ならできなが、「ヒストリカル・イフ」を使ったSFなら、そういう設定で書ける。国を消すことで、日本人とはなにか、日本文化とはなにか、そもそも民族とは何か、国家とは何かということを考えることができる。国を失った日本人たちに、小説の中でそれを考えさせることができる。そのためには、日本列島そのものを沈めてみたらどうかーーそういう着想が浮かんだ[37]

なので本来小松が書きたかったのは、日本が沈没した後の第二部だった。ところが沈めるまでにかなりの紙幅を使ってしまった。科学好きな小松は勉強を始めると徹底的にやってしまう。67、68年頃になると、プレート・テクトニクス理論が出てきて、「沈め方」にさらにリアリティを出せるようになった[37]

『日本沈没』を書き始めてから完成まで9年もかかってしまったのは、万博等で身辺が忙しかったのと、やはり地球物理学の差新研究の知識をトレースするのに時間がかかったからだった。9年間で担当者はもう3人目になっていた[37]

原稿が完成して光文社に渡したら、長すぎると言われた。上下二巻になると下巻が売れないから、なんとか1冊にしてくれ、削ってくれという。以前にも言われたこともあり、今度は小松も「それならもう、ドブに捨てる」と言った[37]

米ソの宇宙開発競争があり、69年にはアポロ11号が月に着陸した。それだからこそ、小松は地球を題材にしたものを書かなければと思った[37]

最初はタイトルは『日本滅亡』にするつもりだったが編集者が『沈没』を提案した[37]

『日本沈没』の刊行は1973年3月20日。初版は上下3万部ずつだった。3月24日には光文社が『朝日新聞』に全5段の広告を打った。あっという間にベストセラーになり7月には上下で200万部を超えた。印税のおかげで、父親の借金まで全部返せた[37]

1964年に世に現れた電卓であるが、小松はこれをすぐに導入し「使いまくって」、『日本沈没』を書いた、という。2011年7月29日の毎日新聞「余録」には13万円の電卓、とあり、同年11月24日のNHK『クローズアップ現代』では、小松の電卓としてキヤノンのキヤノーラ1200(12万6千円)が紹介された。別モデルと思われる話もあり、安田寿明によれば、37万円ほどの標準品を買い「目の玉が飛び出るほど高かったが、あれを使いまくったおかげで『日本沈没』が書けた」と小松は語ったという[54]。また、1979年に発売された初の国産ワープロである東芝のJW-10(630万円)も、いち早く一号機を小松左京事務所で使用していたが、その後、携帯できないことなどを理由に手書きに戻っている[55]

『日本沈没』は「第一部完」として発売され、第二部は「世界に流浪した日本人たちの運命」を描く予定であったが、「日本人」としての固有性を守るべきか、「国土を失った民族としてコスモポリタニズムに貢献」すべきか小松に迷いが生じ、執筆されなかった。後に高齢を理由に小松自身による執筆は放棄され、2003年11月から続編を作成するプロジェクト・チームが作られた。執筆は谷甲州が担当し、2006年7月に『日本沈没 第二部』が刊行された[56]

日本を沈没させてしまったおかげで、日本論の依頼も増えた[57]

『日本沈没』がベストセラー化したことで、世間におけるSFの位置づけ、SFを取り巻く状況も変わっていった。『日本アパッチ族』の頃は、「SFと銘打てば売れない」と言われていたのに、『日本沈没』以降の出版会はむしろSFブーム。日本SF大会で「SFの浸透と拡散」なんていうのがテーマになったのも、この頃だった(75年の神戸SF大会)[57]

「未来学」編集

モントリオール博を視察に行く道中、小松と梅棹は「文化」と「文明」について話し続けた。人類の過去の遺産、文化と文明の多様性、科学が明らかにしつつある自然と人間の関係、科学技術が急速に変えつつある社会と世界。万博博というものを総合的に考えていく上で経た過程だが、その頃には万博云々を超えて、二人の興味の対象になりつつあった。何かそういうテーマについて継続的に考える「場」を作れないだろうかということも話題になった[37]

帰国後、対談で小松が「未来学はどうですか」と提案した。未来をきちんと考えるためには、過去現在にわたって、あらゆることを調べてそれを「統合」しなければならない。要は全てのことが研究対象になる[37]

その後サブテーマ委員会で知り合った林雄二郎川添登からすぐに反応があり、「ぜひやろう」ということになった。そこで小松、梅棹、加藤、林、川添とで「未来学研究会」という勉強会を発足させた。今度は万博のときと違いのんびり勉強できるだろうと思っていた[37]

しかしなぜか翌67年前半に未来学・未来論のブームが来てまた振り回されることとなった。なぜか小松は「味噌の未来」や「株式の未来」といった原稿まで付き合わされた[37]

ともあれこの当時、小松の頭は「未来学」でいっぱいだった。この年の11月に出した短編集『神への長い道』のあとがきには「こういうふうにならべてみると、ここ一年来、自分が次第に『未来』というものにのめりこんで生きつつあることが自分にもはっきりしてくるような気がします」とある[37]

同じ11月、小松は中公新書から『未来の思想』という描き下ろしの評論を刊行している。この本は、人間はまだ「輪廻史観」「終末史観」「進化史観」の3つしか発明してないのではないかーーという『宇宙塵』の柴野の言葉をヒントに「未来観の起源」をさかのぼり、さらに「未来館の未来」まで考えてみようとしたものだった[37]

