小野木重勝

安土桃山時代の武将
小野木重次から転送)

小野木 重勝(おのぎ しげかつ)は、安土桃山時代武将大名豊臣氏の家臣。丹波国福知山城主。別名に公郷(きみさと)重次など。

 
小野木 重勝
時代 安土桃山時代
生誕 永禄6年(1563年
死没 慶長5年11月18日1600年12月23日
別名 重次、公郷、公知、通称:清次郎
戒名 松樹院慮宗貞岳大居士
貞真院殿自性大居士
霊名 シメオン
墓所 京都府亀岡市本町の寿仙院
官位 従五位下縫殿助
主君 豊臣秀吉秀頼
氏族 小野木氏
正室:島清興
之明
特記
事項
一説にシメオンという洗礼名を持っていたのは正室であった島清興の娘とも。
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生涯 編集

永禄6年(1563年)、誕生。出自は不詳であるが、丹波の国人赤井直正に討たれた丹波福岡城主兎ノ木縫殿介(小野木縫殿介)の一族とする説がある。

織田氏の家臣・羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に仕え、秀吉が近江国長浜城主だった頃に直参の黄母衣衆、のちに大母衣衆となり活躍した記録がある。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに参加し、伊勢国神戸城山城国淀城を守備した。天正13年(1585年)、従五位下・縫殿助に叙位・任官される。

天正17年(1589年)、石田三成らと共に美濃国検地を務めている。天正18年(1590年)、小田原征伐にも参加し、天正20年(1592年)からの文禄の役にも参加して渡海し、晋州城攻撃に参加した。この朝鮮での戦いで重勝が足軽に着用させていた鉄製の兜は、徳川家康もその実用性を高く評価したと言う話が『常山紀談』にのこされており、後に「小野木笠」と呼ばれたという。文禄3年(1595年)には、丹波福知山4万石の城主に封じられた。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては豊臣恩顧の大名として西軍に与し、7月には大坂鰻谷町橋を守備し、のちに但馬国や丹波の諸大名・1万5000の軍勢を率いて細川幽斎が守る丹後田辺城(舞鶴城)を攻撃し、これを開城させた(田辺城の戦い)。ところが、9月15日の本戦では西軍が敗北したため、丹後田辺城から福知山城に撤退する。ほどなく幽斎の子・忠興木下延俊らの軍勢に取囲まれ開城した。籠城の間、井伊直政前田茂勝を通じて徳川家康に助命を請うていたが、忠興によって丹波亀山城下の浄土寺嘉仙庵[1]において自刃させられた。享年38。また、自刃の知らせを聞き、妻も自害して果てたという。

首は京都三条河原に曝された。墓は自刃した亀岡市の寿仙院にある。

妻は島清興の娘でジョアンナの名前で知られるキリシタンであり、閨秀歌人としても知られており、高台院に仕えていた[2]

脚注 編集

  1. ^ 現・寿仙院
  2. ^ 村井益男 著「キリシタンの女たち」、笠原一男 編『彼岸に生きる中世の女』評論社〈日本女性史3〉、1976年。