小笠原丸
小笠原丸(おがさわらまる)とは逓信省の海底電纜敷設船で、初の国産敷設船である。東京から小笠原諸島経由でグアムに接続する太平洋横断海底ケーブルの敷設を主目的に建造されたため「小笠原」と名付けられた。1945年8月22日いわゆる三船殉難事件で沈没し、600名以上の犠牲者を出した。
小笠原丸 | |
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小笠原丸。 | |
基本情報 | |
船種 | 電纜敷設船 |
クラス | 小笠原丸級電纜敷設船 |
船籍 |
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所有者 | 逓信省 |
運用者 |
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建造所 | 三菱合資会社三菱造船所 |
母港 | 東京港/東京都 |
姉妹船 | なし |
航行区域 | 遠洋/近海 |
信号符字 | JWRQ |
IMO番号 | 10089(※船舶番号) |
建造期間 | 429日 |
就航期間 | 14253日 |
経歴 | |
起工 | 1905年6月13日 |
進水 | 1906年6月12日 |
竣工 | 1906年8月15日 |
最後 | 1945年5月10日被雷沈没(三船殉難事件) |
要目 | |
総トン数 | 1,456トン |
登録長 | 74.10m |
垂線間長 | 74.14m |
型幅 | 10.36m |
型深さ | 6.78m |
高さ | 11.27m(水面から煙突最上端まで) |
ボイラー | 石炭専燃缶 |
主機関 | 三菱製三連成レシプロ機関 2基 |
推進器 | 2軸 |
最大出力 | 1,789IHP |
最大速力 | 13.085ノット |
航海速力 | 12.0ノット |
高さは米海軍識別表[1]より(フィート表記)。 |
概要編集
「沖縄丸」に続く日本で2隻目の海底ケーブル敷設船として計画された。「沖縄丸」がイギリス製だったのに対し、三菱合資会社三菱造船所で建造された本船は、初の国産海底ケーブル敷設船となった。竣工は1906年(明治39年)である。
就役した「小笠原丸」は、「沖縄丸」などとともに海底ケーブルの新規敷設や修理に従事した。1910年(明治43年)6月4日には、長崎県池島付近で遭難したロシア船を救助し、シャム王族一行および乗員100名を救出した。
太平洋戦争が勃発すると、軍の管理下で、引き続き海底ケーブルの敷設と保守に従事することになった。1945年2月16日には、下田港内でアメリカ航空母艦の艦載機の銃撃により損傷したが、沈没は免れた。1945年8月15日の日本のポツダム宣言受諾発表時には、同年6月から始まった北海道と樺太の間のケーブル敷設に従事していた。
1945年(昭和20年)8月15日の終戦を稚内港で迎えた小笠原丸は、樺太所在の逓信局長から逓信省関係者の引揚げを要請され、8月17日に稚内を出航し大泊港へ向う。樺太では樺太の戦いが続いており、混乱状態にあった。
8月20日再度大泊へ回航し、同じく約1500人の引揚者を稚内に運ぶ。8月21日、乗組員86名、警備隊員13名、稚内で下船しなかった引揚者約600人の合計約700人を乗せ小樽港へ向けて出航した。
攻撃による沈没編集
1945年8月22日午前4時20分頃、増毛沖5海里にてソ連潜水艦L-12に雷撃されて沈没[2]。一部の乗員が救命ボートで増毛町の海岸にたどり着き救援を求め救助活動が行われるが、ほとんどの乗船者が船と共に海中に没し合計638名(乗組員57名、引揚者581名)が犠牲となった(641人とされることもある[3])。生存者はわずか62名であった[4]。
北海道増毛郡増毛町の町営墓地には「小笠原丸殉難碑」が建てられており、毎年8月22日に町民により慰霊祭が行われている。また、北海道留萌郡小平町鬼鹿海岸には小笠原丸・第二号新興丸・泰東丸の犠牲者を悼む「三船遭難慰霊之碑」が建てられている。
船長編集
関連項目編集
脚注編集
- ^ Ogasawara_Maru
- ^ Morozov(2010年)、p. 151-153
- ^ 120作目『北の桜守』でも…吉永小百合が戦争に向き合う理由!「戦後70年を過ぎた頃から戦争の足音が近づいてきた」リテラ
- ^ 三船殉難事件~忘れてはならない終戦後の悲劇WEB歴史街道
- ^ 『私の履歴書 最強の横綱』p.200-201 日経ビジネス人文庫
参考文献編集
- 『官報』
- 吉村昭『総員起シ』昭和47年文芸春秋刊(文春文庫 よ 1-6) 文庫 – 1980
- Morozov M. E., Kulagin K. L. (2010). Pervie podlodki SSSR. "Dekabristi" i "Lenintsi". Moscow: Yauza. Eksmo. ISBN 978-5-699-37235-5.
外部リンク編集
- 小笠原丸 - NTTワールドエンジニアリングマリン、2013年2月15日閲覧。