しかしこの本を単なる文化論にするつもりもなかった。いったいなぜヒトという生き物は「自然の中で生きて行くのに最低限必要な能力」以上の過剰なを持ってしまったのか。小松は「未来学」を論じるにあたって、そこから説き起こした。「人はなぜ生まれ、死ぬのか」、「未来の死」を考えさせ、宗教と思想を生み出した人々、など自分なりの見取り図を描く試みだった。「人間はなぜ未来を考えるのか」という根源的な問いに対する仮説も示唆している。『未来』というものが倫理と深く関わっている地点が見いだされるかもしれないとも考えた[37]

この本を書きながら、小松は自分がSFを書く動機を整理していたような気がした。文学も哲学も科学もいっしょに扱えるSFを、やはりずっとやっていこうという決心がついた。これを書いた時、まだ36歳の若さだった[37]

作風編集

SFマガジンでのデビュー以来、様々なジャンルにわたる多数の長短編作品やショートショートを世に送り出し、日本のSFを牽引した。その作風は人類の運命を描くハードコアSF(本格SF)から、ポリティカル・フィクションタイムトラベル物、歴史改変小説パラレルワールド物、スラップスティック、アクション物、SFミステリ、ホラーエロティックな作品、寓話的な作品やファンタジーに至るまで幅広い。

あまりの多面さに作風を一面的に断じる事は出来ないが、当時先端の科学や政治経済の知識を駆使し、プロットの練られた『日本沈没』『首都消失』のような作品から、下町を背景に描いた『コップ一杯の戦争』、日本を始めとする各種神話に取材した作品まで、非SFである歴史小説、中間小説(奇妙な女たちを描く短編「女シリーズ」や、古典芸能の知識が結実した「芸道小説」シリーズなどがある)も含めサイバーパンク以前のほぼ全てのジャンルに手を付けたといっても過言では無い[注釈 3]。また、非SFでも、あくまで「SF作家としての視点」から作品が構想されていることが、『小松左京自伝』に収録されている「自作解説」からわかる。

小松作品では純粋で正義感の強い青年たちが主人公をつとめることが多い。これは、しばしば並び称される星新一、筒井康隆らには全くといっていいほど見られない特徴で、時おり人情や情緒をたっぷりと描く傾向も同様である。このあたりが小松作品に独特の熱っぽさと艶を与えている。

ソ連のSF作家イワン・エフレーモフの社会主義的SF論に対抗して書いた「拝啓イワン・エフレーモフ様」(巽孝之編『日本SF論争史』勁草書房に収録)をはじめとした、数々のSF論で「科学技術が、人間社会や人間の存在自体を変えてしまう時代の、『本流文学』としてのSF」を一貫して主張し続けている。

ただし、この小松が理想とするSFは、小松ほどの博覧強記な作家でしか、書き得ないともいえる。筒井康隆は、小松の自選短編集『骨』の解説で、自身との比較において、「自分は、自分の頭の中にある、知識やシチュエーションを組み合わせて、小説を考えていく。だが、小松左京は、まず『こういうテーマの小説を書く』と決め、それに沿って彼の頭をワッサワッサと揺り動かすと、膨大な関連する知識が落ちてきて、それをまとめあげていく」と、小松の創作法を評した。

その他にも、日本各地や世界各地を旅しての文明論や、日本文化論、科学エッセイなどの、ノンフィクションも多数執筆しているが、これらについても「SF作家としての視点」からの壮大な視点から書かれている。

評価編集

広範な領域での業績と旺盛な活動力を岡田斗司夫唐沢俊一らは「荒俣宏立花隆宮崎駿を足して3で割らない」と評している。

批評家東浩紀は「小松は、戦後日本を代表する娯楽作家だっただけではない。また日本SFの創設者だっただけでもない。小松はそれよりもなりよりも、まずは知識人であり教養人であり、その溢れる知性に文学というかたちを与えるとき、SFという表現形式を見出したひとりの思索者だったのだ」と考える[2]

代表作には、時間と空間をまたにかけた壮大な長編『果しなき流れの果に』(1966年)が挙げられる。この作品は1997年の『SFマガジン』500号記念号で発表された、「日本SFオールタイムベスト」において長編部門1位を獲得した。さらに短編部門では同じく小松作品の「ゴルディアスの結び目」が1位になった。

初期長編では、娯楽色と思索性を高いレベルで両立させたSFミステリ『継ぐのは誰か』の人気も高い。山田正紀がこの作品を青春小説として評価している[58]

中国のベストセラー小説『三体』の著者・劉慈欣は小松左京作品を愛読しているという[59]

日本沈没』、『復活の日』、『エスパイ』、『首都消失』などが映画化されており、特に1984年公開の『さよならジュピター』は単に原作提供にとどまらず、新たに「株式会社イオ」を設立して映画製作に出資。小松自身も総監督として現場の指揮を執り、最新のCGを駆使して特撮場面をとるほどの、力の入れようだった。テレビにも映像化作品は多く、中にはテレビオリジナル作品もある。2006年には、『日本沈没』が、現代にあわせてリメイクされ、映画として公開された。

一方、文壇からの正当な評価、評論は特になく、『小松左京自伝』においては、「開高健北杜夫ぐらいにしか、自分の文学を評価してもらえなかった。せめて、(非SFである)『芸道小説』ものでは、直木賞をくれないかなと思った。」「現在でも、社会や文壇が、SFを十分に認知しないことへの、いらだちがある」と、無念さを吐露している。また同書には、「一貫して、宇宙における文学の意味、宇宙における人類の意味を考えてきた」という発言があり、他のSF作家とは連帯しきれない、小松なりの孤独な問題意識が書かれている。この小松ならではの文学的な問題意識が共有できたのは、SF作家仲間よりもむしろ開高健高橋和巳であったとも書かれている。

