小砂丘忠義

日本の教育者

小砂丘 忠義(ささおか ただよし、1897年明治30年)4月25日[1] - 1937年昭和12年)10月10日[1])は、日本教育者。本名は笹岡。生活綴方教育運動を主導[2][3]

履歴 編集

1897年明治30年)、高知県において生を受ける[2]。父は笹岡楠蔵、植林人夫で、母は芳いずれも18歳だった。[4]幼い頃から父と山で働いた。1917年大正6年)高知県師範学校を卒業すると、同県内の長岡郡東本山村杉の尋常高等小学校訓導になった[2]。その頃の彼の述懐はこうである。[5]

ー先づ綴方からーと考えて私は教壇に立った。何々式だの何々主義だのという縄張り内にこもる流行の嫌いな私である。(中略)綴方に何らののりはない。まして教授法などとかつぎ上げる秘法のありようがない。何かするには勿論、思考にも行為にもある角度をもつ万人万様り型はある。それを以ってここに教授法というのなら異論はない。綴方が越えたり越えなかったりするのりにくっつかれたら綴方はお陀仏である。かくすればうまくいくという、教授妙法があったとすれば、それは綴方造りの骨董いじりの暇つぶしに過ぎぬ。(日本作文の会編『生活綴方の伝統』)

小砂丘は、綴り方は「自己という個」の発見である、という。題材は、子どもに選ばせるか、教師が課すか。もろろん、「自由選題で自由な表現を待つ」というのが彼の大方針であり、そもそも文を書くか書かぬかも当然自由であるべきはずである。子どもの創作力の「全肯定」こそが自分の前提だ、と語っている。1917年(大正6年)、秋沢静尾と結婚、静尾は3年の結婚生活で結核のため死去。忠義は病気療養のため1年間休職。1922年(大正11年)、26歳で土佐郡鏡村梅木尋常小学校の校長になる。橋本等と再婚[6]。彼は9年間教師生活を続け、1925年(大正14年)に至って田井村田井第一尋常高等小学校校長を最後にこれを退き、東京において、池袋児童の村小学校を拠点としつつ、雑誌『教育の世紀』編集に携わる[2]1927年昭和2年)には、『鑑賞文選』という児童向けの綴り方雑誌の編集の中心となり、1929年昭和4年)、『綴方生活』という教師向けの雑誌を児童の村の教師をしていた野村芳兵衛峰地光重、小林かねよという先生たちと一緒に創刊、翌年には発行責任者に就き、運動を推進した[2]


顕彰 編集

  • 小砂丘忠義記念館[7] - 長岡郡大豊町のアルテ300内、小砂丘忠義の歩みと作品を展示。土讃線大杉駅下車 徒歩25分。

著作 編集

  • 『私の綴方生活』モナス 昭和13年
  • 笹岡忠義著・日本作文の会編『生活綴方の伝統: 小砂丘忠義十五周忌記念論稿集』百合出版 1953年

参考文献 編集

  • 大豊町史編纂委員会編『大豊町史 近代現代編』大豊町教育委員会 1987年(昭和62年)[8]
  • 津野松生『小砂丘忠義と生活綴方』百合出版 1974年
  • 竹内功『人間教師 生活綴方の父・小砂丘忠義』高知新聞社 1998年

脚注 編集

  1. ^ a b 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 2 (学術・文芸・芸術篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、490頁。
  2. ^ a b c d e 今野喜清 2003, p. 330.
  3. ^ 今野喜清 編『学校教育辞典 新版』教育出版、2003年。ISBN 4316349503 
  4. ^ 大豊町史編纂委員会, ed (1987). 大豊町史 
  5. ^ 浜田陽太郎、石川松太郎、寺崎昌男, ed (1978). 『近代日本教育の記録』中. 日本放送出版会 
  6. ^ 大豊町史編纂委員会 1987, p. 438.
  7. ^ https://www.attaka.or.jp/kanko/dtl.php?ID=1106
  8. ^ 大豊町史 近代現代編”. 2020年11月5日閲覧。

関連項目 編集