屋良朝久(やら ちょうきゅう、万暦30年(1602年) - 康熙2年(1663年[1])は、琉球王国第二尚氏王統王族。第三代国王尚真の第四王子尚龍徳・越来王子朝福の孫。唐名は向成章、大和名は屋良按司朝久。

琉球王国第二尚氏王統第三代国王尚真の第四王子尚龍徳の孫。向恭安の次男。嘉味田殿内の分家三世。兄の向成名・朝重が島添大里王子朝長(尚寧王の従兄弟)の娘(勢能君)へ婿入りして島添大里間切総地頭を継承したことにより、父親の跡目となり越来間切総地頭を継いだ。しかし、朝重は離婚して実父の跡目に戻り、順治2年(1645年)、喜屋武間切の総地頭に転任。朝久は屋良按司となった[2]。墓は近年子孫ら(屋良家、仲地家、新田家など)により首里から宜野湾市喜友名に移された。

次男に冨茂昌・新田親方宗則(耳目官、物奉行)、子孫に元沖縄県知事屋良朝苗、その長男で琉球大学名誉教授屋良朝夫、政治活動家屋良朝助、お笑いタレントパッション屋良(本名、屋良 朝苗)、沖縄芝居師仲地宗寛などがいる[要出典]

系譜 編集

屋良按司一家は本家である喜屋武御殿(のちの嘉味田殿内)と不仲であったことが伝わっており、朝久の長男は平民に落とされ、次男は尚豊王夫人・眞南風按司の養子になることで首里に残り、残った三男が屋良按司を継いだものの北谷に左遷された。


  • 室:不詳
    • 長男:向思忠・朝休(按司の位を放棄して西原間切に落ちる。西原親方を追号[3]
    • 次男:冨茂昌・新田親方宗則(朝則)(尚豊王夫人・眞南風按司の猶子)
    • 三男:向思泰・屋良按司朝林

参考文献 編集

  1. ^ 向氏屋良門中世系図、系図編集委員会
  2. ^ 士族門中家譜・球陽出版
  3. ^ 「氏集」那覇市文化振興課(那覇市歴史博物館)

関連項目 編集