人物編集

尋常でない好奇心を持っていた。ある日舗道を歩いていると「なんなんだ、中身は」と言いながら道路を横切り、小さなよう洋食屋の「ランチはじめました」の紙に書かれたメニューの中身を確かめに飛んで行ったのである。小松の知識と情報量を支えているのはこの原子力発電所量子力学プレートテクトニクスから街の洋食屋のランチにいたるまで完全に同等な好奇心であった[3]

小松は「SF」というジャンルに誇りを抱いていた。SFならばあらゆる表現が可能になる。いや、むしろ、これからはあらゆる表現がSFになるというのが彼の信条だった[2]

速筆でマージャンで1人余って抜けてるあいだに原稿用紙に手書きで1時間ほどで20枚程度書き、また雀卓に戻っていった[60]

関西の官僚や財界人たちともブレイン役として交際し、「湾岸道路の建設」「関西新空港の整備(現:関西国際空港)」「研究学園都市の創設(現:けいはんな学研都市)」などを提案した[61]。また、彼らとの交流で、祇園などの色街を体験し、「芸道小説」シリーズなどに結実している[62]。ユーモラスな一面もあり、『SF作家オモロ大放談』では、自分の精液をフライパンで焼いて食べたことがあると語っている。1970年頃はよく太っていて、ラジオなどでも自称メガネ豚と言っていた。

生まれ育った関西に愛着を持ち、関西を盛り上げるためのさまざまな活動を行った。1977年から1982年には大阪フィルハーモニー交響楽団のイベント「大フィルまつり」の企画・構成を担当。1978年には、「関西で歌舞伎を育てる会」(現、関西・歌舞伎を愛する会)の代表世話人になり、20年以上つとめた[63]。また、かんべむさし堀晃などの関西出身の後輩SF作家たちにも、目をかけた。また、『大阪タイムマシン紀行』 『わたしの大阪』 『こちら関西』 『こちら関西・戦後編』など、関西をテーマにした著書も多数ある。

SF作家クラブの集まりを楽しみにしていた。SFを語り合ったり、バカ話のできる仲間に会える場であり楽しくて仕方がなかった。特に星の存在は大きく、世の中にこんなおかしな人がいるのかと思った。当時、64年に東海道新幹線が開通するまで、大阪から東京に出てくるのは夜行で13時間かかったが、それでも集まりに参加したのは、星に会いたかったからだった[39]

マージャンの腕はかつて業界記者をやってたころ修羅場のようなシビアなマージャンを経験したおかげでとにかく強かった[60]

ヘビースモーカーであったため、紙巻きタバコを手にした写真が多数残されている[64][65][66]

受賞歴編集

  • 1971年 - 『継ぐのは誰か?』により第2回星雲賞(日本長編部門)受賞。
  • 1973年 - 『結晶星団』により第4回星雲賞(日本短編部門)受賞。
  • 1974年 - 『日本沈没』により第27回日本推理作家協会賞・第5回星雲賞(日本長編部門)受賞。
  • 1976年 - 『ヴォミーサ』により第7回星雲賞(日本短編部門)受賞。
  • 1978年 - 『ゴルディアスの結び目』により第9回星雲賞(日本短編部門)受賞。
  • 1983年 - 『さよならジュピター』により第14回星雲賞(日本長編部門)受賞。
  • 1985年 - 『首都消失』により第6回日本SF大賞受賞。
  • 2007年 - 城西国際大学より、名誉博士号授与。
  • 2011年 - 第42回星雲賞特別賞受賞。この回の星雲賞は異例の受賞者事前発表であったが(例年は日本SF大会の会場で発表)これについては特別にSF大会のクロージングでの発表となった。なお、同大会の暗黒星雲賞「ゲスト部門」でも次点となる票を得ている。
  • 2011年 - 第32回日本SF大賞特別功労賞受賞。

