小野為八

江戸時代幕末の医者・長州藩医

小野 為八(おの ためはち)は、江戸時代幕末の医者・長州藩医。名は正朝(まさとも)。

 
小野 為八
時代 江戸時代末期
生誕 文政12年4月8日1829年5月10日[1]
死没 明治40年(1907年8月21日
改名 正朝
別名 等魁(号)
墓所 海潮寺(山口県萩市
主君 毛利敬親
長州藩藩士
父母 山根文季
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来歴 編集

長州藩医・山根文季の長男として萩・香川津に生まれ、同じく藩医の小野春庵の養子となった。天保15年(1844年)吉田松陰に兵学を学ぶ。安政2年(1855年)父とともに相模国沿岸警備の任に就き、その傍らで西洋砲術を学んだという。安政5年(1858年)松陰の間部詮勝暗殺計画に加わり、兵器・地雷火の実験の際には松陰を背負ってその実験を見学させたという逸話が伝わる。文久3年(1863年下関戦争では軍艦・癸亥丸に乗船して砲戦を指揮した。また奇兵隊結成にも加わり、兵たちへの砲術指南を担った。慶応元年(1865年)に長州藩諸隊の一つである鴻城隊の砲隊長となり、慶応2年(1866年長州征討でも砲隊を指揮した。明治元年(1868年)には整武隊で大砲司令を務めた。

維新後は科学者としてバター製造や写真術にも携わった。明治23年(1890年)に黒住教に入信し、布教活動も行っている[2]

生まれ育ちともに医家の出身だが、医術には携わらなかった。また雲谷派の絵師でもあった。

脚注 編集

  1. ^ 海原徹『松下村塾の人びと: 近世私塾の人間形成』(ミネルヴァ書房、1993年)
  2. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus

参考文献 編集

外部リンク 編集