山下三郎 (政治家)

政治家

山下 三郎(やました さぶろう、1930年昭和5年)1月1日[1] - )は、日本の政治家。元広島県廿日市市長(4期)[2][3]広島市への原子爆弾投下における被爆者の一人。

山下 三郎
やました さぶろう
生年月日 (1930-01-01) 1930年1月1日(94歳)
出生地 広島県
出身校 山陽中学校(現・山陽高等学校
称号 旭日中綬章
親族 子・山下智之(広島県議会議員)

当選回数 4回
在任期間 1991年11月3日 - 2007年11月2日
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生い立ちと被爆体験 編集

幼時に両親を失い、広島県佐伯郡宮内村の山下家に養子として入った[4]

旧制山陽中学校(後の山陽高等学校の前身校)の生徒だった15歳のとき、学徒動員されていた先の広島市内の工場で被爆した[3][4]

経歴 編集

戦後、一時期は県職員として働いたり、農業に従事していた[3][5]

1955年、25歳で宮内村議会議員となり、以降、合併などにより、廿日市町議会議員、廿日市市議会議員を歴任した後、1991年に廿日市市長に初当選し、以降4期を務めた[2][4]。この間、佐伯中央農協理事、道路管理会社社長、廿日市市議会議長、市土地開発公社理事長などの役職を歴任した[6]

1991年の初当選、1995年の再選は、いずれも無投票での当選であった[7]1999年の3選では共産党公認[6]2003年の4選では無所属の対立候補に、いずれも大差をつけて当選した[8]

山下は、被爆者としての証言活動を、市長になる前から、長く続けていたが[3]、市長在任中も、「被爆市長」として、小学校や、各種の集会に出向いて被爆体験講演を続け、2005年には、国連本部における核不拡散条約 (NPT) 再検討会議の際に、日本非核宣言自治体協議会副会長としてニューヨークに出向き、被爆体験を語った[4][5]。また、近隣に位置する岩国基地の増強には反対の姿勢を貫いた[9]

山下市政の時代には、自由民主党から新社会党まで、ほぼオール与党という体制の下で、広島県西部のベッドタウンとしての人口増、平成の大合併による市域の拡大などを受け、大規模な公共事業が多く取り組まれたが、それによって市の財政は悪化したとされる[10][11][12][13]。後継の市長には、副市長だった眞野勝弘が当選した[13]

日本赤十字広島看護大学の誘致や[6]、二次にわたる広域合併を通した市域の拡大も、市長在任中の業績に挙げられる[3]

市長引退後は、広島県社会福祉協議会会長などを務めた[4]

2005年には、私家版の自叙伝『地方自治一筋に : 政治生活50年の歩み:山下三郎自叙伝』を刊行した[14]

栄典 編集

2008年春の叙勲では、旭日中綬章を受章した[15]

家族 編集

山下家

脚注 編集

  1. ^ 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、347頁。
  2. ^ a b 「みんなのエネルギー・環境会議 広島」主なプログラム”. みんなのエネルギー・環境会議 広島. 2015年9月23日閲覧。
  3. ^ a b c d e “[語りたい伝えたいヒロシマ]第2部(272)山下三郎さん78(連載)”. 読売新聞・大阪朝刊. (2008年6月14日)  - ヨミダス歴史館にて閲覧
  4. ^ a b c d e 清水謙司 (2014年6月18日). “(聞きたかったこと 被爆から69年)山下三郎さん 被爆市長の誓い、今も”. 朝日新聞・朝刊・広島: p. 32  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  5. ^ a b “(ひと)山下三郎さん 「被爆市長」としてNPT再検討会議にあわせ訪米”. 朝日新聞・朝刊: p. 2. (2005年5月2日). "戦後は広島県庁で働いたり農業をしたりした。廿日市市議を経て91年、同市長になり、小学校や公民館などの集会で被爆体験を話し始めた。「出前講座」としての証言は、年30~40回を数える。"  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  6. ^ a b c “山下三郎氏が3選果たす 廿日市市長選”. 朝日新聞・朝刊・広島: p. 33. (1999年10月25日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  7. ^ “引退(首長の椅子 地方自治の現場から第1部:4)”. 朝日新聞・朝刊・広島: p. 21. (1999年1月7日). "県内でも首長の無投票当選が後を絶たない。... 現在、86市町村長のうち、一度も投票の洗礼を受けたことがないのは、山下三郎・廿日市市長、... ら16人を数える。"  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  8. ^ “廿日市市長に山下三郎氏4選”. 朝日新聞・朝刊・広島: p. 26. (2003年10月27日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  9. ^ 八百板一平 (2007年10月12日). “(拠点都市の行方 廿日市市長選:上)基地問題に関心を 宮島の騒音を危惧”. 朝日新聞・朝刊: p. 26. "被爆者でもある山下三郎市長は「住民への騒音被害や宮島の歴史、文化、生態系への影響が懸念される」として、一貫して岩国基地の増強に反対の姿勢を示してきた。"  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  10. ^ “廿日市市長選 巨額債務どう解消(解説)”. 読売新聞・大阪朝刊・広島. (2007年10月22日)  - ヨミダス歴史館にて閲覧
  11. ^ “「候補者はこんな人」 廿日市市長選”. 朝日新聞・朝刊・広島: p. 27. (1999年10月19日). "「まずは都市基盤の整備を」と一九九一年の就任以来、新庁舎や文化センター、図書館の建設などを次々と進めてきた。六月市議会で立候補を表明、... 自民、民主、公明、社民、新社会の各党から推薦を取りつけ、「二期八年の実績が評価された」と自信を見せる。しかし、度重なる施設の建設などで累積した市債は九八年度末で約二百九十三億円。"  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  12. ^ 八百板一平 (2007年10月14日). “(拠点都市の行方 廿日市市長選:下)箱モノ行政のツケ 厳しい財政”. 朝日新聞・朝刊: p. 28. "廿日市市は広島市のベッドタウン化や「平成の大合併」を経て人口も市域も急速に大きくなった。同時に95年に市スポーツセンター、97年には市庁舎、02年に健康福祉センターを建設するなど、「箱モノ」づくりに多額の予算を投じてきた。"  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  13. ^ a b 八百板一平 (2007年10月22日). “真野氏が初当選 豊富な行政経験期待 廿日市市長選”. 朝日新聞・朝刊・広島: p. 28. "大型公共事業で悪化した市財政の立て直し、行政改革、人口増と急速な市域の拡大をもたらした「平成の大合併」後のまちづくりなどが争点になった。"  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  14. ^ 地方自治一筋に : 政治生活50年の歩み : 山下三郎自叙伝 山下三郎”. 国立国会図書館. 2015年9月23日閲覧。
  15. ^ “春の叙勲 国内の主な受章者と海外関係分”. 朝日新聞・朝刊: p. 32. (2008年4月29日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  16. ^ a b c d 山下 智之議員広島県議会公式サイト。2021年1月19日閲覧。
  17. ^ 望月昭. “事務所/講演会案内”. 山下さとし. 2015年9月22日閲覧。 “国会議員秘書として政治を学び、市長を父に持つ山下君は、生まれた時から政治にかかわり、父・山下三郎さんの背中を見て育ちました。”
  18. ^ a b 山下広島県議「買収目的と感じた30万円受領認める 河井元法相公判(2021年1月14日)、中国新聞デジタル。

外部リンク 編集

先代
半明英夫
  広島県廿日市市長
第2代:1991年 - 2007年
次代
眞野勝弘