作品リスト編集

  • 小松左京コレクション 全5巻 ジャストシステム、1995年 - 1996年
  • 小松左京全集 全56巻 城西国際大学出版会、2006年 -

小説編集

SF長編編集

  • 日本アパッチ族 書き下ろし 光文社、1964年3月 のち角川文庫、光文社文庫
  • 復活の日 書き下ろし 早川書房、1964年8月 のち文庫、角川文庫、ハルキ文庫 - 流行病による人類滅亡の恐怖と、南極にいた生き残りの闘いと希望を描く。映画化。
    • 復活の日 人類滅亡の危機との闘い ポプラ社、2009年(新井リュウジによるジュニア向けリライト版)
  • エスパイ 『漫画サンデー』1964年4月8日号 - 10月7日号 早川書房、1965年6月 のち文庫、角川文庫、ハルキ文庫
  • 明日泥棒 『週刊現代』1965年1月1日号 - 7月15日号 講談社、1965年12月 のち角川文庫、ハルキ文庫
  • 果しなき流れの果に 『S-Fマガジン』1965年2月号 - 11月号 早川書房、1966年7月 のち文庫、角川文庫、徳間文庫、ハルキ文庫 ISBN 4150300011
  • ゴエモンのニッポン日記 『アサヒグラフ』1966年4月1日号 - 9月9日号 講談社、1966年12月 のち文庫、ハルキ文庫
  • 見知らぬ明日 『週刊文春』1968年4月29日号 - 9月9日号 文藝春秋、1969年3月 のち角川文庫、ハルキ文庫
  • 継ぐのは誰か? 『S-Fマガジン』1968年6月号 - 12月号 早川書房『世界SF全集』第29巻、1970年6月 のち単行本、文庫、角川文庫、ハルキ文庫
  • 日本沈没 書き下ろし 光文社カッパ・ノベルス、1973年3月 のち文春文庫、徳間文庫、光文社文庫、双葉文庫、小学館文庫
  • 題未定 『週刊小説』1976年8月16日号 - 10月4日号 実業之日本社 1977年3月 のち文春文庫、ケイブンシャ文庫、ハルキ文庫
  • こちらニッポン… 『朝日新聞』夕刊 1976年4月19日 - 1977年1月22日 朝日新聞社、1977年4月 のち角川文庫、ハルキ文庫
  • 時空道中膝栗毛 『報知新聞』1976年11月16日 - 1977年5月14日 文藝春秋、1977年9月 のち文庫、ケイブンシャ文庫
  • 空から墜ちてきた歴史 『別冊小説新潮』1977年7月号 - 1978年4月号 新潮社、1981年11月 のち文庫
  • さよならジュピター 『週刊サンケイ』1980年5月29日号 - 1982年1月14日号 サンケイ出版、1982年4月 のち徳間文庫、ハルキ文庫
  • 首都消失 『北海道新聞』ほか新聞4社 1983年12月1日 - 1984年12月31日 徳間書店、1985年3月 のち文庫、ハルキ文庫
  • 時也空地球道行 『週刊読売』1987年3月8日号 - 11月29日号 読売新聞社、1988年4月 のち『時空道中膝栗毛 後の巻 時也空地球道行』と改題、勁文社、1991年7月
  • 虚無回廊 『SFアドベンチャー』1986年2月号 - 1987年3月号、1991年12月号 - 1992年10月号、I・IIは徳間書店より1987年11月、IIIは角川春樹事務所より2000年7月 のち徳間文庫、ハルキ文庫 - 地球から5.8光年の宇宙空間に突如出現した巨大物体の正体は?広大な宇宙を舞台に、「生命」「知性」「文明」の意味を問うSF。未完。
  • 日本沈没 第二部谷甲州共著) 書き下ろし 小学館、2006年8月 のち文庫

ジュブナイル編集

  • 見えないものの影 『高一コース』1965年5月号 - 11月号 盛光社、1967年3月 のち角川文庫
  • 空中都市008 アオゾラ市のものがたり 『日本PTA』1968年1月号 - 6月号 講談社、1969年2月 のち角川文庫、講談社青い鳥文庫(NHK人形劇の原作)
  • 宇宙漂流 毎日新聞社 1970年12月 のち角川文庫、ポプラ文庫
  • 青い宇宙の冒険 『中一計画学習』1970年4月号 - 12月号 筑摩書房、1972年4月 (ちくま少年文学館) のち角川文庫
  • おちていたうちゅうせん 書き下ろし フレーベル館 1972年6月 (こどもSF文庫)
  • 宇宙人のしゅくだい 『朝日新聞』1964年11月8日 - 1966年3月20日、講談社、1974年3月 のち講談社文庫

連作・シリーズ編集

  • 時間エージェント 『HEIBONパンチDELUXE』1965年9月号 - 1966年7月号、『ビッグコミック』1968年1月1日号 - 8日号
  • 「女」シリーズ
    • 待つ女 新潮社 1972年 「短小浦島」角川文庫、「湖畔の女」徳間文庫
    • 無口な女 新潮社 1975年 「流れる女」文春文庫、「ハイネックの女」徳間文庫
    • 旅する女 角川文庫、1979年 - 「昔の女」、「旅する女」など「女」をテーマに描いた短編集。

ショートショート集編集

  • ある生き物の記録 ショート・ショート集 早川書房 1966年6月 のち文庫、集英社文庫
  • 鏡の中の世界 早川文庫 1974年 のち角川文庫 - 『ある生き物の記録』を2分冊にしたうちの1冊。
  • 一生に一度の月 集英社文庫 1979年5月
  • まぼろしの二十一世紀 集英社文庫 1979年11月
  • 一宇宙人のみた太平洋戦争 短篇ショート・ショート集 集英社文庫、1981年1月
  • 小松左京ショートショート全集 勁文社 1995年 のち文庫

