小野修一

日本の将棋棋士

小野 修一(おの しゅういち、1958年2月12日 - 2008年1月11日[1])は、将棋棋士。棋士番号134。建部和歌夫八段門下。東京都生まれ。

 小野修一 八段
名前 小野修一
生年月日 (1958-02-12) 1958年2月12日
没年月日 (2008-01-11) 2008年1月11日(49歳没)
プロ入り年月日 1978年10月6日(20歳)
引退年月日 2007年3月31日(49歳)
棋士番号 134
出身地 東京都
所属 日本将棋連盟(関東)
師匠 建部和歌夫八段
段位 八段
棋士DB 小野修一
戦績
通算成績 541勝467敗(.537)
竜王戦最高クラス 1組(1期)
順位戦最高クラス B級1組
2015年2月1日現在
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人物・戦績編集

1982年度、新人王戦で棋戦初優勝。さらに、1984年度にも2度目の優勝。決勝三番勝負の相手は、それぞれ島朗中村修であったが、いずれも2-0のストレートで下している。決勝で小野に敗れた二人は、ほどなくしてタイトルホルダーとなる強豪であった[2]

1986年には、早指し新鋭戦で優勝。決勝の相手は、これも強豪の森下卓であった。

非公式棋戦では、1990年に第2回IBM杯戦で優勝。

1990年、順位戦B級1組に昇級し、七段となる。その後、順位戦での最高位はB級1組の3位(昇級争いの次点)であり、A級には惜しくもあと一歩足りなかった[3]。B級2組へ陥落した後も、8勝2敗での次点(3位)が2度もあるなど、昇級争いで奮闘した[4]

一時期、仙台市に住み、対局のたびに上京する生活を送っていた。

1995年、第8期竜王ランキング戦2組で準優勝し、1組への昇級を決めるとともに本戦トーナメントへ進出する。

健康上の理由で、2007年3月をもって現役を引退する[5]。通算541勝、勝率0.537という好成績を挙げている棋士が引退するのは、超一流の棋士を除いてはかなり珍しいことであった。それから1年も経たない2008年1月11日に虚血性心疾患により杉並区の自宅で死去[6][7]。享年49の早逝であった。

棋風編集

矢倉角換わり横歩取りなどを指すことが多い居飛車党。

昇段履歴編集

  • 1973年 6級 =奨励会入会
  • 1976年 初段
  • 1978年10月6日 四段 =プロ入り (奨励会三段昇段後13勝1敗により)
  • 1984年4月1日 五段(勝数規定
  • 1987年4月1日 六段(順位戦B級2組昇級)
  • 1990年4月1日 七段(順位戦B級1組昇級)
  • 2003年8月7日 八段(勝数規定)
  • 2007年3月31日 引退
  • 2008年1月11日 虚血性心疾患で死去、享年49
  • 2008年4月28日 死去の報告が日本将棋連盟から発表される

主な成績編集

通算成績

541勝467敗

棋戦優勝編集

在籍クラス

将棋大賞編集

  • 第11回(1983年度) 連勝賞[8]

その他表彰編集

  • 2003年 現役勤続25年表彰

著書編集

脚注編集

  1. ^ “小野修一氏死去/日本将棋連盟棋士8段”. 四国新聞社. (2008年4月28日). http://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20080428000321 2020年2月20日閲覧。 
  2. ^ 島は1988年度に竜王、中村は1985・86年度に王将2期
  3. ^ 結果論ではあるが、前半戦の対田丸昇戦で勝っていれば、田丸と入れ替えで小野がA級昇級していた。
  4. ^ このうち1度目の次点は、佐藤康光との競り合いに敗れたものであった。小野と佐藤は8勝2敗の同星で並んだため、前期の1勝の差で佐藤が小野を上回ったことにより、佐藤の方が昇級した。
  5. ^ 2006年度内引退棋士等|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月26日閲覧。
  6. ^ 小野修一氏死去 日本将棋連盟棋士8段”. 共同通信 (2008年4月28日). 2015年2月1日閲覧。
  7. ^ <訃報>小野修一八段、死去|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月26日閲覧。
  8. ^ 10連勝という数字ながら単独受賞となったケースは他に例がない。

関連項目編集

外部リンク編集