短編集編集

  • 地には平和を 早川書房、1963年 のち角川文庫
  • 影が重なる時 早川書房、1964年
  • 日本売ります 早川書房、1965年 のちハルキ文庫
  • 神への長い道 早川書房 1967年 のち文庫、角川文庫、徳間文庫
  • 生きている穴 早川書房 1967年
  • 模型の時代 徳間書店 1968年 のち角川文庫
  • 飢えた宇宙 早川書房 1968年 (ハヤカワ・SF・シリーズ)
  • 闇の中の子供 新潮社 1970年 のち文庫
    • 長生きの秘訣 - 昔話「八百比丘尼(やおびくに)」「人魚」を思わせる不老不死をテーマにしたSF作品。
    • 第二日本国誕生
  • 星殺し(スター・キラー) 早川書房 1970年 (ハヤカワ・SF・シリーズ)
  • 三本腕の男 立風書房 1970年 のち角川文庫
  • 青ひげと鬼 徳間書店 1971年 のち角川文庫
  • 最後の隠密 立風書房 1971年 のち角川文庫
  • 地球になった男 新潮文庫 1971年
  • 明日の明日の夢の果て 角川書店 1972年 のち文庫
  • 牙の時代 早川書房 1972年 のち角川文庫
  • 怨霊の国 角川書店 1972年 のち文庫
  • ウインク 角川文庫 1972年
  • 御先祖様万歳 早川文庫 1973年 のち角川文庫
  • 結晶星団 早川書房 1973年 のち文庫、角川文庫、ハルキ文庫
  • アダムの裔 新潮文庫 1973年
  • 時の顔 早川文庫 1973年 のち角川文庫、ハルキ文庫
  • 戦争はなかった 新潮文庫、1974年 「召集令状」角川文庫
  • 本邦東西朝縁起覚書 早川文庫 1974年 のち徳間文庫 - 表題作は後南朝の自天王が時空を超え、現代の日本に突如出現する歴史SF。
  • 春の軍隊 新潮社 1974年 のち文庫
  • 夜が明けたら 実業之日本社 1974年 のち文春文庫、ケイブンシャ文庫、ハルキ文庫
  • さらば幽霊 自選短編集 講談社文庫、1974年
  • 蟻の園 ハヤカワ文庫、1974年 のち角川文庫
  • 虚空の足音 文藝春秋 1976年 のち文庫
  • 男を探せ 新潮社 1976年 「おれの死体を探せ」徳間文庫、原題ハルキ文庫
  • 夢からの脱走 新潮文庫 1976年
  • 空飛ぶ窓 文春文庫 1976年
  • 飢えなかった男 徳間書店 1977年 のち文庫
  • 骨 集英社文庫 1977年
  • ゴルディアスの結び目 角川書店 1977年 のち文庫、徳間文庫、ハルキ文庫
  • 物体O 新潮文庫、1977年 のちハルキ文庫
  • 五月の晴れた日に 早川文庫 1977年 のち集英社文庫
  • サテライト・オペレーション 集英社文庫 1977年
  • 偉大なる存在 早川文庫 1978年 のち集英社文庫
  • アメリカの壁 文藝春秋 1978年 のち文庫
  • 夜の声 集英社文庫、1978年
  • 華やかな兵器 文藝春秋 1980年 のち文庫
  • 猫の首 集英社文庫、1980年 「保護鳥」ケイブンシャ文庫
  • 氷の下の暗い顔 角川書店 1980年 のち文庫
  • コップ一杯の戦争 集英社文庫、1981年
  • 遷都、集英社文庫、1981年
  • あやつり心中、徳間書店、1981年 のち文庫
  • 機械の花嫁 ケイブンシャ文庫、1983年
  • 大阪夢の陣、徳間文庫、1983年
  • 黄色い泉、徳間文庫、1984年 のちケイブンシャ文庫
  • こちら“アホ課” ケイブンシャ文庫 1986年
  • ぬすまれた味 ケイブンシャ文庫、1987年
  • くだんのはは ハルキ文庫、1999年
  • すぺるむ・さぴえんすの冒険 福音館書店 2009年

戯曲編集

評論・エッセイ編集

  • 地図の思想 講談社、1965年
  • 探検の思想 講談社、1966年
  • 未来図の世界 講談社、1966年
  • 未来怪獣宇宙 講談社、1967年
  • 未来の思想 文明の進化と人類 中公新書、1967年
  • 日本タイムトラベル 変貌する地域社会 読売新聞社、1969年
  • ニッポン国解散論 読売新聞社、1970年
  • 日本イメージ紀行 白馬出版、1972年
  • 未来からの声 創樹社、1973年
  • 歴史と文明の旅 文藝春秋、1973年 のち講談社文庫
  • 妄想ニッポン紀行 高天原-伊勢-出雲 (正・続) 講談社文庫 1973-74年
  • おしゃべりな訪問者 架空インタビュー 筑摩書房、1975年 のち新潮文庫
  • やぶれかぶれ青春記 旺文社文庫、1975年 のちケイブンシャ文庫
  • ミスターちんぼつの恋愛博物館 光文社、1975年 のち文春文庫「恋愛博物館」
  • 男の人類学 新・世界学入門 大和書房、1976年
  • 日本文化の死角 講談社現代新書、1977年
  • 地球社会学の構想 文明の明日を考える PHP研究所、1979年
  • はみだし生物学 平凡社、1980年 のち新潮文庫
  • 読む楽しみ語る楽しみ 集英社、1981年 のち文庫
  • 遠い島遠い大陸 文藝春秋、1981年
  • 地球文明人へのメッセージ 佼成出版社、1981年
  • 宇宙から愛をこめて すぺいす・あふぉりずむ455 文化出版局、1981年
  • アリとチョウチョウとカタツムリ 石浜紅子絵 三芽出版、1981年 (新しい絵本)
  • 小松左京のSFセミナー 集英社文庫、1982年
  • 机上の遭遇 集英社、1982年 のち文庫
  • 大阪タイムマシン紀行 その1500年史を考える 関西過去・未来考 PHP研究所、1982年 「タイムトラベル大阪」ケイブンシャ文庫
  • 犬も犬なら猫も猫 ケイブンシャ文庫、1984年
  • 黄河 中国文明の旅 徳間書店、1986年
  • ボルガ大紀行 徳間書店、1987年
  • 「自然の魂」の発見 いんなあとりっぷ社、1990年
  • 鳥と人 とくにニワトリへの感謝をこめて 文春ネスコ、1992年
  • わたしの大阪 中公文庫、1993年
  • 巨大プロジェクト動く 私の「万博・花博顛末記」広済堂出版、1994年
  • こちら関西 もうひとつの情報発信基地・大阪(正編・戦後編) 文藝春秋、1994-95年
  • ユートピアの終焉 イメージは科学を超えられるか ディーエイチシー、1994年
  • 未来からのウインク 神ならぬ人類に、いま何が与えられているか 青春出版社プレイブックス、1996年
  • 小松左京の大震災'95 この私たちの体験を風化させないために 毎日新聞社、1996年
  • 紀元3000年へ挑む科学・技術・人・知性 地球紀日本の先端技術 東京書籍、1999年
  • 威風堂々うかれ昭和史 中央公論新社、2001年
  • 天変地異の黙示録 人類文明が生きのびるためのメッセージ 日本文芸社・パンドラ新書、2006年
  • SF魂 新潮新書、2006年
  • 小松左京自伝 実存をもとめて 日本経済新聞社出版社、2008年 - 自伝「私の履歴書」+「小松左京マガジン」連載の自作解説収録

対談・座談ほか編集

  • 人類は滅びるか 鼎談 今西錦司川喜田二郎 筑摩書房、1970年
  • 地球を考える 対談集 1・2 新潮社、1972年 のち小松左京コレクション5 対談集 ジャストシステム
  • 現代の神話 山崎正和対談 日本経済新聞社、1973年
  • 小松左京対談集 日本を沈めた人 地球書館、1974年 のち小松左京全集完全版33 城西国際大学出版会
  • 絵の言葉 対話高階秀爾 エッソ・スタンダード石油広報部 1975年 (エナジー対話)のち講談社学術文庫
  • 絵の理想型とは? 萩尾望都対談 クエスト創刊号(小学館)、1977年
  • 人間博物館 「性と食」の民族学 石毛直道米山俊直討議 光文社、1977年 のち文春文庫
  • 小松左京対談集 21世紀学事始 鎌倉書房、1978年
  • 学問の世界 碩学に聞く 加藤秀俊 講談社現代新書、1978年 のち同学術文庫
  • 日本史の黒幕 会田雄次・山崎正和座談 平凡社、1978年 のち中公文庫
  • 高橋和巳の青春とその時代(編)構想社、1978年
    • 新版・高橋和巳の文学とその世界 梅原猛共編、阿部出版、1991年
  • 生命をあずける 分子生物学講義 渡辺格対談 朝日出版社「Lecture books」、1979年
  • おもろ放談 SFバカばなし 角川文庫、1981年 - SF作家の仲間たちとの放談。
  • にっぽん料理大全 石毛直道共著 潮出版社、1982年 のち岩波同時代ライブラリー
  • 宇宙・生命・知性の最前線 十賢一愚科学問答 対談集 講談社、1992年
  • SFへの遺言(対談集) 光文社、1997年
  • 教養(聞き手高千穂遥鹿野司) 徳間書店、2001年

漫画編集

  • 怪人スケレトン博士(さかえ出版社、1948年)小松實名義[68]
  • イワンの馬鹿(不二書房、1949年)モリ・ミノル名義
  • 大地底海(不二書房、1949年)モリ・ミノル名義
  • ぼくらの地球(不二書房、1949年)モリ・ミノル名義
  • 幻の小松左京=モリ・ミノル漫画全集 全4巻(小学館、2002年)。ISBN 4-09-179421-1。※ 未発表作品「第五実験室」、「大宇宙の恐怖アンドロメダ」の原稿を収録。
  • ムウ大陸の末裔(光文社、2012年)モリ・ミノル名義[69]

テレビ編集

映画編集

ラジオ編集

テレビ出演編集

オーディオ・ドラマ編集

  • 宇宙に逝く(1978年)
    • LPレコードに収録の書き下ろしのオーディオ・ドラマ (ディスコラマの名称)。出演:日下武史ほか。
    • 1987年に「ビクター・サウンドノベルズ」よりカセットテープにて出版される。

関連編集

  • 小松左京:「小松左京の猫理想郷(ネコトピア)」、竹書房 (2016年10月14日)。
  • 乙部順子:「小松左京さんと日本沈没 秘書物語」、産経新聞出版 (2016年11月10日)。※ 著者は34年間の小松氏の女性秘書。

関連人物編集

  • 星新一 - 小松と同時期に活躍し、交友もあったSF作家。小松は星が死去した際の葬儀委員長をつとめた。
  • 筒井康隆 - 星、小松とならび日本SFの御三家とされるSF作家。小松は筒井の結婚の仲人である。小松の許可を得て、パロディ作『日本以外全部沈没』を著作(原案は星新一)。
  • 高橋和巳 - 1971年の、39歳での高橋の早逝にショックを受け、以後、小松は高橋について語ることを避けてきた。2004年の『小松左京マガジン』第17巻で「高橋和巳を語る」というインタビューが掲載された。(『小松左京自伝』に収録)
  • 開高健 - 『日本アパッチ族』と開高の『日本三文オペラ』は題材は同じ「アパッチ族」だが、相互に影響なく、同時並行的に執筆された。そのことがきっかけで、富士正晴に紹介されて開高とあって意気投合し、親友となった[72]。開高と小松の親友関係は、はたからは分からない面があったようで、のちに筒井康隆が開高を、「彼はSFがわかっていない。小松に対して失礼だ。」と批判した。だが、『小松左京自伝』の『果しなき流れの果に』の自作解説で、「美の体系が生き残る理由」「宇宙における人間存在の根拠」等という、小松がこだわっている問題を、開高がもっとも理解してくれたと、語っている。
  • 桂米朝 - 「地獄八景亡者戯」を聞いて大ファンとなり、のちに一緒に仕事をするようになり、家族ぐるみの交際となった[73]
  • 桂枝雀 - 個人的な交流があり、また芸道小説「天神山縁糸苧環」で、米朝・枝雀師弟を登場人物のモデルとした[74]
  • 高田宏 - 大学時代からの友人。高田が編集していたエッソ石油のPR誌『エナジー』に、小松はたびたび執筆した。
  • 梅棹忠夫 - 長年の友人。『文明の生態史観』(中公叢書、1967年)に序文を書いている。
  • 加藤秀俊 - 長年の友人。何冊か共著を出している。
  • 川喜田二郎 - 長年の友人。共著も出している。
  • 川添登 - 長年の友人。
  • 山崎正和 - 長年の友人。
  • 萩尾望都 - 『小松左京マガジン』の発起人。小松は萩尾の大ファンで「モトさま、モトさま」と子どものように慕っていた。仕事で疲れてソファーに寝転んで漫画を読む際にも、その横にはよく萩尾作品(『ポーの一族』『スター・レッド』『百億の昼と千億の夜』など)が積まれていた[75]
  • 石毛直道 - 長年の友人。『小松左京マガジン』創設同人でもある。
  • 小山修三 - 友人の一人。
  • 手塚治虫 - 日本SF作家クラブの会員となり、個人的な交際があった。
  • 冨田勲 - トミタ立体サウンド・ライブ『エレクトロ・オペラ in 武道館』(1979年)を小松がプロデュースするなどで交流があった。
  • 落合正幸 - 世にも奇妙な物語で原作となっている作品はすべて落合が演出している。
  • 松本零士 - 漫画コレクターとして『幻の小松左京=モリ・ミノル漫画全集』復刻のため自分のコレクションを提供した。
  • 高島忠夫 - 中学の同級生。
  • 国弘正雄 - 中学の同級生。
  • 矢崎泰久 - 小松は『話の特集』の反体制的な姿勢に共鳴し、創刊以来の常連寄稿者で、矢崎に筒井康隆を紹介した。また、スポンサー獲得にも協力した[76]
  • 大島渚 - 同時期の京大生で、学生自治会にいて学生運動をやっていた。大島は、1951年の京大天皇事件、1953年に松浦玲が放校処分になった「荒神橋事件」等に関わった。だが大島は非共産党員であったため、共産党員だった小松とは直接の接触はなかったようだ。(『自伝』にも、これらの事件については、特に記載なし。)
  • 谷甲州
  • 林信夫 - イベントプロデューサー。「プレイガイドジャーナル」の創刊者の一人。小松とは「花博」などで「小松組」として共同作業を行った[77]
  • とり・みき - 熱心なファン。初期作品『コマケンハレーション』のコマケンとは小松左京研究会のこと。時折作品中にも、小松左京とおぼしき人物が登場する。
  • 小松照昌 - 小松の甥。放送作家、演芸ライター、三弦奏者。桂枝雀に弟子入りを志願するもかなわず、「枝雀落語大全」のスタッフをつとめた。
  • 小松伸也 - 実弟。関西大学化学生命工学部の教授。
  • 戴峰 - 友人の地震研究者、著書『大地震は予知できる』 (グリーンアロー出版社刊)に推薦の言葉を寄せた。
  • 竹山隆範(カンニング竹山) - テレビドラマ「TAROの塔」で小松左京役を演じた。

脚注編集

[ヘルプ]

注釈編集

  1. ^ 当時の活動は、事前に待ち合わせ日時を決めて集団でアジテーションを叫びながら街中を練り歩くというものだった。
  2. ^ ネイティブ・アメリカンの部族名ではなく、資源ごみとして収集されている物を不法に回収する人々を指す呼称。
  3. ^ もっともサイバーパンク分野ですら、『BS6005に何が起こったか』(1971)、『ト・ディオティ』(1968)などで、サイバーパンクの系譜でもあるシミュレーテッドリアリティを先取りしたと考えることも出来る。

出典編集

  1. ^ 宮崎哲弥100分de名著「小松左京スペシャル」』 NHK出版、2019、p.5
  2. ^ a b c d e f g h 小松左京セレクション1 日本(序文). 河出書房新社. (2011年11月10日). 
  3. ^ a b 教養. 徳間書店. (2000年11月10日). 
  4. ^ a b c 小松左京セレクション2 未来(序文). 河出書房新社. (2012年3月20日). 
  5. ^ a b 『週刊サンケイ』1982年3月18日号 pp.23-25
  6. ^ a b c 小松 2008, pp. 9f、253、412
  7. ^ 小松 2008, p. 17
  8. ^ 小松 2008, pp. 22f
  9. ^ 小松 2008, pp. 11-14
  10. ^ 小松 2008, pp. 14f
  11. ^ 小松 2008, pp. 19-21
  12. ^ 小松 2008, p. 27
  13. ^ 小松 2008, pp. 28f
  14. ^ 小松 2008, pp. 31f
  15. ^ 小松 2008, pp. 32-36
  16. ^ 小松 2008, pp. 39-46
  17. ^ 小松 2008, pp. 36-43
  18. ^ 小松 2008, pp. 34f
  19. ^ 小松 2008, pp. 46-52、56-58
  20. ^ 小松 2008, pp. 53-55
  21. ^ 小松 2008, pp. 59-62
  22. ^ 小松 2008, pp. 61f
  23. ^ 小松 2008, pp. 62f、127
  24. ^ 小松 2008, pp. 66-70
  25. ^ 寺田博『文藝編集実記』(河出書房新社、P.118)
  26. ^ 月刊基礎知識 from 現代用語の基礎知識”. www.jiyu.co.jp. 自由国民社. 2019年9月29日閲覧。
  27. ^ 田原 & 矢崎 2004, p. 126
  28. ^ 小松 2008, pp. 70-72
  29. ^ 小松 2008, pp. 91-93
  30. ^ 共同通信 (2011年7月26日). “SFの大家、小松左京さん死去 「日本沈没」など”. 47NEWS (全国新聞ネット). オリジナルの2013年6月20日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130620160035/http://www.47news.jp/CN/201107/CN2011072801000573.html 2011年7月28日閲覧。 
  31. ^ “「日本沈没」SF作家・小松左京さん死去 80歳”. MSN産経ニュース (産経新聞社). (2011年7月28日). オリジナルの2013年10月4日時点によるアーカイブ。. http://megalodon.jp/2013-1004-2012-00/sankei.jp.msn.com/life/news/110728/bks11072815590000-n1.htm 2011年7月28日閲覧。 
  32. ^ ULS License - Vanity License - WA5PS - Sakyo Komatsu Memorial Amateur Radio Station(英語)連邦通信委員会無線通信局 コールサイン検索サイト
  33. ^ 世田谷文学館企画展小松左京展―D計画―”. 2019年10月21日閲覧。
  34. ^ 小松左京という壮大な宇宙に挑む『小松左京展―D計画―』 世田谷文学館にて”. 2019年10月21日閲覧。
  35. ^ 小松左京自伝ーー実存を求めて(第4章). 日本経済新聞出版社. (2008年2月19日). 
  36. ^ a b c 小松左京自伝ーー実存を求めて(第5章). 日本経済新聞出版社. (2008年2月19日). 
  37. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q SF魂(第3章). 新潮社. (2006年7月20日). 
  38. ^ a b c やぶれかぶれ青春期・大阪万博奮闘記(第二部). 新潮社. (平成30年10月1日). 
  39. ^ a b c d e SF魂. 新潮社. (2006年7月20日). 
  40. ^ やぶれかぶれ青春期・大阪万博奮闘記(第二部). 新潮社. (平成30年10月1日). 
  41. ^ a b c d e f g やぶれかぶれ青春期・大阪万博奮闘記(第二部). 新潮社. (平成30年10月1日). 
  42. ^ a b SF魂(第3章). 新潮社. (2006年7月20日). 
  43. ^ SF魂(第3章). 新潮社. (2006年7月20日). 
  44. ^ a b c d e f SF魂(第3章). 新潮社. (2006年7月20日). 
  45. ^ a b c d e f g やぶれかぶれ青春期・大阪万博奮闘記(第二部). 新潮社. (平成30年10月1日). 
  46. ^ a b c 小松左京自伝ーー実存を求めて(第7章). 日本経済新聞出版社. (2008年2月19日). 
  47. ^ 想像力が未来を拓(ひら)く~小松左京からのメッセージ~”. 2019年10月21日閲覧。
  48. ^ 小松 2008, pp. 95-97
  49. ^ 小松左京、原爆と震災で痛感「科学技術は災害も引き起こす。未来拓くのは想像力」”. 2019年10月21日閲覧。
  50. ^ “日本人は、大災害に必ず勝つ”と訴え続けた小松左京 文藝春秋BOOKS”. 2019年10月21日閲覧。
  51. ^ 好書好拾 戦後日本SFの総点検”. 2019年10月21日閲覧。
  52. ^ 石川 1996, pp. 303-305
  53. ^ 小松 2008, pp. 76-79、221-231
  54. ^ 安田 1977, p. 37
  55. ^ 野田昌宏『新版 スペース・オペラの書き方』早川書房ハヤカワ文庫JA〉、373・374頁。ISBN 978-4-15-030409-6
  56. ^ 小松 2008, pp. 80、232-239
  57. ^ a b SF魂(第4章). 新潮社. (2006年7月20日). 
  58. ^ 山田 1977, pp. 336-340
  59. ^ 中国SF「三体」異例のヒット 小松左京を愛読した著者”. 2019年10月26日閲覧。
  60. ^ a b 日本SF誕生ーー空想と科学の作家たち(第8章). 勉誠出版. (2019年8月5日). 
  61. ^ 小松 2008, pp. 89f
  62. ^ 小松 2008, pp. 258f
  63. ^ 小松 2008, pp. 86f
  64. ^ [1]
  65. ^ [2]
  66. ^ 「日本沈没」SF作家小松左京氏死去
  67. ^ 小松 2008, pp. 87f
  68. ^ 「怪人スケレトン博士」著者としての小松左京 小松左京ライブラリ
  69. ^ SIGNAL』VOL.1、光文社、2012年3月26日。ISBN 978-4-334-90186-8 所収。
  70. ^ 小松左京さんら幻の人形アニメ サンダーバード放送で断念 共同通信 2016年1月30日
  71. ^ SUNTORY SATURDAY WAITING BAR「小松左京」”. 2007年11月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年3月14日閲覧。
  72. ^ 小松 2008, p. 129
  73. ^ 小松 2008, p. 65
  74. ^ 小松 2008, pp. 260f
  75. ^ 小松左京「お召し」原案 萩尾望都先生の「AWAY-アウェイ」 小松左京ライブラリ
  76. ^ 小松 2008, p. 117 および、矢崎 2005 [要ページ番号]
  77. ^ 小松 2008, p. 93

参考文献編集

関連項目編集

外部リンク編集